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日本の歌姫【その3】松田聖子

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「自分の選んだ日本の歌姫」前々作の歌姫1位:ちあきなおみ、2位:倍賞千恵子、前作、3位:中島みゆきと、4位:松任谷由実(ユーミン)そして今回は最終回。5位:松田聖子を。

5位:松田聖子

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 時の経つのは速い。松田聖子(写真)は1980年のデビューからもう40年近くなる。いつの間にか56歳になった。

 「永遠のアイドル」と呼ばれ、これだけ長い間活躍をしているアイドル歌手は他に例を見ない。
 
 この間、1985年、1998年に結婚、1986年に出産、1997年と2000年に二度に亘る離婚、数度の不倫スキャンダルを経験し、マスコミの餌食にされながらそれをものともせず、したたかに生きる姿にも驚嘆する。

 一時期は「ブリッこ」とか「ウソ泣き」とかバッシングに遭ったこともあるが、今や女性から見てもあこがれの存在である。

初期のヒット曲

 彼女がデビューしたころもよく覚えている。

 転勤先の愛媛県・松山市で営業マンだったころ、同県・今治市の得意先の電器店のレコード売り場で初めて聴いた「青い珊瑚礁」(1980年)。松田聖子のデビュー曲「裸足の季節」に続く第2作だったが、この曲は必ず大ヒットすると思った。

松田聖子/青い珊瑚礁(1980年)


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 偶然だったのかかどうか知らないが、その年の8月に公開された、絶世の美少女ブルック・シールズ(現在53歳)が主演で同名のアメリカの青春映画「青い珊瑚礁」(写真)も話題になり、その年は「青い珊瑚礁」ブームに沸いた。


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 「裸足の季節」「青い珊瑚礁」とも、作詞は、三浦徳子(みうらよしこ、写真左)、作曲は今年の9月28日に68歳で亡くなった小田裕一郎(写真右)の作品で、第3作の「風は秋色」(1980年)まではこのコンビの作品だった。

 第4作「チェリーブロッサム」と第5作「夏の扉」(1981年)は、作詞:三浦徳子、作曲:財津和夫の作品である。

 作詞家の三浦徳子は、特にデビューから全国的人気に至るまでの初期の松田聖子に大きく貢献した。

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 シングル第6作目「白いパラソル」以降、三浦に代わり、作詞家の松本隆(現在69歳、写真)が松田聖子の24曲連続オリコン1位中17曲を手掛けるなど、阿久悠に替わり歌謡界で一時代を築き上げたが、彼の綴る作詞が女性的でロマンティックなのに対し三浦の綴った作詞は活動的で、デビュー時の松田の等身大なイメージが多く、三浦の作詞を評価するファンも多いという。
 
 彼女のデビューにはいくつかの幸運が重なっていた。
 
イメージ 6 まず、彼女のレコード・レビューの直前の1980年3月、当時のトップ・アイドル山口百恵(現在59歳、写真)が引退宣言をした。

 その報を受けたサンミュージックの相沢社長が、『第二の百恵は松田聖子でいく』と宣言した。そして、その聖子を発掘したCBSソニーも同じレーベルに所属する百恵の後釜を探していた。
タイアップ曲

 決定的な幸運は、デビュー曲が、資生堂「エクボ洗顔フォームのキャンペーンソングに決まったことだった。

 松田は元々女優デビューが先であり、資生堂の「エクボ洗顔フォーム」のCMにモデルとして出演するためオーディションを受けたが、自身はえくぼができないために不合格となった。

 代わりにCMソングを歌う事が決まり、2月末にレコーディングされたのが『裸足の季節』である。

松田聖子/裸足の季節(1980年)


 この曲は元々別のタイトルで他の歌手のために作られたが、先に売り出そうとしていた所属歌手の中山圭以子(現在54歳)のCM中止などによる売り上げ不振に頭を悩ませていたところで松田のタイアップが急遽決まり、事務所の方針転換がなされたという話がある。

 これはデビュー曲にも関わらず歌詞の内容が本人と一致しないという点からも伺える。ジャケットの衣装は自ら新宿で探したもので、撮影も10分ほどで行われた。

 レコーディングは資生堂や代理店の関係者に囲まれる中で行われた。途中、松田は感激のあまり泣き出したという。 

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 ところが、松田聖子にはエクボは無く、山田由紀子(現在57歳、写真)という別のタレントが出演した。これが予想外の効果をもたらした。

