今年も広島・長崎の原爆記念日がやってきた。今年は70周年という、節目の年であり、戦争法案と呼ばれる安保法制など、戦後のあり方が見直されようとしている重大な年でもある。
自分は広島県出身ということもあり、原爆について他よりも意識は高く持っていると信じている。
戦争の悲惨さを一番理解しているのは、凄まじい戦禍に遭った、すなわち広島県、長崎県、沖縄県の県民だと思う。
拙ブログでも、原爆記念日【その1】(2012/8/5)、原爆記念日【その2】(2012/8/6) 、広島原爆記念日(2013/8/7)、 原爆記念日に寄せて【その1】(2014/8/9) 、原爆記念日に寄せて【その2】(2014/8/10) と投稿してきた。
実はカラオケで唯一、泣けて歌えない曲がある。
美空ひばり/一本の鉛筆(1974年)
「一本の鉛筆」は、彼女の歌のなかでは売れなかった部類に属するが、彼女自身は好きな持ち歌ベスト10曲の1つに入れている。
その14年後の1988年、第15回の同音楽祭で再びこの歌を歌うため、ひばりは広島を訪れた。
このとき既に大腿骨骨頭壊死と肝臓病の病に侵され、出番以外のときは、楽屋に運び込んだベッドで点滴を打っていたという。
笑顔でステージを終えたひばりは、「やっぱり来てよかった」と語ったそうである。翌年6月、52歳で永眠した。
「原爆投下の日、正答率は全国で3割切る」というNHK調査の結果が。
NHKが戦後70年にあわせて実施した世論調査で、広島市と長崎市に原爆が投下された日付について聞いたところ、「正しく答えられなかった人がそれぞれ全国で7割程度」だった。
記事で「『昭和20年8月6日』と正しく答えられた人」と書いたことから、ツイッターなどでは「元号で聞いたから正答率が低かったのでは」という指摘が相次いだ。しかし、NHK広報局に問い合わせたところ、「西暦で答えても正解とした」とのことで、この批判はあたらない。世論調査の詳細は、NHK放送文化研究所のウェブサイトでも公開されている。 被爆地の広島・長崎でも進む風化
同様の世論調査は10年ごとに実施されていた。NHK広報局に過去のデータを問い合わせると被爆地の広島や長崎でも記憶が風化していることがわかる。(各年の世論調査手法は記事の末尾)。広島市、長崎市、全国、いずれも右肩下がり。特に長崎市ではこの20年で両都市への投下日の正答率が8割台から5割台にまで急減した。
■広島への投下日の正答率
【広島市】77.0%(1995年)→68.6%(2015年)
【長崎市】85.1%(1995年)→50.2%(2015年)
【全国】 37.5%(2005年)→29.5%(2015年)
■長崎への投下日の正答率
【広島市】77.0%(1995年)→68.6%(2015年)
【長崎市】85.1%(1995年)→50.2%(2015年)
【全国】 37.5%(2005年)→29.5%(2015年)
■長崎への投下日の正答率
【広島市】57.9%(1995年)→54.2%(2015年)
【長崎市】89.8%(1995年)→59.2%(2015年)
【全国】 25.6%(2015年)
2015年は1995年、2005年と調査手法が異なっており、単純な比較はできないが、数字上は正答率は広島市、長崎市、全国、いずれも右肩下がり。特に長崎市ではこの20年で両都市への投下日の正答率が8割台から5割台にまで急減したのが注目される。
「投下、許せない」減少
これには驚きだ。米国の属国化現象がここでも起きているのだろうか。(筆者)
戦後70年の世論調査の結果でもう一つ注目を集めたのが、「米国による原爆投下をどう考えるか」という質問への答えだった。広島市で44.2%が「やむを得なかった」と答え、「今でも許せない」(43.1%)を上回ったことだ。わずか1ポイント差で、世論調査の誤差の範囲内だが、約14万人の死者(1945年末まで)を出した被爆地で半数近くがその被害を「やむを得なかった」と答えた。
全国の回答者で見ると「今でも許せない」が48.8%、「やむを得なかった」が39.6%、長崎では前者が45.7%、後者が40.8%で、広島とは逆の結果がでている。
