サブタイトルは、「日本もまだまだ捨てたもんじゃない!?」。歌手・前川清が、自身を変えた旅番組『前川清の笑顔まんてんタビ好キ』(九州朝日放送、写真)を紹介するとともに、番組で出会った素敵な人々、歌手という仕事、日常などを綴っている。
それが、売り場のどこを捜しても見つからない。
店員に聞くと親切に調べてくれた。そのお店の本来置かれている場所だけは分かった。音楽の本のコーナーのようだ。1冊在庫があることになっているが所在が分からないということだった。
ならば、別の店に行ってみよう。
そこでは苦労するのを止めて、店員に調べてもらった。-あった、あった。
新聞の広告には、発売日も値段も書いていない。何と、本日発売。1,300円+税はちょっと高いかな。まあ、折角見つけてくれたものを断るわけにはいかない。
■不思議な巡り合わせ
それが、ひとつ驚くことがあった。
●えとう窓口を知る
ある有名なテレビ番組が、現在自分のいる会社を取材することになったが、この日の朝、番組の担当者からその日程の相談の電話がかかってきた。
そのとき彼の名前は知らなかった。ところが、この本を見ると、前川清と旅に同行しているのが、当のえとう窓口だったのだ。ー不思議なことがあるもんだ。取材時に彼と話が出来れば、ネタは満載になりそうだ。
■「タビ好き」について
『前川清の笑顔まんてんタビ好キ』のプロローグにはこんなことが書かれてある。
歌手としてデビューしてから、今年(2015年)で47年。最近、予想もしなかった不思議な現象に驚き、少々戸惑っています。
昨年あたりからでしょうか、日本全国どこに行っても、コンサート会場の雰囲気がこれまでと変わってきました。静かに歌を聞いて下さるというより、笑いに来ていらっしゃるというか…とにかく、お客様がすごく盛り上がっているのです。
そのきっかけは、分析するまでもなく、僕が人情ふれあい旅の案内役を務めている『前川清の笑顔まんてんタビ好キ』(九州朝日放送)という旅番組のせい…いえ、おかげだと思います。
●企画立ち上げのきっかけ
前川清は長崎県佐世保市出身。以前から地元九州で何か面白い企画を自分で立ててみたいと思っていた。
視聴率のことは度外視して、まず、九州エリアでどんな番組があったら面白いのか、逆に言うと、どんな番組が足りないかを考えて見ると、いわゆるおじいちゃん、おばあちゃん世代の方々が見る番組が圧倒的に少ない。
ふと、頭に浮かんだのがNHKの『鶴瓶の家族に乾杯』に出演したときのことだった。
そこで、一般の方々、しかも「お年寄りとの素顔の触れあいをテーマにする」というコンセプトが生れる。
●やらせなしのドキュメンタリー
バラエティー色を極力省いた、ドキュメンタリーの旅番組にするため、事前の仕込みなどは一切しない、本当のぶっつけ本番の番組として徹底しようと考えた。
これにはスタッフの不安を取り除くのに1年もかかったが、そのライブな感じが「タビ好き」の魅力だと思っている。
行列ができるような飲食店の紹介や、グルメリポートなどは一切やらない。商店街でもお客さんで賑わっているところではなく、シャッターが下りかけているようなさびれたところばかり狙って歩くそうだ。
番組で訪ねる場所は、ディレクターが選ぶが、具体的にどの町を歩くかは当日の本番直前まで知らない。
ただ、そこに降り立ったときに、「あっ、ここは面白いな」とか「あれ~、ここはちょっと上手くいかないかも」という勘が働くようにあった。人の顔に人相があるように、「町相」みたいなものがある。どこに向かうかは勘だが、その他に注意力が必要で、かなり周囲に注意を傾けながら歩いている。
●視聴率も好調なり
番組スタートから3年。もともと同時間帯は「NHKのど自慢」「アッコにおまかせ!」など、強力な全国放送の番組がある激戦区。
