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故郷を思う

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 ときどき故郷のことを思う。
 
 戦後間もないころで、現代とは全く異なり衣食住にも事欠く異次元の世界だったが、苦しさよりも楽しい記憶ばかりが走馬灯のように心の中を駆け巡る。
 
 幼い頃は父親の職業が教師だったせいで、広島県内の転居を何度か経験した。
 
 広島県内は全部で6回だが、幼い頃の引っ越しは友人と離れ離れになるのが辛く、父親の職業を恨んだこともあった。
 
 子供のころからの友だちはいない。それで、長く続く友人関係についての想像が湧かない。
 
 それでも、故郷には格別の思いがある。
 
 最近聴きに行った堀内孝雄のコンサートで彼はこんな歌を歌っていたが、自分にはこのような経験はない。住んでいたところについて、全ての地で胸が熱くなる思い出が詰まっている。
 
堀内孝雄/遠くで汽笛を聞きながら(1976年)
 
 てっきり作詞した谷村新司の故郷・大阪のことを歌っているのかと思っていたが、どうやらそれは違うようだ。
 
イメージ 2 レコードジャケットにある、1時間に1往復ほどしか列車が通らない、秋田県横手市のJR横手駅から上り線でふた駅、8分ほどで着く無人駅のJR奥羽線・醍醐(写真)
 

 アリスの転機となった名曲「遠くで汽笛を聞きながら」は、旅先で出会った醍醐駅がモチーフだったそうだ。


 元々家族は広島県・呉市に住んでいたが、戦争のせいで焼失し、同じ広島県の田舎に全員で疎開した。
 
 そこに生れ、3歳までいたが、記憶には全く残っていない。その後瀬戸内海に面した、竹原市・忠海地区二窓というところにもいたらしい。
 
「いたらしい」というのはこれも記憶に無いからだ。
 
イメージ 1 わずか4ヶ月で、次に三原市・幸崎町渡瀬地区(さいざきちょう わたせちく)に引っ越した。
 
 それが姉に聞いたところ、当時も生徒数が少なかった渡瀬小学校複式学級(写真)(2学年が同じ教室で、1学年が授業をするとき1学年は自習をするシステム)を維持するため、校区の関係で子だくさんの教師である父が渡瀬へ引っ越するよう勧告を受けたというのが真相のようである。
 
 そのせいもあり、きょうだいは5人だが、全員親父の授業を受けている。


 三原市・幸崎町渡瀬地区には3歳から7歳(小学2年生)まで5年間過ごした。
 
 そして、8歳(小学3年生)から12歳(中学1年生1学期)まで4年あまり竹原市・忠海地区に住んだ。
 
 ここでの体験は良く覚えている。自分のルーツはこの2つの地だと思っている。
 
 (下図参照ですが、写真は住んでいた家ではありません)
 
イメージ 15

渡瀬は、昭和20年代、まだ戦争の傷跡も残っている頃で、家族は赤貧の生活を送っていた。
 
イメージ 3 風呂は庭に置いたドラム缶(写真)洗濯は近くの小川だった。
 
 少し内陸のところにあったので冬は寒い。手足はひびあか切れで毎年悩まされていた。
 
 けれども、思い出となるとそんな辛いことは少ない。
 
 そこは山に囲まれ、川が流れる、文部省唱歌で「故郷(ふるさと)」という名曲があるが、そのイントロ、「兎追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川」の風景そのままの村であった。
 
 幼い頃の思い出といえば、家の前を流れる小川でメダカ取りや、フナ、ハヤなどを釣る。
 
 春は一面のレンゲ畑で相撲、夏は水遊び。ホタルもたくさんいた。秋はドングリの実を投げ合う、どんぐり戦争。
 
 母親といつも一緒に裏の山にタキギを取りに行っていた。キジがケーン、ケーンと鳴く中でお弁当を広げて昼食をとる。のどかな風景だ。
 
イメージ 4イメージ 5 お祭りと言えば、年末年始の風物詩。
 
 年末は、子供たちが地区の家の前で地面を石でついて回る「いのこさん」(写真左)
 
 年始は、みんなが飾りを付けた長い竹を持ち村を練り歩いた後、刈り取り跡の残る田などにその竹を組んで立て、そこにその年飾った門松注連飾り書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。その火で焼いたを食べる、とんど祭り(写真右)
 もう13年前のことになる。盆の休暇で呉の実家に帰ったついでに、久し振りに同地を訪れたことがある。車で約2時間のところだ。
 
