童謡は、大正時代に誕生した。
1918年(大正7年)7月1日に「赤い鳥」という児童文芸雑誌が創刊された。
35歳という当時では高齢で子をもうけた三重吉は、娘が心豊かに育つように歌を歌ってやろうと思ってもほとんどなく、本を読んでやろうとしても、書店に適当な本はなかった。
その頃、子ども向けの本と言えば、戦争の英雄を描いたようなものか、俗悪な内容や挿絵のようなものばかりだった。当時、大正時代は日清・日露戦争の影響を強く受けて、教育も「お国のためになる」ことに向けられていた。小学校で教わる唱歌も、教訓的な物や愛国的なものがほとんどだった。
彼の息子・西條八束は、その著『父・西條八十の横顔』(風媒社)の中で、「これによって父は童謡を書くようになった。三重吉氏の訪問はよほどうれしかったらしく、その話は何回か父から聞いた記憶がある」と書いている。
三木露風は童謡担当者となることを断った。
三木露風は童謡担当者となることを断った。
子どもの美しい空想や感情を育てる詩と歌を創作する、大正の一連のこの動きを「大正期の童謡運動」という。
この運動は、自由主義を求める動きである大正デモクラシーの影響下にあり、歌詞が難解な唱歌に対する創作運動でもあった。
一般に呼ばれる「童謡」とは、この童謡運動及びこれ以後に作られた「子どものための歌曲」と定義することができる。
「赤い鳥」は、軍国主義の足音が聞こえてくる中、1929年(昭和4年)に休刊、1936年(昭和11年)に廃刊となったが、当時の童謡は、今でも多くの人々に歌い継がれている。
現在、日本童謡協会は『赤い鳥』が創刊された7月1日を「童謡の日」と定めている。
大正時代に活躍した作詞・作曲家と、主な名曲を一覧表にしてみた。
これを見ると、もちろん次のことに気づくだろう。
今、口ずさんでいる童謡の多くは大正時代(1912年~1926年)に生まれていることである。
大正を迎えたとき、中山晋平25歳、山田耕筰26歳、北原白秋27歳、野口雨情30歳、本居長世26歳、そして西條八十が20歳という若さであった。
童謡が大正期に隆盛を迎える「おぜん立て」は整っていたのである。
ここでは、その内の名作曲家の2名を紹介しておきたい。
●中山晋平
第一号作品は、1914年(大正3年)、彼が27歳のとき、島村抱月(1918年、47歳で没)が松井須磨子(1919年、32歳で没)らと旗揚げした「芸術座」に参加。トルストイ『復活』公演の劇中歌『カチューシャの唄』を作曲。松井須磨子の歌によって大流行となり、一躍有名になった。
そして、今からちょうど100年前の、1915年(大正4年)公演したツルゲーネフ『その前夜』の劇中歌『ゴンドラの唄』(作詞:吉井勇)も大人気となったが、この曲は、母の死の直後、悲しみに暮れる帰りの汽車の中で『ゴンドラの唄』の歌詞が語りかけてきて、汽車の揺れとともに、自然と旋律がわいてきたという。(第984話:ゴンドラの唄参照)
黒澤明監督作品「生きる」(1952年)で、志村喬演じる主人公が雪の降る夜ブランコをこぎながら、この歌を口ずさむシーンも印象的だった。彼は、この映画を見届けた後倒れ、帰らぬ人になった。
童謡界の三大詩人と謳われた野口雨情、北原白秋、西条八十との共作も多い。
◆野口雨情とは、「雨降りお月さん」(雨降りお月さん 雲の蔭…)、「シャボン玉」(しゃぼん玉 飛んだ 屋根まで飛んだ…)、「証城寺の狸囃子」(証 証 証城寺証城寺の庭は…)、「あの町この町」(あの町この町 日が暮れる 日が暮れる…)、「黄金虫」(こがね虫は かねもちだ金ぐら立てた くら立てた…)、「兎のダンス」(ソソラソラソラ兎のダンス…)と、「波浮の港」、「船頭小唄」などの歌謡曲。
◆北原白秋とは、「砂山」(海はあらうみ むこうは佐渡よ…)、「アメフリ」(雨 雨 降れ 降れ母さんが…)など。
◆西條八十とは、「肩たたき」(母さんお肩をたたきましょう…)、「毬と殿様」(てんてんてんまり…)など。
中山晋平記念館(長野県中野市)
田端典子/雨ふりお月さん(1925年)
「雨降りお月さん」は、作詞:野口雨情、作曲:中山晋平による童謡・唱歌。1925年(
大正14年)の「コドモノクニ」正月増刊号で発表された。
家の前で多くの村人がヒロの到着を「今か今か」と待ちわびていて、迎えた雨情は、白無垢姿の花嫁の濡れた綿帽子を心優しくはずした。これが、2人の初めての対面で、この詩はそのときのことを歌ったものだ。
久保木桂子/あの町この町(1924年)
関東大震災の翌年の発表で、歌にも当時の様子が反映されている。雑誌「コドモノクニ」を発行していた東京社は、焼跡にバラックを建築した。
