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伊東ゆかり

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イメージ 1 実は「スパーク3人娘」のうち最初に紹介しようと思っていたのは伊東ゆかり(現在67歳、写真)だったが、テレビの健康食品のCMを見て、思わず園まりにしてしまった。
 

 今年の7月、朝日新聞「人生の贈りもの」で彼女のことが5回に渡って連載されていたので、早速載せようと思っていたが、あれから4ヶ月も経った。


 他の二人には怒られそうだが、中では伊東ゆかりが一番好きだ。歳を感じさせない美しさで、もう4年以上前の第333話:人の顔という拙ブログに断りもなく出演していただいた。
 
 何歳のときなのだろうか、この頃は特に美しい。
 
伊東ゆかり/恋のしずく(1968年)
 


 それではまずは、今年の7月7日から5回に渡って連載された、朝日新聞「人生の贈りもの」・「ノースマイルと」呼ばれた少女から抜粋。ー切り抜いておいてよかった。
 
■6歳から米軍キャンプのステージで歌い始めて、20歳で「小指の想い出」がヒット。昨年は歌手生活60周年でした
 
記念コンサートを各地で20回ほど開きました。60年もたっちゃって早いねぇ。歌うことが体の一部になっているんです。
 
 幕があがる前はやっぱり緊張する。勢いでごまかせた若い時より、今の方が気が張り詰めます。冷や汗タラタラ。開演5分前に逃げ出したくなるし、終わると後悔が押し寄せる。ステージで100%の手応えを感じることはないですね。完璧にならないから、また次、と思う。
 
■どんな少女でしたか
 
人としゃべるのが苦手で内気な子でした。ジャズのベーシストだった父は、人前で歌えば明るくなるだろうと、米軍キャンプのステージを連れて回りました。だけど、笑わない。あだ名は「ノースマイル」でした。
 
■レコードデビューは
 
日本で公開された洋画「戦場にかける橋」の主題歌「クワイ河マーチ」を歌い、1958年、11歳でキングレコードからデビューしました。だけど、鳴かず飛ばずで。
 
 フラフープがブームだった頃は、デパートの屋上にある遊園地で、腰でフラフープを回しながら歌ったこともありました。とてもじゃないけど、うまくできなかったですね。
 
■ミエさん、園まりさんと「3人娘」と呼ばれるようになりますね
 
フジテレビ系列の「森永スパーク・ショー」という音楽番組に3人でレギュラー出演し、人気が出ました。生バンドの演奏でオールディーズを歌い、お尻を振ってツイストを踊りました。
 
3人娘メドレー
 


■17歳だった65年、イタリアのサンレモ音楽祭に出演。イタリア語で「恋する瞳」を歌い、2位になりますね
 
カンツォーネがはやっていたので、挑戦したのです。現地の新聞に「神秘の国から来た歌姫」と書かれました。日本のことはあまり知られていなくて、記者会見で「日本人は洋服を着ているのですか」「ラジオやテレビはありますか」って聞かれました。振り袖を着てステージに出たので、帯が珍しいと触ってくる人もいました。
 
 イタリア人の先生について特訓しました。日本代表のプレッシャーはあったけれど、本番はミスなく歌えてホッとしました。頭を下げるおじぎの仕方も物珍しかったのでしょう。拍手喝采でしたね。周りは優勝してほしかったみたいですが、私は2位でうれしかった。
 
伊東ゆかり/恋する瞳(L'amore ha i tuoi occhi)(1965年)
 


■1967年、「小指の想い出」がヒットしました
 
この曲、最初は戸惑ってしまいました。アメリカンポップスやカンツォーネを歌っていたので、歌謡曲調になじめず、発売後しばらく歌わなかったのよ。だけど、ラジオで人気に火がついて。それまで芽が出なかったし、この曲を歌ってやめてやろうって、開き直りの気持ちでしたね。
 