 出演者と歌い手が違うことが謎を呼び、それが口コミで話題になる。

 1980年4月1日、資生堂「エクボ」と同時に発売された「裸足の季節」は53万枚のヒットとなった。
 
 さらに幸運が続く。デビュー2曲目の「青い珊瑚礁」がグリコのCMソングに使われ、97万枚を記録する。
 
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 CMとのタイアップはまだ続く。「裸足の季節」に続いて、資生堂「ミルキークリーム」のイメージソングとして発売された「風は秋色」が初のオリコン1位となりそれ以降も快進撃が続く。

 第14作「ガラスの林檎」(1983年)のB面だった「SWEET MORIES」がサントリー「CANビール」のCMに使われたことが話題になり、両A面としてジャケットを指し変えられ、キャラクターだったペンギンが登場するアニメ映画「ペンギンズ・メモリー幸福物語」(1985年)(画像)まで制作された。

サントリー「CANビール」CM(SWEET MEMORIES)


 「SWEET MEMORIES」の登場人物が全てペンギン(パピプペンギンズ)のキャラクターになっており、ジャズバーで女性歌手が本曲を歌い、それを聴いた客が感動して涙するというものであった。放送当初は歌手名のクレジットが表記されていなかったため、歌っている歌手は誰なのかと話題になった。しかし当初はレコードを買っていたファン以外は歌手が聖子だということがわからず、レコード会社2社から「歌っている新人歌手を自社で使いたい」と引き合いの電話が来たという。聖子の母親すらも、聖子本人から知らされるまで気づかなかった。しばらく後に“唄/松田聖子”のクレジットが表示されるようになり、本作レコードの売り上げ再浮上へと繋がった。この経緯から、聖子の歌唱力を世間に認知させる契機になった、と評される。
  
 松田聖子のレコード売り上げは山口百恵の8年間の記録を3年で上回ったという。



 しかし、資生堂のタイアップでデビューし、その後資生堂のイメージソングを歌い続けていた松田聖子が、1984年の春のカネボウのバイオ口紅「ピュア・ピュア」のCMに出演し、そのイメージソング「Rock′n Rouge」を歌い、ライバル会社に鞍替えしたときは衝撃的で、話題を呼んだ。

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 この「Rock'n Rouge」は前作でお伝えしたように、作詞家の松本隆と組んで、ユーミン呉田軽穂(くれた かるほ)というペンネームを使って作曲した曲。

 他に第8作「赤いスイートピー」、第9作「渚のバルコニー」(1982年)、第10作「小麦色のマーメイド」、第15作「瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ」(1983年)などがある。 

松田聖子/Rock'n Rouge(1984年)


  当時の人気番組「夜のヒットスタジオ」資生堂森永製菓がスポンサーだったので、カネボウグリコのイメージソングを歌っていた松田聖子は、ヒット曲が歌えないときもあった。(「タイアップの歌謡史」速水健朗著参照)

 現在は富士フィルムスキンケア化粧品「ASTALIFT」のCMに出演。

 2008年から2011年現在まで、あまり共演経験の無い中島みゆき松田聖子の共演ということが話題を呼んだ。以降、小泉今日子(~2013年)、松たか子(~2016年)、高畑充希(2016年~)のコンビで出演している。


アイドルからの脱皮

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 松田聖子のシングル第7作「風立ちぬ」は、CBSソニーの若松宗雄ディレクターが大好きだった、堀辰雄(1953年、48歳で没、写真)の同名の小説『風立ちぬ』を題材とした曲。

 個人的には松田聖子で一番好きな曲だ。

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 当初、繊細な陰のある作品を目指したが、意図に反して大瀧詠一(2013年、65歳で没、写真)によって完成した曲は「ものすごいゴージャスな大作」になってしまったという。歌詞を見ても、どこが堀辰雄の小説と絡んでいるのかと思うほどだ。

<歌詞>
 風立ちぬ 今は 秋 今日から 私は 心の旅人   涙顔 見せたくなくて すみれ・ひまわり・ フリージア  高原の テラスで手紙 風のインクで したためています  SAYONORA SAYONARA SAYONARA 

