亡くなった年は、後者のキャサリン・ヘプバーンが長寿を全うしたので、ベティ・デイビスの1989年(81歳没)に比べ14年の差【キャサリン・ヘプバーンは2003年(96歳で没)】だが、生れは前者が1909年、後者が1907年、銀幕デビューは前者が1931年(22歳)、後者が1932年(25歳)とほとんど同時期に活躍している。
アカデミー賞について、キャサリン・ヘプバーンは2014年現在、オスカーを演技部門において4回受賞したただ一人の俳優。ちなみにベティ・デイビスは2回。
ノミネート数も、俳優としてはオスカー史上第2位の12回。ベティ・デイビスは彼女が記録を更新するまでは11回でトップだった。
その彼女は、アメリカ・コネチカット州ハートフォードにて生まれる。祖父は牧師で、父親は医師、母親は婦人参政権論者で、インテリかつリベラルな環境で育った。
日本ではヘプバーンと言うと、オードリー・ヘプバーンだと思うが、ヘプバーンと言えば、日本以外の世界ではキャサリンその人を真っ先に思い浮かべる人が殆んどだという。
決して正統派美人女優ではないが、インテリジェンス、ゴージャス、ソフィスティケイテッドという言葉が誰よりもぴったり嵌る人物であり、的確で縦横無尽な演技力、強烈な個性とユーモアで他の追随を許さぬ存在感を発揮し、飾らない性格も相まって、俳優として世界中から愛された。
当初、彼女はハリウッドに興味がなく、舞台女優としてのキャリアを確実に踏んでおり、舞台のギャランティは週給100ドルであった。映画に出演するつもりもないので、相手を驚かせるため冗談半分でRKOに週給1500ドルを要求したところ、会社側がこの条件を呑んだため、言い出した以上、出演を承諾することになったのがデビューの逸話である。
彼女の特色は、当時としては珍しいパンツ・スタイルを貫いた点にある。
黄金時代の映画スターであるにもかかわらず、着飾ることをせず、実用性のあるパンツ・スタイルで常に過ごしていたため、それがやがてトレンドとなった。何より男性に寄りかからない、自立した女性のパイオニアとして未だに尊敬を集めている。
また、己のプライバシーを重視し、独自のライフ・スタイルを貫き、それが現代女性のライフ・スタイルのベースともなったと言っても過言ではない程の影響を与えている。
ヘプバーン本人は公の場を嫌い、自身がノミネートされた年度の授賞式に出席したことはただの1度もない。
唯一出席したのは1973年度、第46回授賞式のみであり、友人のローレンス・ワインガーテンにアーヴィング・G・サルバーグ賞を贈呈するためだった。
黒のシンプルなパンツスーツという、ヘプバーンらしい姿と茶目っ気あるコメントで笑いを誘い、朗々たるスピーチで拍手喝采を浴びた。(右映像)
彼女は、米国映画協会(AFI)が1999年6月に選出した、アメリカで「最も偉大なる女優50名」では、堂々の第1位にも輝いた。
彼女は10本以上の舞台を経て、1932年に今は無き映画会社・RKOから『愛の嗚咽』で映画デビュー。
彼と組んだ『フィラデルフィア物語』は特に有名で、キューカーとは彼が他界するまで、生涯の親友であった。
映画「愛の嗚咽」(A Bill of Divorcement)(1932年)
映画「若草物語」(Little Women) (1933年)
映画「フィラデルフィア物語」(The Philadelphia Story)(1940年)
葬式にも家族におもねり列席しなかったが、スペンサーの死後、キャサリンは彼との関係を次のように語っている。
「アメリカで理想の男性といえばスペンサーよ。私は意地悪いことを言ったり、彼をじらしたり、一杯食わせてみたり、女そのものを演じていたわ。でも、彼がホンキで怒ればすぐ降参。男と女のロマンチックで理想的な関係というのはこういうものなのよ」
映画「女性No.1」(Woman of the Year)(1942年)
映画「招かざる客」(Guess Who's Coming to Dinner )(1967年)
映画「旅情」(Summertime)(1955年)
そして、キャサリン・ヘプバーン主演では何と言っても有名な映画はデビット・リーン監督の「旅情」。
映画は、キャサリン・ヘプバーン演じる、アメリカの独身キャリア・ウーマンのジェーンが乗る列車がヴェネチアのサンタ・ルチア駅に到着する車内のシーンから始まる。
最後は、このまま別れられなくなりそうな自分の気持を恐れ、急に旅立つことに決めたジェーン。遅れてきて、最後はプラットフォームに立ちつくすレナートに、ジェーンはいつまでも手を振り続けた、有名なラスト・シーン。
いい映画にはいい映画音楽。映画音楽も美しい。
マントヴァーニ楽団/「旅情」主題曲「Summertime in Venice」
最後は、キャサリン・ヘプバーン・ストーリー。