■米国による原爆投下をどう考えるか
【広島市】今でも許せない:43.1%→やむを得なかった:44.2%
【長崎市】今でも許せない:45.7%→やむを得なかった:40.8%
【全国】 今でも許せない:48.8%→やむを得なかった:39.6%
「はじめに」を読むと、こう書かれている。
トルーマンの原爆投下の理由については、終戦時の首相鈴木貫太郎が「ポツダム宣言」を黙殺したからだ、あるいは百万の米兵を救うためだったとの解釈がなされてきた。
本書はこれらの通説を完全に覆すもので、昭和19年の日本軍の一号作戦から説き起こし、その結果に衝撃を受けたフランクリン・ルーズベルト大統領がドイツ降伏後一日も早く日本を降伏させねばならないと考える一方、日本では昭和20年6月22日に天皇が「時局収拾」を述べて降伏の意向をかためていたことを指摘。
そのうえで、原爆実験の日、投下準備完了の日、ポツダム会談開催日、ソ連参戦の日という原爆投下にいたる4つの重要な日付を手がかりに、ルーズベルトの急逝後、新大統領となったトルーマンとその最側近であったバーンズが、それぞれの日付をめぐって、どのように動き、いかなる発言をしたかをとりあげて精緻に分析していく。
二人は日本の降伏を早めたいという考えなど持っておらず、日本が降伏する前に、またソ連が参戦してしまう前に原爆を世界に公開したいがために、政府・軍の高官に悟られぬよう極秘のうちに巧妙な計画を立てていた。そそして、の計画のなかには、日本が「ポツダム宣言」を最後通牒と受け取らぬような仕掛けも含まれていたとする。
1945年(昭和20年)の年表を作ってみた。
地獄はその後も続きました。火傷や怪我もなかった人々が、肉親を捜して爆心地をさまよった人々が、救援・救護に駆け付けた人々が、突然体中に紫斑が出、血を吐きながら、死んでいきました。
70年前のこの日、私は16才。郵便配達をしていました。爆心地から1.8kmの住吉町を自転車で走っていた時でした。突然、背後から虹のような光が目に映り、強烈な爆風で吹き飛ばされ道路に叩きつけられました。
しばらくして起き上がってみると、私の左手は肩から手の先までボロ布を下げたように、皮膚が垂れ下がっていました。背中に手を当てると着ていた物は何もなくヌルヌルと焼けただれた皮膚がべっとり付いてきました。不思議なことに、傷からは一滴の血も出ず、痛みも全く感じませんでした。
それから2晩山の中で過ごし、3日目の朝やっと救助されました。3年7か月の病院生活、その内の1年9か月は背中一面大火傷のため、うつ伏せのままで死の淵をさまよいました。
そのため私の胸は床擦れで骨まで腐りました。今でも胸は深くえぐり取ったようになり、肋骨の間から心臓の動いているのが見えます。肺活量は人の半分近くだと言われています。
かろうじて生き残った者も、暮らしと健康を破壊され、病気との闘い、国の援護のないまま、12年間放置されました。アメリカのビキニ水爆実験の被害によって高まった原水爆禁止運動によって励まされた私たち被爆者は、1956年に被爆者の組織を立ち上げることができたのです。あの日、死体の山に入らなかった私は、被爆者の運動の中で生きてくることができました。
戦後日本は再び戦争はしない、武器は持たないと、世界に公約した「憲法」が制定されました。しかし、今集団的自衛権の行使容認を押しつけ、憲法改正を押し進め、戦時中の時代に逆戻りしようとしています。今政府が進めようとしている戦争につながる安保法案は、被爆者を始め平和を願う多くの人々が積み上げてきた核兵器廃絶の運動、思いを根底から覆そうとするもので、許すことはできません。
核兵器は残虐で人道に反する兵器です。廃絶すべきだということが、世界の圧倒的な声になっています。
私はこの70年の間に倒れた多くの仲間の遺志を引き継ぎ、戦争のない、核兵器のない世界の実現のため、生きている限り、戦争と原爆被害の生き証人の一人として、その実相を世界中に語り続けることを、平和を願うすべての皆さんの前で心から誓います。
平成27年8月9日被爆者代表 谷口稜曄(すみてる)
原爆文学、被害伝え続け 吉永小百合さん「初心忘れず」(2015/8/9朝日新聞)
吉永小百合/原爆詩朗読