   振り向けば 色づく草原 一人で生きてゆけそうね  首に巻く 赤いバンダナ もう泣くなよと あなたがくれた  SAYONORA SAYONARA SAYONARA 

 風立ちぬ 今は 秋 帰りたい 帰れない あなたの胸に  風立ちぬ 今は 秋 今日から私は 心の旅人 性格は 明るいはずよ すみれ・ひまわり・フリージア  心配はしないでほしい 別れはひとつの旅立ち だから

 しかし、あの松田聖子が当初「難しくて歌えない」ともらしたこの曲。彼女は「いい曲だが、自分には向いていない」と言って、なかなかボーカルダビングが行われなかったそうだ。幾度かのトライの後「歌えました」と嬉しそうに大瀧詠一に報告したという。

 それまでアイドルらしく明るいポップな曲調や詞の歌が多かった彼女が失恋のバラードに挑戦。「ブリッ子」などと言われて男性中心だったファン層を、この曲で女性まで広げた。

イメージ 11イメージ 12 そして、この曲のヒットの後、「聖子ちゃんカット」(写真左)も止め、ショートカットにしてアイドルから脱皮していく。(写真右)

 その後にデビューしたアイドル達(花の82年デビュー組といわれる小泉今日子松本伊代早見優など)の多くがこの聖子ちゃんカット風のスタイルでデビューしていたが、以来、追随する後続アイドルたちもまたこぞってショートカットに変え、今度はショートカットブームが訪れた。

松田聖子/風立ちぬ(1981年)

 

数々の大記録

●シングル総売上枚数は、1543.9万枚(歴代14位・女性アーティスト単独5位) 

 第34作「大切なあなた」(1993年)で沢田研二の総売上最多枚数を抜き総売上枚数単独1位になり、1993年5月〜1994年8月まで総売上最多枚数記録を保持していた。CHAGE and ASKAの37作目のシングル「HEART/NATURAL/On Your Mark」で総売り上げ最多枚数記録を抜かれた。

 第19作「ハートのイアリング」で、史上8人目(ソロでは7人目)、女性アーティストでは3人目のシングル総売上枚数1,000万枚を達成。デビューからの4年8か月での達成当時は、ピンク・レディーに次いでの当時2番目の早さだった。

●シングル首位獲得数:25作(歴代6位・女性アーティスト単独2位)
 
 第12作「秘密の花園」(1983年)でピンク・レディーの1位獲得数9枚を抜いて単独首位獲得数1位を記録する。首位獲得数25作まで記録を伸ばすが、2000年10月にB'zに抜かれるまで1983年2月〜2000年10月の約17年8か月間首位獲得数1位を保持していた。

 女性アーティト・ソロ部門では2006年3月に浜崎あゆみに抜かれるまで(1983年2月〜2006年3月)の23年1か月間首位獲得数1位を保持していた。

●シングル首位連続獲得数:24作(歴代7位・女性アーティスト単独2位) 

 第3作「風は秋色/Eighteen」(1980年)〜第26作「旅立ちはフリージア」(1988年)まで首位1位獲得数を保持した。女性アーティト・ソロ部門では2010年10月に浜崎あゆみに抜かれるまで、1983年2月〜2010年10月の27年8か月間首位連続獲得数1位を保持していた。

●アルバムでは、総売上枚数1356.9万枚。首位獲得数:19作(歴代4位・女性アーティスト単独3位)。

●2004年、約3年ぶりのオリジナルアルバム『Sunshine』が、7月21日付のオリコンアルバムチャート(週間)で初登場6位を獲得。ベスト10位以内獲得数:51作で、歴代2位、女性アーティストでは松任谷由実に並ぶ歴代1位タイに輝いた。

 しかし、ミリオンセラーは、第40作「あなたに逢いたくて~Missing You~」(1996年)が110万枚のセールスを記録しているだけだ。

松田聖子/あなたに逢いたくて~Missing You~(1996年)


松田聖子のテーマ曲
 
 松田聖子の歌にはいくつか特色があることに気付いた。一番多いのが、「色」の曲(調べただけで24曲)、二番目は「季節」の曲、(同14曲)、そして「からだ」の曲である。