 2014年10月31日のデータによると、渡瀬地区は148世帯、357人という超過疎地帯になっている。
 
 昔の面影はない。それでも、今は周りをコンクリートで固められていたが、家の前を流れていた小川と、前述の小学校の廃墟が残っていて、わずかながら記憶を呼び覚ますことができた。
 
 石段を上って、小学校の廃墟を見た。
 
 ここで毎年秋になると運動会が行われていたことを思い出した。あんなにゴールが遠くに思えた校庭はまるで箱庭のようである。 
 
 当時は教師が当番で宿直していた。父を訪ねて夜、学校へ行ったこともある。
 
 まるで夢を見ているようだった。
 
倍賞千恵子/故郷の廃家
 


 父は転勤で、三原市の沖にある佐木島というところに単身赴任した。その機会に竹原市・忠海地区という現在は約5千人の町に引っ越した。
 
東京児童合唱団/故郷を離るる歌
 

イメージ 13忠海の由来は、平清盛の父・平忠盛(1153年、57歳で没、写真)がこの地を賜った時に住民たちはこれを祝して、それまでは「乃美の浦」と呼んでいたこの地にの字を冠して「忠乃美の浦」と称したという。
 
 一説には忠盛自身が忠の字を冠したともいい、その後「乃美」を「海」と改め、忠海の浦」というようになったともいう。
 
 忠海は竹原市の最東端に位置し、竹原や三原より沖に突き出た形状のため、江戸時代に西回り航路が開発されてからは、諸国廻船が潮繋ぎに出入りし、交易の盛んな土地だったそうだ。

 ここはそれまで住んでいた渡瀬にはない穏やかな海・瀬戸内海が目の前にあった。 
 
 次兄と堤防沿いを伝って先にある小さな灯台までよく散歩したものである。
 
 また、その後ろには小高い山がそびえていた。
 
イメージ 16 その黒滝山(標高270m、写真)にもよく登った。やっとたどり着いた山頂から眼下に広がる瀬戸内海は絶景中の絶景で、国民休暇村で有名な大久野島芸予諸島、のんびりと航行する漁船-まるで時間が止まっているかのような錯覚に陥ったものである。
 
 次の宮城道雄の名曲「春の海」は、広島県・鞆の浦の情景を曲にしたものと言われている。
 
宮城道雄作曲/春の海(1929年)
 


 複式学級から普通の授業に戻ったので、当初は授業に付いていけない。それで、勉強の一部にブランクの箇所が残った。
 
 それでも自分で言うのも可笑しいが、勉強は良く出来た。「昔神童、今はただの人」の典型である。
 
イメージ 11 小学校は忠海西小(写真)。目の前に床浦海岸があり、授業でも海水浴があった。
 
 中学校は道を隔てた家の目の前にあり、キャッチボールからテニスまで運動場を使って家族でよく遊んだものだ。今は工事中で小学校と同居しているようだ。
 
イメージ 12 高等学校(写真)は町の外れにあったが、兄や姉が通った。
 
 この高等学校は有名人を何人も輩出している。
 
 拙ブログで紹介したこともある、「エデンの海」の作家、若林慧は、当時は忠海高等女学校と言っていた忠海高校の講師だった。
 
イメージ 6 往年の大歌手、松島詩子1996年、91歳で没、写真右)も、1930年(当時25歳)から2年間、同校の教員を勤めていた。
 
イメージ 9 著名な画家の平山郁夫2009年、79歳で没、写真左)も忠海高校出身。
 
 そして、何よりも朝の連続テレビ「マッサン」で話題の「日本のウィスキー王」、ニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝1979年、85歳で没、写真下)も実家は竹原市だが、忠海高校の出身だ。
 
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イメージ 8 そして、ときの総理大臣・池田勇人1965年、65歳で没、写真)も忠海高校の出身。
 

 マッサンいや失礼、竹鶴氏と池田氏は終生友として付き合った仲なのだそうだ。


イメージ 10

 故郷に帰って生活をすることを考えたことはない。
 
 広島県には22年いたが、今年で横浜在住23年となりそれを追い越した。
 
 友人はこちらに多いし、何かと便利だ。
 
イメージ 14 室生犀星(1962年、72歳で没、写真)のいう「ふるさとは遠くにありて思ふもの」と考えている。
 

 全文は『ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしや うらぶれて異土の乞食となるとても帰るところにあるまじや ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて 遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや』


 それにしても自分には素敵な故郷があることを誇りにしている。
 
海援隊/思えば遠くへ来たもんだ(1978年)
 


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