 思わぬヒットでテレビ出演や地方営業が増え、帰宅したら疲れてドタッて寝てしまう。ストレスで顔にニキビがぶわっと出て、病院に通いながらテレビに出たんです。「ニキビの想い出」だったのよ。
 
■冒頭の「あなたがかんだ小指が痛い」というフレーズが印象的な歌でしたね
 
私は単に「指切りげんまん」みたいなイメージでとらえていたんだけど、周囲から「すごい歌詞だね」「セクシーだね」って言われるのが嫌で嫌で。
 
 撮影でも「セクシーなポーズを」と求められるんだけど、セクシーって内面からにじみ出てくるものでしょ。私のイメージじゃないし、「できません」と拒んでカメラマンさんをてこずらせちゃったわ。私、自分がしなを作っているのを見るのが嫌い。自然体が好き。無理に繕うのが嫌なんですね。
 
 でも曲は話題になって、67年に日本レコード大賞歌唱賞をもらいました。うれしかったのに喜び方が乏しかったのか、周りから「もうちょっとうれしそうにしたら」って言われました。受賞した後は、「歌がうまい」と期待されるのがプレッシャーで、思うように歌えず苦しんだ時期もありました。
 
伊東ゆかり/小指の想い出(1967年)
 


■24歳で結婚しました
 
相手は歌手の佐川満男さんです。仲間で飲みに行くうちに親しくなりました。8歳年上で、包容力があるところにひかれました。知り合って半年のスピード婚で、一人娘(注:宙美)を授かりました。
 
 だけど、結婚生活は実質4年ほどしか続かなかった。子育てと仕事の両立は厳しかった。朝、同居するお義母さんがおみそ汁を作ってくれていると、「今朝も起きられなかった」「悪いな」と申し訳なさがつのった。素直に甘えちゃえば良かったんだけど。打ち上げから帰り、夫に「遅かったね」と言われるのも、すごく怒られたような気になった。行き違いが重なっていった。私って、結婚で落ち着く女じゃなかったのかも。
 
■美声を保つため、どんな努力をしていますか
 
3年前にポリープの手術をしました。再発させたくないので、マスクやストールをして、ガムやアメでのどの滑りを良くしています。先生について週2回発声の練習をし、ジムで毎週体も鍛えています。夜はほとんど外出しません。万全な態勢で歌に集中ですね。歌をやめたら廃人になっちゃうかも……。
 
■娘さんも歌手としてデビューしました
 
イメージ 2 シングルマザーで一人娘を育てたので、父親代わりのつもりで時に肩ひじも張りました。仕事で一緒にいてあげられない後ろめたさを抱えていたし、心配のあまり、顔を合わせると文句ばかり言ってしまって。
 
 娘は私の全盛期を知らない。伊東ゆかりの子って言われるのが嫌で、テレビ出演もお断りしていました。別の好きなことに打ち込んでいたはずなのに、こっそりと事務所に歌を入れたデモテープを送っていたんです。2007年に「宙美(ひろみ)」として遅咲き歌手デビュー。今も母娘で一緒に暮らしています。
 
■コンサートでは宙美さんとデュエットしています
 
声の質や間の取り方が合う。血がつながっているんだって感じますね。お互い、家では練習しているところは見せない。ライバルなのかもね。でも、ステージで私の仕事の仕方に触れて、何かを感じ取ってほしい。「母の背中」から学んでくれたらっていうべきかな。あまりお手本にならない背中だけどね。
 
伊東ゆかり/ふたりの小舟(The Water Is Wide)(2007年)
 


■これまでの人生を色にたとえると
 
恋多き女でね、見事に振られたこともあった。私、カーッと一途に燃えるんです。その昔、スポーツ選手(注:ジャイアンツ、柴田勲選手)とお付き合いしたけれど、父に「勝負師の嫁さんは務まらない」と反対され、結婚できなかった。今も時々コンサートに来てくれますし、良い思い出ですね。
 