色の曲
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 シングル第2作・青い珊瑚礁(1980年)、シングル第6作・白いパラソル(1981年)、シングル第8作・赤いスイートピー(1982年)、シングル第10作・小麦色のマーメイド(1982年)、ングル第18作・ピンクのモーツァルト(1984年)など。

松田聖子/ 赤いスイートピー


季節の曲

 シングル第3作・風は秋色(1980年)、シングル第5作・夏の扉(1981年)、九月の夕暮れ(1980年)、冬の妖精(1981年)、冬のマリーナ~潮風に乗せて~(1980年)、少しずつ春 (1981年)、春色の恋(2008年)など。
  
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からだの曲 松田聖子さんの画像を拝借して曲を紹介したい。ファンの方ごめんなさい。 

・ハート:ハートをRock(1983年)、
シングル第19作・ハートのイアリング(1984年)
瞳:シングル第15作・瞳はダイヤモンド(1983年)、(サントリー「シルキーブラック」CM)
 ・唇:シングル第16作・ロックン・ルージュ(1984年)(カネボウ口紅「ピュアピュア」CM)
えくぼ:シングル第1作・裸足の季節(1980年)/資生堂「エクボ」CM(モデル/山田由紀子)

瞳はダイアモンド シルキーブラックCM


松田聖子のエピソード

ママドル

 近年ではかつてアイドルであった子持ちの女性タレントを示す言葉として頻繁に使用されている「ママドル」という言葉だが、最初に使われ始めたのは松田聖子が出産して以降のことであった。

 1986年10月1日、長女・神田沙也加(現在32歳)を東京飯田橋の東京逓信病院で出産。結婚・出産を経てもアイドル人気は衰えず、“ママになったアイドル”という意味の「ママドル」と呼ばれる。

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ブティック「フローレス・セイコ」(Flawless Seiko)

 1988年2月14日、東京都目黒区の自由が丘に現在も営業中のブティック「フローレス・セイコ」(Flawless Seiko)をオープン。「フローレス (Flawless)」とは "(宝石が) 傷のない、完璧な" という意味で、ダイアモンドの最高級を表す。(※2014年11月1日に「felicia club by Seiko Matsuda」に店名を改名しリニューアルオープン)

海外進出

 1990年5月、シングル「THE RIGHT COMBINATION」(USA)で、「New Kids On The Block」のDonnie Wahlbergとデュエット。6月、アルバム『Seiko』で全米デビュー、アメリカでは『USマガジン』や『インターセクト』で特集される。またイギリスのTV-amの朝のワイドショー番組『Good Morning Britain』(1990年8月)、BBCテレビにも出演し、世界中のメディアに登場。

 2005年6月5日のさいたまスーパーアリーナを初日に、歌手活動25周年にあたる全国ツァー『fairy』を開始。台湾のファンからの強い要請に応え、8月20日、最終公演を台湾の新荘市にある新荘体育館で行う(デビュー初の海外公演)。観客5000人から熱烈に歓迎され、中国語でも歌った。
  
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ディナーショーの女王
 
 最近では「ディナーショーの女王」として知られ、1992年から始まったディナーショーのチケットは全歌手の中で最も値段が高い部類に入り、東京のグランドプリンスホテル新高輪やホテルニューオータニ大阪の48,000円のチケットは即日完売で、ヒルトン名古屋では4人セットで220,000円という価格のものも存在するほどだそうだ。今年のクリスマス・ディナーショーは名古屋と大阪で行われるようだ。

(Wikipedia参照) 

落ち葉の季節

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 今は落ち葉の季節だ。

イチョウ(銀杏)の木

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落ち葉清掃の大変さ

 自分が働いているマンションでは11月初めに植栽業者が入り、高木のほとんどは枝葉が丸裸にされ、その内でイチョウもあったが例外ではなかった。(写真)

 おかげで、落ち葉の掃除で悩まされていたのが、随分楽になった。

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 ところが、一難去ってまた一難。マンションの前には無いが、の前の国道沿いの歩道はイチョウ並木が続く。(写真)

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 国道は交通量が激しく、クルマが通るたびにつむじ風が舞い上がる。その落ち葉がマンションの周囲まで飛んでくるのだ。(写真)

