本国よりも日本の方が人気が高いミュージシャンのことを「ビック・イン・ジャパン(Big in Japan)」という。
ザ・ベンチャーズ、ウォーカー・ブラザーズ、アラベスクなどはその類だが、ミルバも日本での人気が高い歌手だ。
ミーナ・マッツィーニ、オルネラ・ヴァノーニと共に3大プリマドンナと称される。
1959年にRAI(イタリア国営放送)の新人コンテスト優勝。1961年から、9年連続でサンレモ音楽祭に出場。その後も4回出場している。
1960年代はサンレモ音楽祭が最盛期で、イタリアの曲がもてはやされ、ミルバは「カンツォーネの女王」と呼ばれ日本でも人気が高かった。
日本の初来日は1964年だった。
次の動画の「ウナ・セラ・ディ東京」は、1963年にザ・ピーナッツが「東京たそがれ」として歌ったのが始まりである。
当初はあまりヒットしなかったが、翌1964年にミルバが初来日した際歌い、一気にブームとなった。なお、「ウナ・セラ・ディ東京」とはイタリア語で「東京のある一夜」(Una Sera di Tokio)という意味である。ミルバの正確な日本語での歌唱も評判となった。
その後、ザ・ピーナッツの「東京たそがれ」も曲調を一部変更して、タイトルも「ウナ・セラ・ディ東京」に変更し、ザ・ピーナッツのヒット曲の一つとなっていった。
そして、ミルバが1968年の来日記念に作られたのが、なかにし礼作詞/宮川泰作曲の「愛のフィナーレ」である。ドラマを感じさせる、サビの盛り上がりが圧巻の曲である。
ミルバ/ウナ・セラ・ディ東京(1964年)愛のフィナーレ(1968年)
しかし、何と言ってもこの曲が一番好き。まるで、オペラのアリアを聴いているようだ。
「リコルダ」(RICORDA、邦名:思い出して)は、1963年にデビュー3年目のミルバとベテラン歌手ルチアーノ・タヨーリによってサンレモ音楽祭で歌われ5位入賞した名曲。
ところが実際には音楽祭当日にタヨーリが病気で欠場するというハプニングが起きた。この年の優勝曲はエミリコ・ぺリコーリとトニー・レニスの「UNO PER TUTTE」だった。
ミルバ/リコルダ(1963年)
そして、この曲。1966年6回目のサンレモ音楽祭の入賞曲「悲恋」(Nessuno di voi)。
作詞・ゴルニ・クラーメル、作曲・ヴィート・ヴィラヴィチーニによるメロディアスなバラードで、ミルバのダイナミックなヴォーカルも聴きどころ。
「あなた方の誰も私に彼のことを話してくれない 私に本当のことを言ってくれない 今になってあなた方の同情はなんの役に立つの」と歌う。
ミルバ/非恋 (1966年)
ミルバ/黒い思い出(1965年) カンツォーネ(1968年)
ミルバ/地中海のバラ(1971年)スペインの瞳
ミルバ/夜のタンゴ タンゴ・イタリアーノ