自分は広島県・呉市の出身だが、祖父が呉海軍工廠で働いていたこと、今でこそ呉市は人口24万人の中堅都市だが、戦前・戦中は40万人もいて県都である広島市と肉薄していたことを母から聞かされていた。
もっとも、戦後生まれには海軍工廠という意味も分からず、建造物も今は無いため実感が湧かなかった。
Wikipediaによると、工廠(こうしょう)とは、軍隊直属の軍需工場のことで、武器・弾薬をはじめとする軍需品を開発・製造・修理・貯蔵・支給するための施設。造兵廠とも呼ばれる。大日本帝国陸・海軍はそれぞれ直轄の軍需工場を持っていた。立地条件としては、他国からの攻撃をできるだけ避けられる安全な場所で、かつ輸送の便のよいところが望ましい。
なお、自衛隊は工廠と呼べるものを持たず、兵器の開発・製造を民間企業に委託している。
終戦により工廠は解散。現在はジャパンマリンユナイテッド(JMU)呉工場として大型民間船舶の建造を行っており、艦艇建造は行っていない。(写真)
1889年 (明治22年) 呉鎮守府設置と同時に「造船部」が設置される。当初造船は神戸にあった小野浜造船所に頼っていたが、徐々に呉での設備を拡充、小野浜造船所は後に閉鎖された。
呉市にはいくつか記念碑が残されている。(鎮魂の霊地 呉海軍工廠)
左:二河川公園(稜威池跡 …日露戦争時に第二ドック掘鑿の際に取り出した大石で造られた庭園の跡)
右:入船山公園(呉海軍工廠 塔時計…大正10年、造機部の屋上に設置)
左:歴史の見える丘(呉海軍工廠 礎石記念塔)
呉海軍工廠を米軍が空襲する映像を入手 大分の市民団体(2015.3.15)
第二次世界大戦末期、工廠は米軍の空襲目標の一つとして攻撃を受けた。当時、成人男性の多くは戦地に送られ、工廠には学生たちが学徒動員され働いており、彼らも空襲の犠牲者となった。
1945年6月22日9時よりB-29・290機が飛来し、造兵部を中心に施設を破壊した。海軍工廠関係の死者は約1,900名にも上ったという。
太平洋戦争末期の米軍による空襲映像を集めている大分県の市民団体「豊の国宇佐市塾」が14日、戦艦大和などが建造された呉海軍工廠や広海軍工廠などが攻撃を受ける様子の映像を報道関係者に公開した。米軍機に搭載されたガンカメラなどで撮影された映像を米国立公文書館から入手し、解析した。
宇佐市塾は約16時間分の映像を集め、米軍の記録や日本側の文献から撮影場所や日時を特定する作業を進めている。
呉海軍工廠の映像は、1945年6月22日午前10時すぎに撮影されたもの。宇佐市塾によると、B29爆撃機162機が、呉海軍工廠付近に爆弾を投下し、煙が市街地を覆う様子が映っている。投下された爆弾は700トンを超すとされる。
呉海軍工廠の誇りは何と言っても当時世界最大の戦艦「大和」を生みだしたことである。
しかし、悲運な最後を遂げた。
全長263m、基準排水量65,000t。射程40kmを超える口径46cmの主砲を搭載したが、海戦の主役は航空機に移り、性能を発揮する機会はなかった。沖縄の海岸で座礁して砲台の代わりになる「海上特攻」の命令を受け、巡洋艦などとともに山口県・徳山沖を出撃。しかし潜水艦に発見され、米軍機の波状攻撃にさらされ沈没した。艦隊全体で約4千人が戦死したとされる。
戦艦大和と武蔵は、日本人の「魂」と「技術力」の結晶だった!/戸高一成(大和ミュージアム館長)
戦後70年の今年、海に沈む戦艦武蔵が初めて発見され、世界中の注目を集めた。また、今年5月、呉市の大和ミュージアムは、開館10年で来館者が1,000万人を突破している。戦後は「無用の長物」と揶揄されながらも、今なお、多くの日本人が戦艦大和と武蔵に特別な感慨を抱くのは、なぜなのかを問うている。
日本の「モノづくり」の成果として、海軍工廠が大和建造時に採用した船体を部分ごとに造るブロック工法、部品共通化などの革新的管理システムは、後にトヨタ自動車などを通じて世界に広まる効率的な日本型生産方式の源流ともいわれる。
浜田省吾/THEME OF FATHER'S SON(1988年)
浜田省吾が、江田島市と呉市天応の官舎で過ごした頃を回想した歌
レーモンド松屋/安芸灘の風 (2008年)
Wikipedia参照