もう5年前のことが今頃になって発表されるとは、晩年は不幸だったのかもしれないと想像してしまう。ご冥福をお祈りします。
ところで、「歌謡曲」という用語を日本のポピュラー音楽を指し示す一般的な用語にしたのはNHKのラジオ放送とされるそうだ。
1936年から1941年まで行われた、NHKのラジオ放送の番組「国民歌謡」は、レコード販売によって流行を生み出す当時風紀上問題があるとも言われた「流行歌」に対し、「健全な歌で、国民の音楽文化の啓発を」という目的があった。
しかし、国民歌謡は当初の目的から外れ、戦意高揚、思想統制の道具とされ、戦時中は戦時歌謡や軍国歌謡と呼ばれていた。
1941年には名前が「われらのうた」と変わり、さらに終戦までは、「国民合唱」となり、現在の「歌謡曲」と繋がりがありながら今でもタブー視される傾向が強い。
その反省と、戦後まもなくヒットした映画「そよかぜ」の主題歌「リンゴの唄」が大ヒットし、貧しさとひもじさにうちひしがれていた国民の大いなる慰めになったことも影響して、再び国民歌謡の初心に戻って始められた番組が「ラジオ歌謡」だった。
「ラジオ歌謡」は1946年から1962年まで16年間に渡り、NHKラジオ第1放送 (JOAK)で放送され800曲近い曲が放送されたが、1961年から「みんなの歌」が始まり、翌年の1962年に姿を消した。(Wikipedia参照)
岡本敦郎/白い花の咲く頃(1950年)リラの花咲く頃(1951年)
近江俊郎/山小屋の灯(1947年)
倍賞千恵子/山のけむり(原曲は1952年、伊藤久男:歌)
先の「山のけむり」も彼の作曲による。北海道虻田郡真狩村出身。 1937年(昭和12年)、「詩と歌謡」に投稿した「漂泊の歌」が同年ポリドールで東海林太郎の歌声でレコード化され作曲家デビュー。作曲家として活動を始めるが、2年後肺結核に発病し療養を余儀なくされる。1940年(昭和15年)6月、伊藤久男の「高原の旅愁」で復帰。「さくら貝の歌」、「あざみの歌」、「毬藻の唄」を作曲したことで知られる。
「あざみの歌」は、自身の歌唱で1949年(昭和24年)、ラジオ歌謡で1週間放送し、その後、のど自慢等で歌われるようになり、1951年(昭和26年)、伊藤久男の歌唱でレコード化された。(Wikipedia参照)
倍賞千恵子/さくら貝の歌(原曲は1950年、辻輝子:歌)
伊藤久男/あざみ歌(1951年)
●「夏の思い出」について、江間は幼少のころ岩手山の近く、今の岩手県八幡平市に住んでいたが、そこはミズバショウ(写真)の咲く地域だった。
戦後すぐの1947年(昭和22年)、NHKから「夢と希望のある歌をお願いします」と依頼された。すぐ思い浮かんだのが尾瀬の情景だった。その時の感動を詩にしたのが「夏の思い出」である。
この歌のおかげで尾瀬は有名になったが、ミズバショウの咲くのは5月末であり、尾瀬の春先にあたる。そのため、せっかく夏に来たのにミズバショウを見ることができなかった、という人は多い。江間はその理由をこう述べている。
「尾瀬においてミズバショウが最も見事な5,6月を私は夏とよぶ、それは歳時記の影響だと思う」歳時記には俳句の季語が掲載されており、ミズバショウは夏の季語である。文学上の季節と実際の季節には、少しずれがある。また二十四節気においても夏にあたる。
●「花の街」はNHK「婦人の時間」にて発表、ラジオ歌謡での曲ではないようだ。
第二次世界大戦後の日本で、この曲はラジオ番組により日本全国に広がり、終戦後の明るさや平和の象徴として人々に知られ、歌い継がれた。1949年のNHKラジオの朗読番組『私の本棚』(朗読者は樫村治子)では、番組のはじめに演奏されるテーマ曲として使われた。発表されて60年以上経った現在も、日本の音楽の教科書によく載っており、授業や合唱コンクールなどで歌われ、2006年(平成18年)には「日本の歌百選」に選定された。(Wikipedia参照)
東京ソフィア女声合唱団/夏の思い出(原曲は1949年、石井好子:歌)
芹洋子/花の街(1947年)
最後は「森の水車」(1951年)。どうも荒井恵子さんの歌声ではないようだ。