人質事件とメディアという記事を投稿したことがある。もちろん「イスラム国」の日本人人質事件のことである。
もう事件のことはすっかり忘られたようだが、今日(3月8日)の朝日新聞「声」の欄に、このことに関してと思われる投書があり、思わず涙ぐんでしまった。
こんな記事だ。
この人は誰に向かって訴えているのだろうか。自分は、自分を含めた日本人に訴えているのだと思う。
左派からは「歴史修正主義者」と批判され、右派からは「エセ右翼」と非難される著者が、1990年代末の大ベストセラーの続編として再びイデオロギーを論じている。
「ネット右翼」と呼ばれる人たちが仮想敵をつくり、排外主義的愛国心に走っていることを「パトリ(郷土・共同体)なきナショナリズム(愛国心)は虚構」と指摘する。
ネットで自分に都合の良い情報ばかりを受容し過激化していることを、終戦直後のブラジル日系移民社会で「日本は戦争に勝った」と信じる人たちが横行した逸話にからませて語る章は秀逸だ。
著者は言う。「保守を自称する者たちにせよ、反戦平和を唱える者たちにせよ、自分の信じたい情報しか信じない!」
ためにする言葉だ。
家族を虐殺されたのに、その虐殺した人たちと共に暮らしていかなければならない国に生きる者の苦しみ、麻薬をうたれて敵を殺し続け、そこから現実に復帰した少年兵の哀しみ、学校に行ったことのなかった少女の葛藤。
かみ砕くには苦すぎる物語を、後藤さんはあえて「少年・少女」に向けて語った。なぜだろうか。後藤さんが見つけて来る物語に、聞く耳を持たないおとなたちに絶望していたからなのだろうか。
後藤さんと同じように(ときには同じ場所を)駆け回ったカメラマン・亀山亮はパレスチナで取材中、ゴム弾で左目を失明する。2003年のイラク戦争について彼は、日本のメディアの多くが危険な紛争地帯に自社スタッフを送ることに消極的になったとしてこう書いた。
「フリーランスのジャーナリストたちの誘拐や香田証生君の処刑ののち、日本のメディアはヒステリックな自己責任論で個人へのバッシングを繰り返した。日本のメディアはなんの保障もせずにフリーランスをイラクに行かせ、問題が起きると即切り捨てる。その手口は、やくざな手配師と日雇い労働者の関係そのままだった」
それにもかかわらず、彼らはまた「戦場」に赴く。それは、「戦場」が、わたしたちにとって「遠い」出来事ではなく、わたしたちが享受している平和が実はか弱い基盤に載っていることを教えてくれるからだ。
「人質事件」をきっかけに、いわゆる「イスラム国」に関する論考が夥しく現れた。「狂信的テロ集団」と呼び、「非人間的」と糾弾する声も多い。ほんとうに彼らは、想像を超えた「怪物」なのか。田原牧は、違う、という。
「彼らは決して怪物ではなく、私たちの世界がはらんでいる病巣の表出ではないか」「彼らをまったくの異物と見なす視点には、自らの社会が陥った“狂気”の歴史に対する無自覚が透けている」
想田和弘は、彼らがヨルダンのパイロットを焼き殺した動画を見て、そこにはハリウッド映画の「文法」があるように思えたと呟いた。わたしも、その動画を(途中まで)見た。残虐だが、そこにはある種の美意識さえあるように思えた。そのような残酷さは、人間だけが持ちうるのだ。田原は、こうも書いている。
「彼らがサディストならば、ましだ。しかし、そうではない。人としての共感を唾棄し、教義の断片を無慈悲に現実に貼り付ける『コピペ』。この乾いたゲーム感覚ともいえるバーチャル性が彼らの真髄だ。この感覚は宗教より、現代社会の病的な一面に根ざす」
だとするなら、わたしたちは、この「他者への共感」を一切排除する心性をよく知っているはずだ。「怪物」は遠くにではなく、わたしたちの近くに、いま日常的に存在している。
雑誌「現代思想」は、社会に蠢いている「反知性主義」とも呼べる、一つの考え方を特集した。
だが、その中で酒井隆史は「ネット上にあふれる排外主義、レイシズム、あらゆる差別の攻撃的な言語」について、そこにあるのは「反知性主義」というより、一種の知性主義であり、自らが「非知性」と断じるものへの強い嫌悪である、とした。
自分と異なった考え方を持つ者は、「知性」を欠いた愚か者にすぎず、それ故、いくら攻撃してもかまわない、という空気が広がる中で、日々「怪物」は成長し続けている。
本の終わり近く、彼は、どんな宗教の神でもなく、世界を創造したと彼が信じる「神」に祈りを捧げたが、250年たったいまも、その祈りはかなえられてはいない。
「われわれの虚弱な肉体を包む衣服、どれをとっても完全ではないわれわれの言語、すべて滑稽なわれわれの慣習、それぞれ不備なわれわれの法律、それぞれがばかげているわれわれの見解、われわれの目には違いがあるように思えても、あなたの目から見ればなんら変わるところない、われわれ各人の状態、それらのあいだにあるささやかな相違が、また『人間』と呼ばれる微小な存在に区別をつけているこうした一切のささやかな微妙な差が、憎悪と迫害の口火にならぬようお計らいください」
今回は「祈り」の歌を。
乙女の祈り(La prière d'unevierge)(作曲は1856年)
この曲は、1856年、18歳あるいは22歳ごろの時に作曲したが、パリの音楽ニュース雑誌に掲載され、その名が広く知られるところとなった。
のち、J・バラノフスキと結婚し5人の子供をもうけたとされる。この曲を含め小品を35曲ほど作曲したが、1861年に病弱のためにワルシャワにて23歳あるいは27歳ほどで夭折した。(Wikipedia参照)
クミコ/INORI~祈り~(2010年)
2歳のとき被爆、1955年わずか12歳という短い命を落とした。
少女にとって、いつか元気になって皆の待つ家へ帰れることを願い、そしてそのためにできること、それが「折り鶴」を折ることだった。苦い薬の包み紙を広げ、一羽一羽折り続けるのだった。
その思いをテーマにした曲「INORI~祈り~」の作者は禎子さんの甥に当たる佐々木祐滋さん。
ザ・ブロードサイド・フォー/星に祈りを(1966年)
こんな世の中にならないことを「祈る」のみだ。
伊藤久男/暁に祈る(1940年)
最後はこの曲。平和部隊として活躍して欲しい。
海上自衛隊音楽隊/祈り