「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉があるが、悲しい女の歌もその当時の世相を反映している。
まずは、戦後間もないころの「悲しい女の歌」。
菊池章子/星の流れに(1947年)
もと従軍看護婦だった彼女は、奉天から東京に帰ってきたが、焼け野原で家族もすべて失われたため、米軍相手のいわゆる「パンパン」(写真)、「夜の女」として生きるしかないわが身を嘆いていたという。清水は、戦争への怒りや、やるせない気持ちを歌にした。こみ上げてくる憤りをたたきつけて、戦争への告発歌を徹夜で作詞し、作曲の利根は上野の地下道や公園を見回りながら作曲した。
完成した際の題名は『こんな女に誰がした』であった。GHQから「日本人の反米感情を煽るおそれがある」とクレームがつき、題名を『星の流れに』と変更して発売となったという。(Wikipedia参照)
島津亜矢/岸壁の母(原曲は1954年)
歌詞を読んだ平川浪竜は、徹夜で作曲、翌日持参した。さっそく視聴室でピアノを演奏し、重役・文芸部長・藤田まさとに聴いてもらった。聞いてもらったはいいが、何も返事がなかった。3人は感動に涙していたのであった。そして、これはいけると確信を得、早速レコード作りへ動き出した。
なお、これには後日談がある。端野いせさんは1950年の引き揚げ船初入港から以来6年間、その都度東京から出てきては 帰還を願って舞鶴の岸壁に立ち続けた。 しかし、1981年、息子の生存を37年間も信じたまま、81歳で遂にこの世を去る。
ところが、2000年になって生存が判明したのだ。ソ連軍の捕虜となりシベリアへ抑留、後に満州へ移され中国共産党八路軍に従軍、後に上海に居住して妻と2人の息子と暮らしていたことが分かった。運命は残酷だった。(Wikipedia参照)
別れの辛さを歌う、「悲しい女の歌」。
森進一/女のためいき(1966年)
テレサ・テン/つぐない(1984年)
1970年代の「悲しい女の歌」。母の辛さを歌う。
金田たつえ/花街の母(1973年)
グレープ/無縁坂(1975年)
再び1970年代の「悲しい女の歌」。不幸ぐせの女を歌う。
五木ひろし/おまえとふたり(1979年)
ばんばひろふみ/SACHIKO (1979年)
待ちぼうけを食らった悲しい女の歌。
平野愛子/君待てども(1948年)
麻生よう子/逃避行(1974年)
最後は、この曲。
恋人に裏切られた挙句、冤罪によって収監された女囚701号こと「松島ナミ(さそり)」を主人公とした映画で、収監された刑務所内での看守や女囚による陰惨な私刑(リンチ)や陵辱、刑事による暴力に超人的な精神力と忍耐力で耐え、「怨み」を蓄積していき、最終的には自分を陥れた男達へと復讐を遂げる、といったストーリー。
梶芽衣子の熱狂的なファンであるクエンティン・タランティーノが、『キル・ビル』シリーズで、梶の歌う「怨み節」を使用している。(Wikipedia参照)