事件後10日以上経ったというのに、いまだに毎日トップニュースで流れている。
どうして死という最悪の事態を防ぐことが出来なかったのか?
何度も危険信号を発しているいるにもかかわらず、周辺の配慮の無さ、無関心さが死を招いたとしか思えない。
その腹立たしさを抑えることが出来ず、話題としてふさわしいとは思えないが、怒りを込めてこのことについて連日会社の朝礼で話をしている。
自分は若いころ営業所の社員旅行で、境港からフェリーに乗り、隠岐(島前)に旅行したことがある。
彼の出身は西ノ島(写真)。こんなのどかな土地でのびのびと過ごした少年がいきなり川崎という都会に引っ越したときの戸惑いはいかばかりだっただろうか。
自分も過去、田舎から町に転居したことがある。もしもそのとき不良グループが手を差し伸べてきたとき、果たしてきっぱりと交際を断ることが出来ただろうかと思うことがある。
いじめは今ほど陰湿ではないかもしれないが、昔からあった。
それを救うのは親であり、教師であり、最後は警察である。しかし、基本的には親だと思う。
自分も中学のとき不良からいじめられたことがある。
殴られて口を切って家に帰った。それを見た母親の怒る姿に驚いた。本当に悔しそうに涙を流して、今から先生に訴えに行くと言って聞かない。
でも、その気持ちだけで十分だった。このときほど母親を尊敬し、信頼したことはなかった。
いじめに対抗する手段は後でわかった。決して唯々諾々としないことである。勇気をふるって反撃をした。それ以降、自分に対するいじめはなくなった。
そして、大橋巨泉氏の体験談を。
太平洋戦争中、彼は千葉県横芝町(現・横芝光町)に疎開していたが、クラスの相撲大会でそこの番長を倒した。
すると、下校時に待ち伏せしていた5~6人から殴られ、川に放り込まれたり、落とし穴に落とされたりした。
青竹で足を払われ、左足の肉がそがれ骨が見える傷を負ったとき、母は学校や警察に訴えた。
彼らが取り合わないと、やった子の家に行き「うちの子にもしものことがあったら、お宅の坊やを殺して私も死にます」と詰め寄ったそうだ。
それで、いじめは止んだ。
親の必死な愛情が子どもを救う。無関心であってはいけない、心を砕き続けることが子どもの命を守る。
Metis/母賛歌(2008年)
事件は段々核心に近づいているが、今日はまた新しい情報があった。(毎日新聞3/3記事)
川崎市川崎区の多摩川河川敷で中学1年生の上村遼太さん(13)が遺体でみつかった事件で、殺人容疑で逮捕された少年3人のうち、リーダー格の無職の少年(18)が神奈川県警の調べに対し、「17歳の職人の少年が遺体を蹴って転がした」と供述していることが捜査関係者への取材でわかった。県警は供述の信用性を慎重に調べている。
捜査関係者によると、遺体がみつかった河川敷の草むらから川沿いのコンクリートの護岸まで、数十メートルにわたって点々と血痕が残っていた。護岸近くの鉄柵にも、血をこすりつけたような痕が残っていたという。
捜査関係者によると、遺体がみつかった河川敷の草むらから川沿いのコンクリートの護岸まで、数十メートルにわたって点々と血痕が残っていた。護岸近くの鉄柵にも、血をこすりつけたような痕が残っていたという。
護岸付近では、血だまりやカッターナイフの刃がみつかっていた。県警は上村さんが殺害された後、遺体が見えにくい草むらまで動かされたとみて捜査していた。
夏でも泳がないという冬の多摩川を裸で泳がせ、無造作にカッターで首を切り、その死体を蹴って転がしていくという、鬼畜が行ったとしか思えないような所作だが、ここまで残酷になれるという人間の闇の深さを感じさせる。
人類の歴史ではおぞましい殺人事件がいくらでも起きている。
ある新聞のコラムに、「加害の記憶は残らない」というサブタイトルで、第2次世界大戦が始まったころ、ポーランドの小さな村、イェドヴァブネで起きた2,400人のユダヤ人に対する、非ユダヤ人の虐殺事件のことが書かれてあった。
ほとんどのユダヤ系住民たちは、教会の納屋に押し込められて生きたまま焼き殺されたようである。ところが、なぜあんな虐殺をしたのか、「虐殺に加担したほとんどの男たちは、記憶がはっきりしていない」そうだ。(写真は慰霊碑)
そして別のコラムには、「ミルグラム効果」という言葉で、「どんなに善良な人間でも、閉ざされた環境の中で、権威を持つ物の命令があれば、限りなく残虐になれる」という実験効果の記事が載っていた。
「人の命は尊い」というが、何と軽い気持ちで人を殺す輩が多いことか。
次のような気持ちでみんなが生きていればいいのに。
イルカ/まあるいいのち(1980年)