今は九州7県の他、沖縄、山口、京都でも毎週放送され、さらに短期バージョン「ちょっと旅好き」が静岡、中京広域、兵庫、そして今年の1月にはBS朝日の放送開始で日本全国に広がって、急激に認知度が高くなった。九州ローカルだけだった時代はさほど良くなかった視聴率も今や平均10%を超えているという。
■前川清の性格(キャラ)
■前川清の性格(キャラ)
●人見知りの僕が人と出会う仕事を
彼はもともと人見知りで、初対面の相手とのコミュニケーションが苦手だという。どうすればよいか悩むが、自分には話を引きだす腕なんてないので、とにかく相手の話に寄り添うことだと、自分に言い聞かせているそうだ。
相手の立場になって話を聞いていれば、話したくないときは空気でわかるので、無理に聞き出すようなことは決してしないようにしている。
ところが、この番組を始めてから、意外なくらい一般の方が親近感を持って話しかけてくれるそうだ。
それまで、人を笑わせることには全く縁がなかったが、不思議なもので、人見知りだからこそ、一旦吹っ切ってしまうとはじきられる面があるようで、自分でも、こんなに思い切ってできるものかとびっくりしている。
梅沢富美男とのコンビのNHKテレビ「ふるさと皆様劇場」(1998年~2009年)では、お客のリクエストによる即興カラオケで歌の達者ぶりを見せていた。(動画は「ふるさと皆様劇場」梅沢登美男とのやりとり)
彼のモットーは、「好かれなくてもいいけど、嫌われたくない」 嫌われるのがいやなだけで、積極的に好かれたい気持ちはあまりないという。
■プライベート
●一番しあわせな時間
一番しあわせな時間は?と聞かれたら、即座に「一人でいるとき」と答える。その位、一人でいるのが好きなのだそうだ。
そんな彼がなぜ2度も結婚したのだろうか。
●藤圭子のこと
彼女が命を絶った8月22日の命日、今年たまたまライブがあったが、ファンの方から、命日なので藤さんの歌を歌ったらどうかと提案を受けた。
選曲に迷ったが、前川が南の九州・長崎から、彼女が北の北海道・旭川から、お互いに歌手デビューを目指してやってきたのが”東京”。二人が出会って共に1969年にデビューし、彼女のデビュー曲が「新宿の女」で、最後に彼女が暮していたと聞いた場所も新宿。
ということで、「東京砂漠」(1976年)と「新宿の女」(1969年)を選んだという。
藤圭子はこんな歌も歌っている。
藤圭子 内山田洋とクールファイブ/逢わずに愛して(1969年)
●家族
年子の長女、長男、6歳離れて次女という3人の子がいる。
この時代、歌手として大成するのは並大抵のことではない。今の若い歌手を見ていると、ちょっと気の毒になる。
●趣味は馬と錦鯉
馬は大先輩で馬主でもあった春日八郎から馬を持たないかとずっと誘われていた。
当初はそんな気はさらさらないので、のらりくらりとかわしていた。
それが、1979年のある日、知り合いから突然馬をあげると言われ馬主の仲間入りをすることになった。ところが、馬を維持するため、預託料が月に20~30万もかかるということが分かって内心とても後悔した。
これが、一向に勝たないもんだからレースを見てても面白くない。そのときの調教師の先生から「身銭を切って買っていない馬だから」と言われ、「ならば自分で買ってやろう」と、貯金を全部はたいて、まとめて2頭も買ってしまった。
芸能人の所有場でG1レースを制覇したのは、女優の故高峰三枝子さん以来、55年ぶりだそうで、マスコミにも随分騒がれた。
■歌について
実は、和音の組み合わせが他のグループと全然違う。みんな、もともとジャズの演奏家だから、ジャズのコードがしっかり体に入っていて、それぞれが絶妙な音でコーラスを組み立て、決して単調なコーラスではない。
前川清は、1987年(当時39歳)、内山田洋とクール・ファイブ脱退によりソロ活動を本格的に開始。
なお、名前の由来は彼のヒット曲「恋唄」(1972年)に由来する。(動画)
●歌には自信がない!?
