思えば、学校での歴史授業の欠陥は二つあった。
一つは、暗記を中心とした詰め込み主義だったこと。
二つは、歴史を勉強する必要性・意味をたたき込まれなかったこと。
図書館で借りる本の類型は3つあり、1.エッセイ(主に老後の生き方に関する本) 2.音楽関係 そして 3.歴史物 である。
遅ればせながら学生時代の勉強不足を少しでも取り戻そうとしている。
これは図書館で読んだ本ではないが、歴史の考察のため参考になる文を二つ。
思えば、災害史なるものに、私がはじめて出会ったのは18の春であった。私には、さすらいの癖があり、その大学は一年でやめてしまったが、そこで最初にうけた歴史学の授業に衝撃をうけた。
教壇に立っておられたのは水本邦彦先生であった。恥ずかしいことに、私はその大学を退学したあとで、この先生の偉さを思い知るのであるが、その時は何も知らなかった。授業の冒頭、先生は一枚の紙片を私たち学生に配り、こういった。
「歴史学というのは、なにも政治史だけの狭いものではない。動物の歴史だってあるし、トイレの歴史だってある。自然の歴史もある。地震や噴火などの災害の歴史は現代にもつながる生きた歴史である」
時々、大人たちから、また友達からも「昔のことなんかやって役に立つん?」といわれ、そのたびに下を向いていた。だから水本先生の話をきいて感動し、「歴史学は生きている。我々の命をも守りうる現代に必要な学問である」と、はっきり自信がもてた。
(中略)古人の経験や叡智はこれからも有効であろう。機会があれば、広い意味での「リスク・コントロールの歴史学」を叙述してみたいと思っている。
■土石流重なり形成された扇状地
本欄でも、去年11月に伊豆諸島の神津島の土砂崩れをとりあげた。「早めに安全そうな場所に避難するのが一番だ。土砂崩れには、しばしば前兆がある。地鳴りや異臭を察知しなくてはいけない」と、呼びかけたが、津波よりも頻繁に襲ってくる山津波(土砂災害)について、もっと取り上げておけばよかったとの思いが去来する。
「あの広島の土砂崩れ現場の古文書を見直しておきたい」 悔しさを胸に、私は浜松から新幹線に乗り、東京都立中央図書館で、八木地区に関する古い記録を探した。まず八木が広島市に合併される前の自治体史『佐東町史』をみてきた。
「本町の扇状地は、背後に急斜地を持つことから、幾度もの土石流が重なって形成されたと考えられる。角ばった巨礫を多く含み、斜面の途中に突き出た段丘が見られるが、これは土石流の原形といえる。緩斜面は、現在県営住宅を中心とした宅地化が進み、平坦化されているところもある」 そう書いてあり、住宅地にありありと残る土石流あとの竹やぶの写真が掲載されていた。
土石流が繰り返され、現物が残っているすぐ脇に、県営住宅などの団地を建設していったことが、地元の町史には、はっきり書いてあった。八木地区の団地造成は、1937年に三菱重工広島製作所の従業員団地の造成を相談されたことから、はじまった。そして、高度経済成長期には、グリコや雪印の牛乳工場の誘致とあいまって、団地化が急速に進んだ。
この時代の日本人は技術と経済成長の信者であった。自然はコントロールできると、人間の優位を驚くほどに信じた。土砂崩れにしろ、原発事故にしろ、この時代の思想のツケを後代の我々は、いま払っている。
■地に足をつけてものを考える
歴史はただ単に学問としてだけでなく、活用してこそ意義ががあります。ところが活用できない最大の理由として、今の日本では「地に足をつけてものを考える」ということが非常に少ない。これが事実なのです。
昨日があって今日がある。今日を生き残れたものだけが明日を生きることが出来る。それまで何もできない人間が、たちまち天下を制覇するといった、常識ではありえない話が日本人の歴史観の中ではいともたやすく実現してしまいます。
■奇跡や偶然に見えるものでも必ず裏づけが
なぜ素人が玄人に勝てるのか? それは「素人には常識しかない」からです。誰もが手にすることが出来る武器、誰でもが理解出来る戦術、誰でもが手にすることが出来る武器、誰でもが描くことの出来るグランドデザイン、この3つのものが揃わない限り、素人はそもそも戦う術そのものを持っていません。
全てにおいて、素人の発想が大事なのです。千人、万人が聞いても当たり前だという常識からまず始めていくことが、経営はじめ全てに通じるものではないでしょうか。
戦略は戦術を高揚しますが、戦術から戦略は生まれません。この理は何ら変わることはありません。大きいものは圧倒的に強く、小さいものは惨めなくらい弱い。小説やドラマにあるような「一発逆転」は歴史学にはありません。
勝つには勝つだけの理由があり、蓄積するものがあるからこそ、一見奇跡のように見えるものにも必ず裏づけが存在します。
■全ての未来は過去にある
歴史の世界では「前をとる」という言葉があります。
経営者も同じですが、何ごとかを決断するときにはその前のケース、成功した場合と失敗した場合の見本となったものが必ずあるはずです。
世界中でいま、アメリカに100%追従する国は日本だけ。では、アメリカは日本の面倒を見てくれるでしょうか。歴史はここでも語っています。
歴史は更に物語っています。イギリスの現代史をお読み下さい。
■右手の法則、左手の原理
経営に役立てる歴史学というものを考えてみます。
マジシャンを例にとれば、右手で演じられる手品のタネは間違いなく左手にあります。同じことが日々行われている我々の日常生活の中でも行われている、という自覚をしっかり持つことです。
見える右手に真実はなく、隠れた左手にこそ真実がある。
これは善し悪しではありません。実は国家的財政破たんを救うものは戦争しかないんです。
米世界は第2次世界大戦によって破たんを免れました。日本も然り。昭和2年金融恐慌のあと、ニューヨーク株式相場が崩壊し、世界恐慌に。加えて農業立国である日本の農業生産高が最低に落ち込みます。この段階で日本は終わっていました。ところが、昭和6年の満州事変により、特需で日本は一気に盛り返したのです。
あってはならないことですが、今注目の火種は全て極東に向かっています。北朝鮮しかり、韓国、中国、そしてアメリカ。隠れた左手の存在に気づく日本人は果たして何人いるでしょうか。
■未発の発芽
物事には必ず前兆があります。日本人はこの「きざし」を捕えるということがほとんどできません。「そういえばあのとき…」のいかに多いことか。これは過去と対話をするということをしないためです。
未来の方向を向いても未来は見えて来ません。未来は過去と現代を繋ぐ線上に存在し、具体的な未来はことごとく過去の中にあるからです。
全ての答は過去にあります。どうしていいかわからない錯綜とした現実に巻き込まれたときこそ、企業は創業の理念に戻るべきであります。
創業の理念が社会性を持つ限り、企業は決して倒産などいたしません。社会的意義を表明することが出来れば、あとは問題点をひとつづつ潰してゆけば必ず出口が見えるはずです。
実は問題点があるというのは素晴らしいことなのです。
一番怖いのは何が問題なのか判らない、どこが悪いのかが判らないこと。まさに今の日本がこの状態です。
さらに、経営者の皆さんに是非実践していただきたいことは、数字を重視したものの考え方を徹底していただきたいことです。
数字というもっとも合理的な考え方を身近にもつこと。
立ち止り地に足をつけて、奇跡や偶然を排除して全てのことを常識的に考えられるような能力を身につけること。
これが大切なのです。
堅実な努力こそがいずれは成功に導くことになるのです。
本当にそうだと思う。