前作、日本の橋繋がりで、今回は、日本の渡し船について。
渡し船とは、港湾・河川・湖沼などで両岸を往復して客や荷物を運ぶ船及び航路のことである。渡船とも言う。また、渡し船に乗り降りするところを渡し場、渡船場などという。
なお、渡しとは、人や貨物を舟で向こう岸に渡すこと。また、その舟や、舟の着く場所をいう。
隅田川の渡し
江戸時代を通じて増え続け、最盛期の明治時代初頭には20以上の渡し船があったという、隅田川の渡し。
上流から書き出してみると次のようになる。
野新田の渡し、小台の渡し、新渡し、お茶屋の渡し、汐入の渡し、橋場の渡し、今戸の渡し、竹屋の渡し、山の宿の渡し、駒形の渡し、御厩の渡し、富士見の渡し、御蔵橋の渡し、横網の渡し、一目の渡し、安宅の渡し、中州の渡し、佃の渡し、勝鬨の渡し
隅田川が初めて史料に登場するのは、835年(承和2年)のことで、そこには「住田の渡」として出てくる。「住田の渡」は、当時、都と地方を結ぶ幹線道路・古代東海道が通過する渡し場だった。
長らく奥州や総州への街道筋に合わせていくつかの渡しが存在した。戦国時代以降に徳川家康が江戸へと移封されると江戸の町は大きく発展を見せたが、防備上の関係で橋の架橋が制限されたこともあり、市街地を南北に分断する隅田川を渡河するために多くの渡しが誕生した。
しかし、1923年(大正12年)の関東大震災以後、震災復興事業に伴う新規の架橋も自動車や市電の通行も可能な橋も増え、1966年に廃止された「汐入の渡し」を最後に、隅田川の渡しは姿を消した。(Wikipedia参照)
花 (滝廉太郎作曲)
隅田川の渡しの中から。

謡曲「隅田川」の舞台となった橋場の渡しは、隅田川の渡しの中でも最も古く、元々、源頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房の国に逃れ、態勢を立直して下総を経て、鎌倉へ向かう時、隅田川に浮橋(船橋)を架けて渡った所と言われている。
白鬚の渡し、石浜の渡し、須田の渡し、梅若の渡し、真崎の渡し、など多くの別名を持つ。
五木ひろし/橋場の渡し(2008年)

「竹家の渡し」、「向島の渡し」、そして、待乳山聖天のふもとにあったことから「待乳の渡し」とも称される。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来するという。
付近は桜の名所であり、花見の時期にはたいへん賑わったという。
名曲「すみだ川」の歌詞にも「竹屋の渡し」が出てくる。
東海林太郎・島倉千代子/すみだ川(1937年)
北岡ひろし/竹屋の渡し(2004年)
船頭さん
○日本人は長らく「人生50年」を寿命と考えていた。実際、戦後間もない1947年の平均寿命は男性が50.6歳、女性が53.96歳。明治時代まで遡ると何と40歳代前半だったそうだ。
「船頭さん」の作詞は武内俊子、作曲は河村光陽で、1941年に発表された。戦時歌謡であったが、戦後歌詞の一部が改作され、一般向きの童謡として親しまれている。
太平洋戦争に突入する直前に発表された歌であるため、戦時色が強く、「六十のおじいさんですら、村のため、お国のために休む暇なく働いているのだから、君たちも早く立派な人間になって、お国のために尽くしなさい」というメッセージが込められている。「
村の渡しの 船頭さんは 今年六十の お爺さん
」と、歌う。


○1921年(大正10年)、民謡「枯れすすき」として野口雨情が作詞、中山晋平が作曲し、翌1922年に詩集「新作小唄」の中で、改題し「船頭小唄」として掲載された。
曲は、「おれは河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では花の咲かない枯れすすき……」と男女の間柄を歌っている。
1957年(昭和32年)映画『雨情物語』の主題歌として森繁久彌が歌い、大正から戦後の昭和まで、また現代においても「枯すすき」に人生の哀愁に共感するとしてヒットした流行歌となった。
童謡:船頭さん(1941年)
島津亜矢/船頭小唄(1921年)
三橋 美智也/おんな船頭唄 (1955年)
川野夏美/潮来花嫁さん (1960年)