(安倍晋太郎は息子の安倍信三に「おまえには情がない 政治家としての最も大事な…」と言ったと伝えられている)
日本では8月15日を「終戦記念日」と呼ぶが、このように、戦後日本は史実としての「敗戦」を「終戦」にすり替えることで、その意味するところを曖昧化させてきた。
そして、敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができるという構図が継続している状態を、白井は「永続敗戦」と呼んだ。
戦後日本は、東西冷戦の構図のなかで、この永続敗戦というレジームのもとに運営されてきた。
それゆえに、この国のエスタブリッシュメントは一種の“ねじれ”を抱えている。たとえば日本の保守改憲派は、平和憲法をGHQから押し付けられた「まがいもの」とみなし、「自主憲法」の必要性を声高に叫ぶ。
だが一方で、くだんの憲法を「押し付けた」はずのアメリカには従属し続けるという倒錯的な外交姿勢を取り続ける。
実際、安倍政権でも歴史の修正という「敗戦の否認」の動きを活発化させようとしながら、そのたびにアメリカの“にらみ”で抑制されているのが実情だ。そして、日本の右派勢力はアメリカににらまれたとたん、簡単に屈服して、それまで声高に叫んでいた「大東亜戦争の肯定」を引っ込める、日米開戦はルーズベルトの罠だと主張しながら、現実的にはアメリカの犬となる、そういった矛盾した行動を繰り返してきた。
ゆえに彼らは、国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの「信念」を満足させながら、自分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける、といういじましいマスターベーターと堕し、かつそのような自らの姿に満足を覚えてきた。敗戦を否認するがゆえに敗北が無期限に続く─それが「永続敗戦」という概念が指し示す状況である。
岸信介
中国では近年、満州国政府の最高首脳の一人だった岸への関心が高まっている。だが肯定的な評価ではない。番組のアナウンサーは岸を「初期の中国侵略戦争の急先鋒」と紹介したそうだ。
ギリシャ神殿に似た正面玄関の巨大な円柱、左右対称の横長の造り。日本の国会議事堂とそっくりだ。建物自体は国会議事堂、屋根は北京の紫禁城をモデルに、「『日満』合作を意識した建物」という。中に入ると、重厚な大理石の階段が出迎えた。
「岸は満州で、国家運営という得難い経験と、東条ら満州人脈を構築した。将来の首相・岸信介の素地が作られた」
岸の最大の功績は、自らも策定に深く関わった「産業開発5カ年計画」(1937~41年度)の実行にある。
1970年に発行された「満洲国史」(写真)にこんな一文を寄せた。
「眠れる無限の宝庫を開いて物質的にも欧米諸国に対抗できる態勢を整えるため、多くの日本青年が玄海(玄界灘)を渡った。残した数々の施設、制度、技術、人材は、きょうの中国経済の中に生きておる」(70年目の首相)「満州国」岸元首相の原点 産業開発進め、国家統制を主導、2015年5月20日朝日新聞)
東京裁判は、満州事変も日本の「侵略」として裁いた。だが、岸にとってみれば、これは戦勝国の一方的な偏見だ。米国による経済封鎖などの国際情勢のもと、資源不足の日本が追い詰められたがゆえの「自存自衛」の戦争にほかならない。岸は獄中でこう記す。
「大東亜戦争を以て日本の侵略戦争と云ふは許すべからざるところなり」
これでは、彼が国士なのか、売国奴なのか、何が何だか訳が分からなくなる。
山口淑子(李香欄)
彼女は1920年(大正9年)、中華民國奉天省(現:中華人民共和国遼寧省)の炭坑の町、撫順で生まれた。当時撫順は中華民国の領土だった。
満鉄(南満州鉄道株式会社)で中国語を教えていた佐賀県出身の父・山口文雄と福岡県出身の母・アイ(旧姓石橋)の間に生まれ、「淑子」と名付けられる。
親中国的であった父親の方針から、幼い頃から中国語に親む。
1933年(昭和8年)、13歳のとき幼少時代を過ごした撫順から、約50キロほど離れた瀋陽へと引っ越した。
瀋陽は当時奉天と呼ばれ、満州国で一番の都会だった。ここで隣に住む父親の友人で瀋陽銀行の頭取・李際春将軍の義理の娘となり、李香蘭の名を得た。
終戦の際には命を救ってもらうことになる同い歳のロシア人・リューバ・モノソファ・グリーネッツと遊んだのもこの街で、リューバの紹介でオペラ歌手・マダム・ポドレソフに師事することになったのも、奉天放送局のラジオ番組『満州新歌曲』で歌手デビューしたのも、この奉天である。
1934年(昭和9年)、「潘淑華」の名で北京のミッション・スクール(翊教女子中学)に入学し、1937年(昭和12年)に卒業した。
彼女は李香蘭を、妹のように可愛がっていたという。
支那の夜は上海が舞台で、日本人青年(長谷川一夫)と日本軍を憎む中国人女性(李香蘭)との恋物語だが、長谷川一夫が彼に敵意を持つ李香蘭に、いつまで強情を張るんだ、といって平手打ちをくわせると、それを機に李香蘭は長谷川一夫に恋するようになるという内容で、日本の侵略に苦しむ中国人にとって、日本人を慕う中国娘は屈辱以外の何ものでもなく、しかも殴った相手に恋するなど、中国人にとっては二重の屈辱と映った。映画の教宣目的は全くの逆効果で、抗日意識をいっそうあおる結果となったそうだ。(李香蘭私の半生より)
1943年(昭和18年)、北京での記者会見で、大陸三部作(『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』)について「あれらの映画は、中国を理解していないどころか、侮辱している」「あなたは中国人でしょう? それなのに、なぜ、あのような映画に出演したのですか」と、李香蘭を中国人と信じる中国人記者から咎められ、中国人名を名乗ることで結果的に中国人を騙すことに罪悪感を覚えていた彼女はこれをきっかけに満映退社を決意する。
「よくわかりました。長いあいだ、ご苦労様でした。あなたが李香蘭でいることの不自然さはわたしにもわかっていた。満州国や満映はどうなるかわからないが、あなたの将来は長い。どうか自分の思う道を進んでいってください。できるなら日本映画界で発展してください。日本で仕事をされるにしても、つらいことが多いにちがいない。くれぐれも体を大事にして、自分の道を進んでください」(李香蘭:私の半生より)
甘粕正彦
甘粕正彦は満映の理事長をつとめながら、日本の関東軍があやつる傀儡国家、満州国の暗黒面を謀略で統治する闇の王のような男だった。陸軍憲兵大尉だった1923年にはアナーキストの大杉栄を虐殺した首謀者として刑に服し、陰惨な汚名をまとっていた。
だが、たった数カ月で敗戦の日を迎えた。満映に入社していた吐夢は、満映残党の人びとと新生中国映画の技術指導に力を貸すことになり、1953年秋まで帰国しなかったのである。
敗戦5日後の1945年8月20日早朝、満州国の首都、新京(現・長春)にあった満映本社の理事長室で、甘粕が青酸カリをあおったのにいち早く気づいたのは吐夢だった。倒れた甘粕に馬乗りになり、胃を押し上げて吐かせようとしたが息を吹き返さなかった。「人間が自分の股ぐらの中で死んでいくのは決していい気持ちのものではなかった」と吐夢は自伝で述懐している。
虚妄の権力に命をかけた男の野望も、映画監督の股ぐらの中で滅びたのだった。
東海林太郎/国境の町(1934年)
服部富子/満州娘(1938年)
森繁久弥/満州里小唄(1941年)