 毎日何度落ち葉の掃除をしても、らちが明かない。掃除をすればするほど落ち葉も意地を張って増えるような気さえする。

 見る人にとってはいいかもしれないが、掃除をする立場にとっては厄介な存在である。
「あなたの好きな木」で第2位

 今から3年前の2015年10月17日の朝日新聞土曜版beランキングに「あなたの好きな木」という記事があった。

 こんな内容だ。
 
 紅葉の美しい季節がやってきました。日本は国土の3分の2を森林が占める“木の文化の国”。街路樹や庭木として生活になじみ深い木も多く、各都道府県の木も決まっています。

 季節ごとに趣を変える多種多様な樹木に寄せられたコメントからは、木を愛する人が多いことを改めて実感させられました。
 
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 1位はサクラ。「日本の春になくてはならない木」(大阪、56歳男性)という理由はほぼ一致していたが、単に花の美しさにひかれたのではなく、その姿に人生を重ね合わせるような印象的なコメントが目立った。「年を重ねるにつれ、あと何回、満開のサクラに会えるだろうかと思う」(徳島、74歳男性)「阪神大震災の避難時に、壊れた住宅の庭に立っていた一本のサクラに、感激したことがあります」(兵庫、66歳男性)。
 
 2位は、日本の街路樹で最も多いというイチョウ。アンケートでは「好きな街路樹」も聞いたが、ダントツの1047票を獲得し、749票で2位だったサクラを逆転した。「落ち葉の掃除は大変」(埼玉、58歳男性)という声もあったが、黄金色の雄姿は圧倒的存在感を放つ。「幼いとき、家の前に大きなイチョウの木があった。遠出をしたとき、それが見えると、家に帰ってこられたとホッとしたものだ」(広島、57歳女性)
 
 3位のキンモクセイの魅力はなんといっても「甘い香り」。この香りがたまらないという声は男性からも多く寄せられた。「庭先であの芳醇な香りがすると、枝を折って部屋に飾った」(兵庫、26歳男性)、「50年前の初デートであの香りが漂ってきたのが忘れられない」(愛媛、71歳男性)

 とあり、イチョウは多くの国民から愛されている。

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〇わが神奈川県も、県のシンボルとして「神奈川県の木」としてイチョウが指定され、横浜市も同様に市のシンボルになっている。

 神奈川県の形は「イチョウの葉っぱ」というという説もあるが、いかがだろうか。(図)

 イチョウ並木では、次の風景が印象に残っている。

イメージ 10〇東京・神宮外苑聖徳記念絵画館前のイチョウ並木(写真左)

 11月~12月初旬に「神宮外苑いちょう祭り」が開かれる。


イメージ 9〇そして、東京都八王子市の甲州街道(国道20号)写真右)の追分町交差点から高尾駅入口交差点まで約4km。

 ここに770本のイチョウ並木が続いているが、これは大正天皇の多摩陵造営時に植えられたものである。

 11月に「八王子いちょう祭り」が行われる。

美空ひばり/港町十三番地

 こんな歌もある。

田川寿美&美空ひばり/港町十三番地(1957年)【銀杏並木に】 


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 「港町十三番地」美空ひばりが(1989年、52歳で没、写真)が生前好んで歌ったマドロス曲の一つであり、ひばりの故郷である横浜市と隣の川崎市が舞台になっている。
 
イメージ 6 歌詞の中の「銀杏並木の敷石道」山下公園(写真)「マドロス酒場」馬車道あたりの酒場がイメージされたものだという。

 日本レコード協会(当時:日本蓄音機レコード協会)発行の機関誌「THE RECORD」に掲載された1957年の各社ベストセラーチャートで、「港町十三番地」はコロムビアの年間チャート1位を記録した。
 

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 タイトルにある「港町」とは、京急大師線・港町駅で、十三番地は存在しないが、作詞の石本美由起(2009年、85歳で没、写真の右)が語呂の良さから十三番地にした。 
  
 大師線の最初の停車駅が京急川崎駅から1.2kmの距離にある港町駅(みなとちょうえき)。(図)

