演奏も何一つ出来ないというのに、楽器について、神をも恐れず何度も投稿を重ねてきた。
書庫には「楽器」の欄(左図)を設け、書庫別の記事数では「日本の音楽家」が139件でトップだが、60件で堂々の10位(右図)である。
チェロ(写真)は音域が最も人の声に近い楽器と言われる。
面と向かって語りかけられているような体温を感じる「癒し系」の音色である。
オーケストラの編成は基本的に左図のようになっている。
チェロは前列向かって右側の位置にある。
(クラシック音楽の豆知識参照)
「チェロ」の曲といえば、真っ先に思い浮かぶのがこの2作品だ。
溝口肇/世界の車窓から(1998年)
番組テーマ曲は、溝口肇(現在54歳、写真右)作曲による同名曲。
あれから27年の歳月が経て、通算9000回を越える長寿番組である。
なお、溝口肇が所有している楽器は1723年のアレキサンドロ ガリアノ(ナポリ)で、「アンジェラ」と命名して愛用しているそうだ。
アンドレ・リュウ/カミーユ・サン=サーンス 白鳥
「動物の謝肉祭」は、「白鳥」以外彼の生前に演奏されなかったが、現在では、プロコフィエフの『ピーターと狼』やブリテンの『青少年のための管弦楽入門』と並ぶ、子供向け管弦楽曲の代表的作品としても人気がある。
ストリングフィーバー/ボレロ
ストリングフィーバー(Stringfever)(写真)は、イギリスの弦楽四重奏楽団で、ブロードベント兄弟と従兄弟の四人により、息の合った奇抜なパフォーマンスと、音楽ジャンルを超えたユーモア溢れる編曲を得意としている。
映像は、1台のチェロで4人の男がボレロを弾くパフォーマンス。
もう1曲、同じくイギリスの美人女性・弦楽四重奏楽団の演奏で「ボレロ」を。
ラーベン・クァルテット/ボレロ
ロックを2曲。
アポカリプティカ/ONE
1993年にシベリウス音楽院でエイッカ・トッピネン、パーヴォ・ロトヨネン、マックス・リリャ、アンテロ・マンニネンの4人が出会い、彼らの好きなメタリカのカバーをチェロで演奏するバンドとして結成された。
現在はマックス・リリャ、アンテロ・マンニネンが抜け、チェリスト3人とドラマーの計4人から成る。(Wikipedia参照)
2CELLOS/Smooth Criminal(2011年)
2本のチェロだけでマイケル・ジャクソンの『Smooth Criminal』を演奏した映像をYouTubeで公開したことで、発掘されたアーティストである。 (Wikipedia参照)
チェロ演奏家によるポピュラー音楽を。
Yo-Yo Ma/映画「ミッション」より「ガブリエルのオーボエ」
Melo-M/ファイナル・カウントダウン
1000人のチェロ・コンサート/三枝成彰 チェロのためのレクイエム
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のチェロ奏者であったルドルフ・ワインスハイマーが1972年に創設した「ベルリンフィル12人のチェリスト」。
彼らが、ドイツ国内でアマチュアチェロ奏者を募り、最終的に予定を上回る341人を集め、1992年にポツダム新宮殿前で開催されたコンサートが、史上初のチェリストだけの大規模なコンサートで、ギネスブックに登録された。
三枝成彰作曲「チェロの為のレクイエム」を初演。「ベルリンフィル12人のチェリスト」のうち、創設メンバーの5人が来日し、ベルリンフィルの首席チェロ奏者であるオトマール・ボルヴィツキーも参加した。ソプラノとして松村雅美が参加。指揮は籾山和明が担当した。(Wikipedia参照)
最後は、こんな話。
映画「セロ弾きのゴーシュ」Gauche the Cellist(1982年)
セロ弾きのゴーシュは演奏が下手なためにいつも楽長に厳しく叱責されていた。そんなゴーシュのもとに、カッコウを始め様々な動物が夜毎に訪れ、いろいろと理由を付けてゴーシュに演奏を依頼する。
そうした経験を経た後の音楽会本番で「第六交響曲」の演奏は成功し、司会者が楽長にアンコールを所望すると、楽長はゴーシュを指名した。ゴーシュは馬鹿にされたと思って立腹しながらも、動物たちの訪問を思い出しつつ、「印度の虎狩り」という曲を夢中で演奏する。
その演奏は楽長を初めとする他の楽団員から賞賛を受けることになったゴーシュの性格は粗野で、楽長に叱られた鬱憤晴らしに、弱者(生意気な猫)を虐めるなど卑屈な若者として描かれている。
しかし動物たちへの無償の行為を通じて次第に謙虚さと慈悲の心が芽生え、それによって真に音楽を理解できる青年へと成長していったという物語になっている。
この作品は、賢治自身が実際にチェロを練習した経験が反映されていると考えられる。賢治は農民の啓発と生活改善を目的とした「羅須地人協会」を主催していた時代に、農民楽団の実現と自作の詩に曲を付けて演奏することを目指してチェロを購入し練習した。
1926年に上京した際には、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)の楽士だった大津三郎の自宅に練習のために通っている。
賢治は「三日でチェロを演奏できるようになりたい」と頼み、大津は困惑しながらもレッスンを引き受けた。またこのレッスンは1928年の上京時にも行われたのではないかという説がある。(Wikipedia参照)