そのときは、B面に「これは!」という曲があっても、A面の曲だけがヒットする権利を持っているものだと思っていた。
こんな曲も。それがB面は「さらばシベリア鉄道」だったので、十分B面もヒットしていた。こんなときは得をした気分になるね。
大滝詠一/A面で恋をして さらばシベリア鉄道(1981年)
今回は、B面がヒットしたレコードの特集をするが、その中で一番有名なのがこの曲だ。
小林幸子/おもいで酒(1979年)
「おもいで酒」は、小林幸子(現在60歳)にとってはデビュー曲の「ウソツキ鴎」(当時10歳)以来16年ぶりのヒット、しかも200万枚のセールスを記録したメガヒットだが、発売当初は「六時、七時、八時あなたは・・・」(TBS系ドラマ『母子草』主題歌)がA面だった。
レコーディング時、小林はひどい風邪をひいており、録音した歌声はひどかった。「どうせB面だし、誰も聴かないし、どうせ私のために書いてくれたわけでもないし…」。体調の悪さもあってあまり気分は乗らなかった。日が経って聞き直してみると、いくらなんでもひどかった。さすがに歌い直すことにして、再度レコーディングを行った。
その後、有線放送でB面の「おもいで酒」が注目され始めると、気を良くしたレコード会社は、A面とB面を逆にして、ジャケットも替えて再発売することを決定。全国キャンペーンを展開する企画を立てた。
ところが、小林はキャンペーンを嫌がった。これまで何度も地道にキャンペーンをしてきたが、成功した試しがなかった。歌うこと自体に情熱が薄れかけていた時期でもあったのが、その気持ちを強くした。
ところが、小林はキャンペーンを嫌がった。これまで何度も地道にキャンペーンをしてきたが、成功した試しがなかった。歌うこと自体に情熱が薄れかけていた時期でもあったのが、その気持ちを強くした。
静岡・伊東の温泉旅館での長期営業公演中、一緒に出ていたダンサーに言われた。「どうせ歌を辞めるなら、キャンペーンやって辞める口実にしたら」。それもそうかと思い、キャンペーンへ出ると、行く先々で大盛況。これは違うと思いだした頃、有線では1位になり、レコード売り上げは赤丸急上昇。今まで見向きもされなかった歌番組からは相次いで声がかかった。
もしあの時「おもいで酒」を歌わず、出来の悪いままレコードをリリースして、キャンペーンもやらなかったら…。人生はどこにチャンスが転がっているか分からない実例である。
明大マンドリン倶楽部/目ン無い千鳥
「目ン無い千鳥」は、A面が山田五十鈴主演の映画の主題曲「新妻鏡」のB面として、1940年に発売された。
作詞はサトウハチロー、作曲は古賀政男。歌は霧島昇とミス・コロムビア。
映画内で挿入歌として効果的に使われたためA面よりもヒットした。
さらに1969年、大川栄策がカバーした。古賀政男は、この曲の出来に気をよくし、A面にして大川を売り出そうとしたが、レコード会社側は無名の大川をA面にしても売れないだろうと判断し、アントニオ古賀のレコードのB面に入れて発売した。
しかしリリース後、B面の大川の曲にファンの支持が集まり、再び「B面のヒット曲」となった。なお同時収録となったアントニオ古賀の収録曲は新妻鏡であり、偶然にも島倉・大川と揃って霧島昇のオリジナル版と同じA面・B面の組合せとなった。(Wikipedia参照)
千昌夫/星影のワルツ(1966年)
当初はなかなか売れなかったが、2年後に有線放送から火がつき、大ヒットとなった。
この歌は、中国・台湾を中心にアジア全域で愛唱された。作詞:白鳥園枝は、戦前に民衆派詩人として活躍した白鳥省吾の次女。作曲は遠藤実。
黒沢明とロス・プリモス/ラブユー東京(1966年)
オリコンでのセールスでは30万枚そこそこだが、実際はその前にかなりヒットしていたとされている。
シングルチャートが正式に発表されるようになった1968年1月4日付で1位を獲得し、記念すべき1曲目の1位獲得曲となった。
ちあきなおみ/矢切の渡し(1976年)
プロデューサーだった中村一好をはじめとする製作陣は本作をシングルのA面として発売することを希望したが、ちあきなおみは「酒場川」をA面とすることを希望したため、本作はB面収録となった。1982年にはちあきなおみのA面シングルとして発売された。(写真)
翌1983年に多くの歌手によって競作され、中でも細川たかしの歌が最高のセールスとなった。
欧陽菲菲/ラヴ・イズ・オーヴァー(1979年)
しかし「うわさのディスコ・クィーン」は中国語バージョンが台湾や香港でヒットしたものの、当時日本国内では2〜3万枚の売上に終わった。
欧陽菲菲はこの曲を歌い続け、口コミで評判が広まっていき、1983年秋にヒットチャート入りを果たし、1984年度の年間オリコンランキングの18位に輝いた。(Wikipedia参照)
「もしもピアノが弾けたなら」は、元々は、1981年に放映された西田敏行主演の『池中玄太80キロ』第2シリーズの挿入歌として作られた曲で、同番組の主題歌の「いい夢みろよ」のB面曲として発売されていた。 こんな曲がもしも埋もれていたら、日本の歌謡史は変わっていたかも知れないね。
西田敏行/もしもピアノが弾けたなら(1981年)
しかし、視聴者からの反響が大きく、のちに「もしもピアノが弾けたなら」が主題歌に変更され、A面とB面の立場が入れ替わる形となった。(Wikipedia参照)