日本のフォークソングが生れるまで音楽と言えば、純邦楽、歌謡曲、クラシック、ジャズ、アメリカン・ポップス、カントリー&ウェスタン、それに入ったばかりのロックンロール位だった。
それが、1958年から1959年にかけてアメリカで大ヒットしたキングストン・トリオの「トム・ドゥリー」が、アコースティック・ギターの新鮮さ、美しく爽やかなハーモニーに多くの大学生が衝撃を受け、我先にとグループを結成してコピーを始めた。それが1960年から1961年のことで、これが日本のフォークの始まりである。
学生主催によるコンサートが至る所で開かれ、フォークは大学生の間でブームになった。これをカレッジ・フォークという。
1961年キングストン・トリオ、1962年ブラザーズ・フォア、1964年ピーター・ポール&マリーなどが来日し、フォーク・ブームに火がついた。
半世紀前(1965年)を振り返る【国内編】を投稿したことがある。
1965年と1966年、日本の音楽界は根底から大きく変わろうとしていた。
その先駆けは加山雄三だった。当時作詞・作曲家はレコード会社の専属で、デビューする歌手は専属の作家の曲を歌わなければならなかった。
しかし、彼は弾厚作というペンネームで全ての曲を作曲して歌ってしまった。
これが自作自演ブームに火をつけ、荒木一郎の成功とともに、レコード業界の因襲にくさびを打ち込むことになったという。
加山雄三/蒼い星くず(1966年)
荒木一郎/今夜は踊ろう(1966年)
もう一つの動きは「原盤権」の確立。
原盤権とは、出版社が制作費を負担する代わりに権利を持ち、発売の際に何パーセントかの原盤印税を受け取ること。この仕組みは現在では常識になっているが、当時はレコード会社の力が強くて、この提案に取りつく島もなかったという。
最初の曲が、新興音楽出版社の原盤で、フィリップス社の発売による、マイク真木の「バラが咲いた」(1966年)。但しこれは自作自演ではなく、浜口庫之助の作詞作曲だった。
その後、森山良子「この広い野原いっぱい」、ブロードサイド・フォー「若者たち」、フォーセインツ「小さな日記」、ビリー・バンバン「白いブランコ」などがヒットした。
マイク真木 バラが咲いた(1966年)
森山良子/この広い野原いっぱい(1967年)
1965年を境に日本のフォークは、主に楽しむだけのカレッジ・フォークから、プロテスト・ソングを中心とした「関西フォーク」へと移行して行った。
高石ともや、岡林信康、中川五郎、高田渡、遠藤賢司、ジャックス、ザ・フォーク・クルセダーズ、五つの赤い風船、早川義夫、杉田二郎などがいた。
それは、ベトナム戦争や70年安保の影響が色濃い。
そしてその頃、アメリカでは、フォークの女王・ジョーン・バエズや、ボブ・ディランという反体制のヒーローを生んでいた。
この中で特筆すべきは、ザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)が「帰ってきたヨッパライ」(1967年)を大ヒットさせ、「アングラ・ブーム」を作り出したことだ。
ザ・フォーク・クルセダーズ/帰ってきたヨッパライ(1967年)
岡林信康/友よ(1967年)
しかし、明確なポリシーに支えられていたフォーク・ソングは70年安保の挫折を境にまとまりが無くなって来ていた。
1971年の第3回全日本フォークジャンボリー(中津川フォークジャンボリー)は8月7日から岐阜・椛(はな)の子畔で行われ、3万人が集まった。
出演者は、あがた森魚、浅川マキ、五輪真弓、岩井宏、 遠藤賢司、小野和子、 岡林信康、 加川良、金延幸子、かまやつひろし、カルメン・マキ、ガロ、 はしだのりひことクライマックス、斉藤哲夫、ザ・サード、ザ・ディランII、シティ・ライツ、シバ、シュリークス、高田渡、Dew、友川かずき、友部正人、都会の村人、トン・フー子、中川イサト、中川五郎、なぎら健壱、のこいのこ、 野沢享司、長谷川きよし、はちみつぱい、はっぴいえんど、日野皓正クインテット、 ブルース・クリエーション、ぼく、本田路津子、三上寛、ミッキー・カーチス、武蔵野タンポポ団、安田南、山平和彦、山本コータロー、吉田拓郎、乱魔堂、六文銭。
会場は怒号渦巻く大混乱(右上映像)に陥り、これが結果的にこれまでのスター・岡林信康から広島フォーク村の顔・吉田拓郎に新旧交代するきっかけになったという。
なお、広島フォーク村には吉田拓郎の他、浜田省吾、町支寛二、村下孝蔵、原田真二などがいる。
それからフォークの大衆化が進んだ。
新しいフォークの流れを決定的にしたのが、上條恒彦と六文銭の「出発(たびだち)の歌」の大ヒットだった。
この曲は1971年に行われた「第2回世界歌謡祭」でグランプリを受賞するや否や、シングル・チャートを一気に駆け上がり大ヒットとなった。
上條恒彦と六文銭/出発(たびだち)の歌(1971年)
1971年は、はしだのりひことクライマックス「花嫁」、 北山修・加藤和彦「あの素晴しい愛をもう一度」、赤い鳥「竹田の子守唄」「翼をください」がヒットした年でもあった。
1972年は、吉田拓郎の「結婚しようよ」と「旅の宿」。
あがた森魚「赤色エレジー」、泉谷しげる「春夏秋冬」、遠藤賢司「カレーライス」、五輪真弓「少女」、古井戸「さなえちゃん」、ガロ「学生街の喫茶店」、佐藤公彦「通りゃんせ」などがヒットした。
五輪真弓/少女(1972年)
ケメ (佐藤公彦)/通りゃんせ(1972年)
翌年の1973年には井上陽水が「夢の中へ」「心もよう」、南こうせつとかぐや姫が「神田川」の大ヒットを飛ばす。
この辺りから「ニューミュージック」という表現が現れる。
語源やその範囲は曖昧であるが、1970年頃から、反体制色の薄い長谷川きよしや吉田拓郎らを「ニュー・フォーク」と呼び、「ニューミュージックは吉田拓郎を突破口にした、このニュー・フォークの流れをくむもの」とか、「ニューミュージックという言葉は、もともとはニュー・フォークからきている」と書かれた文献もあるそうだ。
日本におけるフォークの呼称には様々なものがあるのでここでは触れない。
次の映像のなぎら健壱、坂崎幸之助のフォーク理論を参考に。
(懐かしの日本のフォーク、日本の反戦歌参照)
文は、富澤一誠著「あの素晴らしい曲をもう一度」(フォークからJポップまで)(2010年、新潮新書)、Wikipediaを参照しました。