もともと歌手になりたくてなったわけではない。生活のために飛び込んだ世界なので執着心もなかった。
歌には自信が無く、ずっと他人の評価を気にして生きてきた。
歌の”上手い・下手”って、何を持っていうのだろうか。自分で歌っていても、それが分からない。
一つ言えるのは、歌は技術ではないということか。
素人でも歌がとても上手な人がいるが、どんなに上手な人でも、黙って聞いていると最後の方になると飽きてくる。一方プロは味があるというか、どこか惹きつけられてしまう魅力があって、3コーラスが短く感じられる。知らないうちに最後まで聞いてしまう。それがプロとアマの違いなんだろう。
■アーティストたちのとの交流
坂本龍一作曲、糸井重里作詞という才能の塊のようなコンビにソロ第一弾として「雪列車」の提供を受けたのを始め、大物タレントから数々の楽曲をいただいた。
福山雅治が作詞作曲した「ひまわり」も「雪列車」同様、それまでの殻を破り、彼の新たな面を引きだした曲だ。
「ひまわり」を作って貰ったのは、福山がディスクジョッキーをしていたラジオ番組にゲストで呼ばれたとき、たまたまギターをプレゼントしたら、何か礼をしたいと言われたので、冗談半分に「曲でも書いてよ」と言ったのがきっかけだった。
前川清/雪列車(1982年) ひまわり(2002年)
●内山田洋とクール・ファイブ
高校中退後セールスマンなどを経て、佐世保のナイトクラブ歌手として頭角を現わしていた前川清は、1968年、内山田洋とクール・ファイブにメインボーカルとして参加。自主制作した『涙こがした恋』や『西海ブルース』が地元民放ラジオや有線放送で評判となる。
当初メジャーデビュー曲には『西海ブルース』が予定されていたが、プレス直前に作詞・作曲者の尾形義康が翻意し破談になったため、『銀馬車』のマネージャーだった吉田孝穂(筆名:永田貴子)が、自ら急造した詞を北海道放送のディレクターだった新居一芳(筆名:彩木雅夫)に手渡して『長崎は今日も雨だった』を完成させたそうである。
当時は今では想像もつかない『キャバレー全盛時代』
この曲は、長崎のキャバレー戦争で、ムード歌謡グループ「中井昭・高橋勝とコロラティーノ」のキャバレー『十二番館』の『思案橋ブルース』と、「内山田洋とクール・ファイブ」のキャバレー『銀馬車』の代理戦争だった。
なお、『西海ブルース』は、クール・ファイブが大御所に成長した1977年、歌詞を吉田が補作した上で改めて吹き込まれている。(Wikipedia参照)
内山田洋とクール・ファイブ/西海ブルース(1977年)
長崎は今日も雨だった(1969年)
前川清の言を続けよう。
クールファイブ(写真)の凄さというのは、分かる人には分かると思うが、自分の後ろで、おじさんたちが、ただ「ワワワワ」とか、「ルルルル」と歌っているのではない。
演歌のバックコーラスにジャズの感覚を持ち込んだ、結構凄い人たちなんです。
「そして神戸」の「パヤパヤ、パ、パ、ヤ~」とかいうあたりのコーラスなんか、実に洒落ていてカッコイイんですよね。
内山田洋とクール・ファイブ/そして神戸(1972年)
リーダーの内山田洋(写真)は、2006年肺癌のため横浜市の病院にて死去。享年70歳。その後は「前川清とクール・ファイブ」を結成、活動を再開している。
なお、このブログの題名「前川清 第2の黄金期到来」は、日刊ゲンダイ12月2日号の記事のタイトルから採りました。
『前川清の笑顔まんてんタビ好キ』、次回は12月13日(日)正午からの放送で、大分県・別府市を取り上げるそうです。
『前川清の笑顔まんてんタビ好キ』、次回は12月13日(日)正午からの放送で、大分県・別府市を取り上げるそうです。