最近、コミックソングと言う題目のブログを3回に分けて投稿したが、大正時代の事柄が多く、ここで大正ロマンとか大正デモクラシーと呼ばれる、この日本史で一番短いとされる14年間の時代のことを調べてみたくなった。
「大正」の由来は『易経』彖伝・臨卦の「大亨以正、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)から。「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。
■大正時代(1912-1926年)の大きな出来事
大正時代の大きな出来事を3つ挙げるとすれば、



ではないだろうか。
■大正時代の政治・経済事情
●大正デモクラシー
1912年(大正元年)は辛亥革命が終わって中華民国が成立した年で、この時期の世界は、第一次世界大戦が起こった時期でもあり、その結果として敗れた帝国が続々と解体されて、ヴァイマル共和国など共和制国家が多数成立した。
大正年間を通じて大正ロマンと呼ばれる、都市に享楽的な文化が生まれる反面、スラムの形成、民衆騒擾の発生、労働組合と小作人組合が結成されて、労働争議が激化するなど社会的な矛盾が深まっていく。
そして、2度に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、明治以来の藩閥支配体制が揺らいで、政党勢力が進出した時代でもあった。
しかし、原はその登場期に期待された程の改革もなさないままに終わり、1921年(大正10年)、大塚駅員だった一青年の中岡艮一により東京駅構内で暗殺された。
この間、普選運動が活発化して、平塚雷鳥や市川房枝らの婦人参政権運動も活発となった。1925年(大正14年)には、普通選挙法が成立したが、同時に治安維持法が制定された。
言論界も活況を呈して、君主制と民主主義を折衷しようとした吉野作造の民本主義や美濃部達吉の天皇機関説などが現れた。
●第一次世界大戦(1914年~1918年)
イギリスがドイツに宣戦すると、日本は日英同盟に基づいて、1914年8月23日にドイツ帝国へ宣戦を布告し連合国の一員として第一次世界大戦に加わり、帝国陸軍はドイツが権益を持つ中華民国山東省の租借地青島を攻略、さらに海軍はドイツが植民地支配していた南洋諸島(ミクロネシア)を攻略した。
ついで大戦のためヨーロッパ諸国が中国問題に介入する余力のないのを利用して、1915年(大正4年)に袁世凱政府に、加藤高明外相が二十一か条の要求を提出(対華21ヶ条要求)するなど、政治・経済・軍事にわたる中国における日本の権限を拡大しようと務めた。
●バルトの楽園
青島陥落後、ドイツ兵は捕虜として日本に連行され、十数か所の収容所に1919年まで捕虜生活を送った。
その中でも特に板東俘虜収容所(徳島県)、習志野俘虜収容所(千葉県)、似島俘虜収容所(広島県)は有名で、このとき人道的に扱われたドイツ捕虜からソーセージや、バウムクーヘンなどのノウハウや、クラシック音楽・ドイツ体操などが捕虜収容所周辺地域に伝授されるなどの文化交流があった。サッカーやテニス、ベートーヴェンの「第九」も日本ではここから広まったと言われている。
板東俘虜収容所は、「バルトの楽園」という題名で、2006年松平健主演により映画化された。(映像)
●ロシア革命(1917年)とシベリア出兵(1918年~1922年)
第一次世界大戦では、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアからなる中央同盟国(同盟国とも称する)と、三国協商を形成していたイギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国(協商国とも称する)の2つの陣営に分かれ、日本、イタリア、アメリカ合衆国も後に連合国側に立ち参戦した。
この戦争はボリシェヴィキがロシア革命を起こす契機となり、20世紀に社会主義が世界を席巻する契機ともなった。
戦争が長期化するにつれて、ロシア政府や王政の戦争指導に対し、兵士と民衆の不満が増大した。皇帝ニコライ2世は積極的に前線を視察したが内政不安についての現状認識が欠けたままであり、皇后アレクサンドラは政治を怪僧グリゴリー・ラスプーチンに一任したため、更に無能だった。こうして各方面から抗議が巻き起こり、1916年末に保守的な貴族によりラスプーチンが暗殺される事態に至る。
1917年3月、首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)で起こったデモが拡大し、ニコライ2世は遂に退位を宣言、中道派臨時政府が成立した(ニ月革命)。
だが戦線と国内の両方で手の付けられない大混乱が続いた。ウラジーミル・レーニンが指導する急進的な左翼党派ボリシェヴィキは、こうした混乱を権力を獲得するために戦略的に使用した。11月、ボリシェヴィキは武装蜂起しペトログラードの要所を制圧し、臨時政府を打倒した(十月革命)。
ソ連が誕生したことにより、国民の一部に赤化(共産主義)思想が広まり、共産主義革命の発生を懸念した政府は治安維持法を制定(1925年)し、共産主義的な運動に対しては規制がかけられる形となった。
シベリア出兵(Siberian Intervention)とは、1918年から1922年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ。
日本では、大戦による急激なインフレーションとシベリア出兵を見越した米の買い占めによって国内では米価が暴騰して、1918年(大正7年)8月には富山県の漁村で主婦達が米の安売りを要求したことが新聞に報道されると米騒動が全国に広がった。さらに労働者の待遇改善、小作人の小作料引き下げの運動も起こった。
日本は兵力7万3,000人(総数)、4億3,859万円から約9億円(当時)という巨額の戦費を投入。3,333人から5,000人の死者を出し撤退した。「なに一つ国家に利益をも齎すことのなかった外交上まれにみる失政の歴史であある」と言われている。
●関東大震災(1923年)
同年9月1日午前11時58分、マグネチュード7.9(または8.2)の巨大地震が関東地方を襲い、死者10万、負傷10万3千、行方不明4万を出し、家屋25万戸が全半壊、45万戸が焼失する空前の大被害となった。とくに東京の下町の被害は壊滅的であった。(写真)
この未曾有の大災害の後、山本権兵衛内閣が成立した。新内閣の内務大臣(山本内閣の内務相)となった後藤新平が震災復興で大規模な都市計画を構想して辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラストラクチャーが整備され、大変革を遂げた。
この際、江戸の伝統を受け継ぐ町並みが一部を残して破壊され、東京は下水道整備やラジオ放送が本格的に始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画されたパリやロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、東京は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の首都高速の建設に繋がる。
続く。(Wikipedia参照)