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戦前、日本のレコード発祥の地としても知られている、日本コロムビア川崎工場がこの駅すぐ北側にあり、「コロムビア前駅」と名乗っていた。この工場でプレスされて全国に出荷されていた曲の一つに美空ひばりのヒット曲「港町十三番地」があった。
 
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 現在、港町駅南口の改札機横には、美空ひばりの等身大写真とともに、港町十三番地の歌詞が飾られ、彼女の手形とサインも入っている。
 
 その下には、同歌のレコードジャケットのイラスト、上には当時の日本コロムビア川崎工場の俯瞰写真がある。これらの歌碑の中にボタンがあり、押すと彼女の歌声が流れるようにもなっている。(写真)
銀杏(ぎんなん)

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 イチョウといえば厄介なのはもう一つ、独特の異臭を放つその銀杏(ぎんなん、写真)だが、ここの街路樹に銀杏は落ちていない。

 その悪臭の原因は、酪酸ぺプタン酸という物質で、この臭いを嫌う哺乳類に食べられないようにするためではないかと言われているそうだ。

 イチョウの実にはオスメスが有り、オスの実からのイチョウの木には実が付かず、メスの木にはイチョウの実が付く。ここの街路樹は、実のならないオスを選んで植樹されたようだ。

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 銀杏は食用として、彩りを兼ねて茶碗蒸し(写真左)に使われたり、酒の肴(写真右)としても人気がある。デンプンが豊富に含まれ、モチモチとした食感と独特の歯ごたえがある。自分も銀杏は好きだ。

  特に、滋養強壮や老化防止に効果的、漢方薬では、肺の働きを高め、喘息を鎮める効果があると言われている。

 栄養面で言うと、コレステロールを減らす「レシチンとアミノ酸バランスのいい良質タンパク質」、血圧を調節する効果のある「カリウム」も多く含まれている。

 しかし、銀杏には、アルカロイドがあるため、一度にたくさん食べると、嘔吐、消化不良、呼吸困難などの中毒症状をおこす可能性がある。子供は1日4~5粒、大人でもせいぜい10粒程度に控えるのがよいといった報告があるので、注意をしなければならない。

 落ち葉を掃除をするという立場さえならなければ、自分にとってもイチョウ並木は素晴らしい秋冬の風物詩だったのに…。う~ん、残念。

フランク永井/公園の手品師(1978年)【銀杏は手品師】

 

落ち葉の季節【続編】

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 Wikipediaの季語一覧の「冬の季語・植物編」を見ると、下記の通りだ。どう考えても記述が少なすぎる感は否めない。
イメージ 1 それでも、この言葉を頼りに「落ち葉の季節」と題した前作の続編を綴ってみたいと思う。

イメージ 2山茶花(サザンカ)と椿(ツバキ)

 自分の職場であるマンションは、山茶花(以下「サザンカ」と言うの花が今真っ盛りだ。(写真)

 前作ではイチョウの落ち葉の処理に困っていることをお伝えしたが、これには落ち花はあるが、悩むほどの量ではない。

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 サザンカの花や葉はツバキによく似ているが、一番有名な見分け方がこちら。
ツバキ(写真左):花が散る時に、花首から落ちる。
サザンカ(写真右):花が散る時は、花びらが落ちる。

 花首から落ちるツバキの散り際から「首が落ちるので縁起が悪い」と武士には嫌われていたというエピソードが有名。

大川栄作/さざんかの宿(1987年)


 サザンカという言葉を聞くと、童謡の「たきび」の次のフレーズ「♪さざんか さざんか さいたみち たきびだ たきびだ おちばたきを思い出す。

たき火

童謡「たきび」

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 童謡「たきび」(1941年)の作詞者(作曲は渡辺茂)として知られる児童文学者・巽聖歌(1973年、68歳で没、写真)は、1905年、岩手県紫波郡日詰町(紫波町)に生まれた。14歳のとき、知人の家で雑誌『赤い鳥を読んだことがきっかけで童謡に興味を持ち、友人と同人誌を発行したりするようになり、1925年、『赤い鳥』に投稿した「水口【みなくち】」が北原白秋に認められ、童謡作家として世の中に認められ、1928年、彼の勧めで上京した。
 