 これまでの人生は激動で赤や黒、紫色もあったけど、今は心穏やかに落ち着いているので、ブルーとかグリーンかしらね。湖のようなグリーン、青空のようなブルー、そんな色で人生を終えたいですね。


 伊東ゆかりが大好きだったコニー・フランシスのカバー。
 
伊東ゆかり/ボーイ・ハント 渚のデイト
 


 往年のヒット曲を。
 
伊東ゆかり/あの人の足音(1967年) 朝の口づけ(1968年)
 


イメージ 3 作曲家・鈴木淳(現在80歳、写真)の日刊ゲンダイ2012830日掲載記事僕の愛した歌たち【第六話】 故郷の親友たちの協力のおかげで夜の街でも「あなたが噛んだ」によると、「小指の想い出」のヒットにはこんな裏話がある。
 
 新進の作曲家時代、せっかく採用された「小指の想い出」でしたが録音の雰囲気は決して良いものではありませんでした。

 テストを歌った後、制作スタッフのいる調整室に入って来た伊東ゆかりは「こんな感じの曲、私ダメなのよね!」とご機嫌ななめの様子。新人作家としては黙って聞いてるばかり。

「今に見ておれ!」と口には出せなかったけど、歯を食いしばっていました。
 
 レコード会社の営業会議でも作品の評価は低く、初版は1000枚足らずだったようです。
 
 「この曲が売れなかったら作曲家はやめよう!」と心に決めた僕は故郷(山口県防府市)にいる親友に連絡して「絶対に売れる自信がある!何とか5万枚は売りたいんだ!」とプロモートの協力を頼みました。

 その時から彼はいろんな注文をして来るようになりました。

 「見本のレコード」に続いて「歌とオーケストラの譜面」「ポスターとアーティスト写真も送れ」最後は「本人を連れてこい!」レコード会社とプロダクションは僕の言う通りに協力してくれました。

イメージ 4 防府キャンペーンの規模と内容、そして進行まで全て高校の時の同級生が担当。デパートでのサイン会、公会堂での歌披露、圧巻は市長と僕、そして伊東ゆかりを先頭にした大パレード。(これは県の事業の一つ「植花祭」のパレードとドッキングしたアイディアだったのです)

 夜のキャンペーンはもちろんのこと、ゆかりの歌の伴奏は全て生バンドの演奏でした。(「オーケストラの楽譜」が必要だったのはそのためだったのです)(写真鈴木淳の実家・防府天満宮で、巫女さんたちと)

 しかし、こんなことで驚くのはまだ早かった。
 
 全てのスケジュールをこなしてホテルまで歩いて帰った僕たちでしたが、街を千鳥足で歩いてる酔っぱらいが口ずさんでる歌が、なんと「小指の想い出」なんですよ。

 驚いたのは、レコード会社とプロダクション。
 
 「この盛り上がり方は尋常じゃない!」早速、宣伝と営業会議のやり直し。
 テレビ出演も急に多くなって、全国どこへ行っても「あなたが噛んだ♪…」が聞こえる。ついに文字通りの「ミリオンセラー」が誕生したのです。
 
 これには更に、後日談がある。
 
 今年(2012年)の正月、ハワイに滞在していた時、退屈しのぎにテレビを観ようと電源を入れたら、いきなり画面に伊東ゆかりの顔が出て来ました。

 「あ!ゆかりちゃんだ」と思った途端彼女は「テレビカメラ(つまり、こちらの方)に向かってペコリと頭を下げて「ジュン先生ごめんなさい!」と謝ったのです。
 
 「ジュン先生ってボクの事?」と思っている内に小指の想い出を歌い始めたではありませんか


 やっぱり僕の事だったのです。それにしても「あの時の事」(当初、彼女はこの歌に乗り気ではなかった)をまだ謝ってるの?しかもNHKのテレビでと思ったら却って申し訳ないような気持ちになりました。



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