ギブ一家では、父のヒュー(前列左)は末弟のアンディ(前列中)が1988年に亡くなった後を追うように4年後に亡くなる。
母のバーバラ(前列右)と2つ上の姉レスリーはまだ存命だが、母は93歳で、車椅子で生活している。すっかり落胆して、3人の息子たちの死から立ち直れずにいるという。
4人目のビージーズとまで言われた元マネージャーのロバート・スティグウッド(写真)が今年の1月4日(現地時間)に亡くなったという報せが。享年81歳だった。
ビージーズは1967年にロバート・スティグウッドに見出されて世に出たバンド。彼との出会いがなければ、ビージーズの物語もずいぶん違うものになっていたことだろう。
ロビンが亡くなってからもう4年になろうとしている。
ロビンが亡くなってからもう4年になろうとしている。
ビージーズは、通算2億3千枚以上のレコード売上と言われ、クラシックの「3B」ーバッハ、ベートーヴェン、ブラームスにもじって、ポピュラー音楽の「3B」ービートルズ、ビーチ・ボーイズと並んで称されている不滅のスターたちだ。
今回は、前作で重複する部分は大目に見ていただき、ギブ兄弟のストーリーを中心にお伝えしていきたい。
もちろん、ビージーズのCDは持っている。「ビージーズ・ヒストリー」というベスト・アルバム。1989年というから、買ったのはもう27年も前のことである。
2. ラヴ・サムバディ
3. マサチュー・セッツ
4. ホリディ
5. ワーズ
6. 獄中の手紙
7. イン・ザ・モーニング
8. メロディ・フェア
9. 想い出を胸に
10. ロンリーディ
11. 傷心の日々
12. ジャイヴ・トーキン
13. ユー・シュッド・ビー・ダンシング
14. 愛はきらめきの中に
15. ステイン・アライヴ
16. 恋のナイト・フィーヴァー
17. 失われた愛の世界
18. 哀愁のトラジディ
19. リヴィング・アイズ
末弟のアンディ・ギブまで含んだ簡単な年表を作ってみた。(下図)
なお、彼は4人目のビージーズのメンバーとして計画していたこともあるそうで、ロビンとモーリスが双子の兄弟だったように、長兄のバリーと歳は違うが見かけも歌い方もまるで双子のようにそっくりだった。
ギブ兄弟は、オートバイレースで著名な英国・マン島に生まれた。1946年9月1日にバリー、1949年12月22日にロビンとモーリスが二卵性双生児として誕生。1950年に父の故郷、英国・マンチェスターに移る。父の仕事の関係で引っ越しが多かった。貧しい家庭だったので仕事のあるところに移動するしかなかったそうだ。
1955年、ギブ兄弟は教会の合唱団に所属しキャリアをスタートさせる。
一番下の弟、アンディはマンチェスターで生まれたばかりだった。
1960年に入るとテレビとラジオのレギュラー番組を持つようになり、1963年にフェスティバル・レコードより『三つのキッス』でレコードデビューする運びとなり、以後は国民的規模の人気を博すこととなる。 英米ミュージシャンの多くは黒人音楽に少なからずも影響を受けたが、ビージーズはエヴァリー・ブラザースからの影響を強く受けた。ビージーズはギブ3兄弟を中心に結成されたが、1972年からは完全に兄弟のみのトリオ編成となった。全員共通してボーカルを担当。
ビージーズの生涯のハイライトは1967年だという。
英国・ロンドンに帰国したギブ兄弟は、ドラマーのコリン・ピーターセン、ヴィンス・メロニーをリードギターに迎え、5人編成として1967年5月にポリドール・レコード本社より「ニューヨーク炭鉱の悲劇」(全米14位)でレコード・デビュー。アメリカでの発売元であるアトコ・レコード(アトランティック・レコードの子会社)が、新人では前代未聞の25万ドルで契約し、話題騒然となる。
以後、「ラヴ・サムバディ」(同17位)、「ホリディ」(同16位)、「マサチューセッツ」(同11位)、「ワールド」(全英9位)と続く。
以後、「ラヴ・サムバディ」(同17位)、「ホリディ」(同16位)、「マサチューセッツ」(同11位)、「ワールド」(全英9位)と続く。
「トップ・オブ・ザ・ポップス」でアシスタント役をしていたリンダにバリーがお茶に誘ったとき、ビージーズは「ニューヨーク炭鉱の悲劇」、「ラヴ・サムバディ」のヒット2曲を出してはいたものの、まだ国際級のスーパーグループに生まれ変わる前だった。
やがて彼らは夢にも見なかったような大成功をおさめ、大金持ちになる。音楽業界では珍しく、もう結婚生活は50年近くに及び、4人の息子と娘が1人、さらに5人の孫がいる。アイルランドのコンサートには全員が来るそうだ。
なお、彼は1975年、イボンヌ・スペンスリーと再婚、二人の子どもに恵まれてマイアミに居を構えた。
LuLu& M Gibb - 若葉のころ(First of May)(1969年)
ホリディ/マサチュー・セッツ(1967年)
その後再婚して17年になる妻のドゥイーナは彼と同じようなスピリチュアルな考えの持ち主で、その芸術家気質にも大きな影響を受けたという。1982年に息子のロビン・ジョンが生まれた。
1969年、「若葉のころ」(First of May)は、バリーのリード・ボーカルでレコーディングし、1969年のダブル・アルバム『Odessa』に収録され、シングル盤としても発売された。シングル盤のB面は、ロビンがリードを歌う「ランプライト」 (Lamplight)だった。
ロビンは自分の曲「ランプライト」をアルバムからの最初のシングル盤にしたいと望んでいたが、バリーは「若葉のころ」の方がよいと考えていた。結局、バリーの判断が採用され、ロビンはバンドをやめた。
このとき兄弟の間の溝は深まり、ついに1969年には短いあいだビージーズといえばモーリスひとりというときまであった。それでも喧嘩中のふたりの兄との交流を保ち、なんとかグループのハーモニーを取り戻そうと奮闘したのもモーリスだった。
その後、ロビンはビージーズに復帰して 1970年に出したシングル「ロンリー・デイ」(Lonely Days) は全米第3位と、彼らにとってアメリカで最高順位を記録したヒットとなった。
さらに、翌年に出したシングル「傷心の日々」(How Can You Mend a Broken Heart) は念願の全米第1位を記録したが、その後彼らの勢いは弱まり始めた。
1974年にアリフ・マーディンよりプロデュースを受け、ブルー・アイド・ソウル・スタイルへ転換したことで、1970年代後半のディスコ自体による彼らの大成功時代へつながった。
ところで、彼らを初めて知ったのは何時だろうか。
多分そのとき、ホリディやマサチューセッツに出会ったと思う。
それでは、自分の好きな曲のベスト3を聴いてこのストーリーを終わりにしたい。
第3位:One(1989年)
第2位:Stsyin' Alive (1977年)
第1位:In The Morning (1971年)
モーリス・ギブと、ロビン・ギブのご冥福をお祈りします。