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 「たきび」は、当時住んでいた東京都中野区上高田付近の風景をうたったもので、自宅の近辺には樹齢300年を越す大きなケヤキが6本ある「ケヤキ屋敷」と呼ばれる家があり、その家にはケヤキの他にもカシやムクノキなどがあり、住人はその枯葉畑の肥料にしたり、焚き火に使ったりしていた。

 付近をよく散歩していた巽は、その風景をもとに詞を完成させた。当地には現在も「たきびのうた発祥の地」の看板が立てられている。(図)
 
 しかし、ちょうど日米開戦と同じ時期であったため、放送が打ち切りになったり、軍部から「たき火は敵の攻撃目標になる」とクレームがついたりしたが戦後復活し、軽快なメロディーとともに長く人々に愛される童謡となった。
 
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 戦後の1948年より日野市に居住。各地の学校の校歌を数多く作詩、日野第四小学校・七生中学校の校歌も聖歌の作品である。1999年、日野市・旭が丘中央公園にたきび会によって「たきび」歌碑(写真)が建てられた。また、JR中央本線・豊田駅の発車メロディに「たきび」が使われている

童謡「たきび」(1941年)【さざんか さざんか咲いた道】

たき火の現状

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 以前は、たき火が晩秋から冬にかけての風物詩だったように、落ち葉の掃除の後に、それをタネにたき火(落ち葉焚き)をして暖をとり、焼き芋、焼き餅、焼きみかん、焼き栗を食するのでが楽しみの一つだった。そうだと、落ち葉の掃除も苦にならないのだが…。(写真)

 今では、私有地であっても近隣住民の苦情やトラブル(洗濯物が汚れる、住居の外壁に煤がつく、悪臭が発生する等)に気を使い、決定的だったのは、1997年のダイオキシン騒動で、すっかりたき火は悪者扱い。また、日本国内の山火事の原因は、落雷など自然発火によるものはまれであり、最も多い原因がたき火だとされ、たき火はしにくくなった。

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とんど祭り

 左義長(さぎちょう、三毬杖)とは、小正月に行われる火祭りの行事。地方によって呼び方が異なり、とんど(歳徳)、とんど焼き、どんど、どんど焼き、どんどん焼き、どんと焼き、さいと焼きとも言われるが、自分の地元の広島県では「とんど祭り」と呼んでいた。
 
 1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松やしめ縄、お守り、破魔矢、祈願成就した「だるま」、書き初めで書いた物を持ち寄って焼き、その火にあたったり、餅を焼いて食べて無病息災を願うものだ。

 「とんど祭り」は、待ちに待った年始の風物詩であった。

枯葉と落ち葉

枯葉(Les Feuilles mortes )

 「枯葉」、1945年にジョゼフ・コズマが作曲し、後にジャック・プレヴェールが詞を付けたシャンソンの代表的なナンバーだが、イヴ・モンタンと言えば「枯葉」というように、「枯葉」は、彼の代名詞の曲となっている。

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 イヴ・モンタン(1991年、70歳で没、写真)はイタリア・トスカーナ州の人口2万人の町モンスンマーノ・テルメ出身で、フランスで活躍した俳優・シャンソン歌手。
 
 当時台頭してきたムッソリーニのファシスト政権を嫌い、1923年に家族でフランスに移住した。マルセイユで育ち、港で働いたり、姉の経営する美容室で働くなどしていたが、次第にミュージック・ホールで歌うようになる。1944年にエディット・ピアフに見出され、彼女はモンタンにとって助言者また愛人となり、2人の関係は数年の間続いた。
 
 1945年に映画デビュー。1946年に出演した『夜の門』で、主題歌の「枯葉」を歌ってヒットさせた。

 しかし、この曲が本格的に広まったのはインストゥルメンタル版でポピュラー・ピアニストのロジャー・ウィリアムズがヒットを飛ばしてからであった。ウィリアムスのバージョンは、枯葉の舞い散る様をピアノで模したきらびやかなアレンジが大衆に大受けして1955年に全米ヒットチャートで4週連続第1位を達成している。

イヴ・モンタン ロジャー・ウィリアムス/枯葉

五輪真弓/恋人よ(1980年)【枯葉散る 夕暮れは】



落ち葉(落葉)