子供が登場しないのに子供を歌った童謡で、「あの町この町」「今きたこの道」「お家」も、どこの町でしょうか。どこへ行く道でしょうか。お家はどこにあるのか。「あの町この町」は、特定の町ではなく歌う人の思い描く町であり、帰ろうとしているはずなのに、家がだんだん遠くなっていくという部分が秀逸。
また、繰り返される「ひがくれる ひがくれる」「かえりゃんせ かえりゃんせ」は、民謡の匂いを生かした、この歌の重要な部分です。日本人は、このような歌が大好き。二回目は少し弱く歌うと、こだまのように余韻を残す響きとなる。(池田小百合 なっとく童謡・唱歌参照)
北原白秋作詞、中山晋平・山田耕筰作曲/砂山(1922年)
1922年(大正11年)6月、北原白秋は新潟で童謡音楽会に招かれ、2千人あまりの小学生に熱烈な歓迎を受けた。
一つの詞に複数の作曲家がそれぞれ曲を作ることは珍しいことではなく、他にも成田為三や宮原禎次などがこの詞に曲を作っている。とはいえ、通常これらの曲のうち1曲だけが人気を獲得し、それ以外は歌われなくなり忘れ去られてゆくことがほとんどであり、2曲が現在に至るまで歌い継がれているのは非常に珍しい例といえる。
桑名貞子/肩たたき(1923年)
この歌の最大の魅力は、肩たたきの音、「タントンタントンタントントン」という擬声語が入っていることで、そのような歌は他にない。肩をたたく時の歌として日本中で親しまれた。
「西條八十童謡全集」(新潮社)に掲載されている西條八十が書いた解説で。彼は、「この歌には忘れ難い追憶がある」と言っている。
「大正十二年(1923年)の秋、四歳の短かい生涯を以てわれらの温かき團楽を去つた亡兒・慧子(けいこ)は、私が「幼年の友」のために書いたこの謡を殊のほか愛誦してゐた。
中山晋平の故郷、長野電鉄長野線の信州中野駅前に銅像がある。「着物の上にエプロンを着た」お母さんの肩を、「髪の毛を三つ編み」にした「短い釣りスカート」の女の子がたたいている。昭和三十年代に流行ったスタイルである。(写真)(池田小百合 なっとく童謡・唱歌参照)
●本居長世
1908年(明治41年)東京音楽学校本科を首席で卒業、日本の伝統音楽の調査員補助として母校に残る。なお、同期にやはり作曲家となる山田耕筰がいる。また、このときの教え子に中山晋平や弘田龍太郎がいる。
1918年(大正7年)「如月社」を結成。この如月社で本居長世の作品を独唱したのが美しいテノールの音色を持つバリトン歌手、藤山一郎(東京音楽学校声楽科出身で、慶應義塾普通部のころから本居長世のところに出入りしていた)である。また彼は宮城道雄や吉田晴風らの新日本音楽運動に参加、洋楽と邦楽の融合を模索した。
折から、鈴木三重吉による児童雑誌『赤い鳥』が創刊され、従来の唱歌に代わる「童謡」と呼ばれる新しい歌が人気を博していた。
これに呼応し1920年(大正9年)中山晋平の紹介によって斎藤佐次郎による児童雑誌『金の船』より『葱坊主』を発表。
同年、新日本音楽大演奏会で発表した『十五夜お月さん』は、当時8歳だった長女・みどりが熱唱、驚嘆した聴衆が当時としてはまれであったアンコール演奏を行わせたほど、子どもとは思えない歌唱力を披露した。以後野口雨情等と組んで次々に童謡を発表する。
貴美子はこれも父の曲、「青い眼の人形」(1921年)、若葉は「汽車ぽっぽ」(1927年)を歌った。
1923年(大正12年)関東大震災により甚大な被害が発生すると、日系米国人を中心に多くの援助物資が贈られた。その返礼として日本音楽の演奏旅行が企画され、本居長世も2人の娘等とともに参加し、アメリカ合衆国各地で公演を行った。
十五夜お月さん(1920年)
「十五夜お月さんごきげんさん」の歌い出しで始まる童謡『十五夜お月さん』は、雑誌「金の船」誌上で1920年に発表された。
『十五夜お月さん』誕生に最も影響を与えたのは、2年前の1918年に創刊された童話・童謡雑誌「赤い鳥」の存在が大きい。
同年11月号に掲載された西條八十の童謡詩『かなりや』は、半年後に成田為三の作曲による楽譜が掲載され、はじめてメロディが付いた童謡が世に送り出された。
このメロディ付き童謡が大きな反響を呼び、新たな時代の音楽運動としての「童謡」が一世を風靡する中、1919年、斎藤佐次郎により童謡・童話雑誌「金の船」が創刊され、初代編集長に野口雨情が迎えられた。
その創刊に賛同した中山晋平は、東京音楽学校本科を首席で卒業した元ピアノ科助教授の本居長世を紹介。
こうして巡り合った野口雨情、本居長世の二人はタッグを組み、その後も、1921年7月号『七つの子』、1921年10月号『青い眼の人形』、1922年『赤い靴』など、今日まで歌い継がれてる童謡の名曲を「金の船」上で次々と世に送り出していくのである。(世界の民謡・童謡参照)
続く。Wikipedia 参照。