 次のアルバート・ハモンドが歌う「落葉のコンチェルト」(For The Peace of All Mankind、1973年)も、ABBAの歌う「落葉のメロディ」Hasta Mañana、1974年)も、「落葉」という言葉はどこにもない。前者の題名を翻訳すると英語で「全人類の平和のために」であり、後者はスペイン語で「おやすみ」とか「また明日会いましょう」という意味だ。

 これはいつものことで、日本人が独特の感性でタイトルを付け直したもの。ただし、ご当人からクレームが入ったという話はいまだに聞いたことがない。

アルバート・ハモンド「落葉のコンチェルト」/ABBA「落葉のメロディ」


奥村チヨ/終着駅(1971年)【落葉の舞いちる停車場で】

年末だ

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 いよいよ今年も大詰め。今日と明日のみとなった。こんな時期は次の曲を思い出す。

吉幾三/雪國(1986年)【暦はもう少しで今年も終わりですね】


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 毎日寒い朝が続く。きょうも日本付近は強い冬型の気圧配置となっている。大雪のピークは過ぎつつあるが、このあとも日本海側を中心に雪が続き、吹雪く所もあるという。

 北海道ではここ数日大雪が続いており、場所によっては記録的な大雪となっている。今日(30日)午前1時までの48時間に、空知地方の夕張では101センチの降雪を観測し、統計史上1位の大雪となったそうだ。

 今日も午前11時現在、根室北部に大雪警報が発表されており、大雪が続く。また、札幌や千歳周辺でも雪が強まる恐れがあり、交通機関への影響も出るかもしれないという。

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 それについては、今年2月は日本海側が記録的な大雪だったことを思い出す。福井市では積雪が2月6日午後に134センチに達した。これは、1981年の「56豪雪」以来37年ぶりで、平年の6・4倍だったそうだ。

 福井県内の国道8号線で、最大約1500台が立ち往生(写真)した映像が何度も繰り返しニュースで伝えられていた。

 そのときに比べたらまだマシなのだろうが、雪国の冬はいつも大変だ。

吉永小百合&和田弘とマヒナスターズ/寒い朝(1962年) 


仕事納め

 昨日の29日が仕事納め。マンション管理人を始めて丁度1年半が経った。

 居住者の方はもとより、近隣にお住いの方や、出入り業者の方ともすっかり親しくなった。病気との闘いだった不安だらけの1年前とは驚くほどの様変わりだ。

 これはここではあまり言うべきことではないのだろうが、昨日は建物周辺で掃除をしているところに居住者の方が来られ、図らずもスぺイン土産とのことでワインを、別に、ご近所の方からスダチをいただいた。もちろん、高価なものは立場上辞退しなければいけないが、こういったご厚意には甘んじてお受けしている。そのお気持ちが嬉しい。

 今年は高校の同期会で帰省した2日間を除き、仕事を休むことも無かった。もちろん、老化は着実に進んでいる。痛んでいる身体の部位も多いはずだ。それは自覚している。それでも、去年よりは健康的な一年を過ごすことが出来た。

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 「困った時の神頼み」ではないが、ほとんど毎朝、通勤時の途中にある「神社」(写真)にお参りしている。

 昨日はこの1年、家族に大病が無かったことに、神様に感謝した。

 それでも「好事魔多し」。老年の身にはいつ何が起きるか分からない。来年に向かい、気を引き締めて働きたいと思っている。
上を向いて歩こう

 今年の通勤時のモットーは、「速足で歩幅を広く歩く」ことと、「上を向いて歩こう」だった。

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 「上を向いて歩こう」(1961年)はご存知、坂本九(1985年、43歳で航空機事故死、写真)が歌い、1963年6月、日本のポップスが米国の「ビルボード・ホット100」(シングル人気チャート)で3週連続1位に輝いた曲。それから半世紀を経た現在も、チャート1位を獲得した日本の歌は、この『SUKIYAKI』(上を向いて歩こう)だけである。

 2011年の東日本大震災の復興ソングとして、被災者を励まし続けた曲としても知られ、坂本が太平洋戦争時、川崎市から疎開をしたゆかりの地であり、東日本大震災で被災した茨城県笠間市の復興の合言葉として『上を向いて歩こう笠間』が笠間市役所などで使われた。

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 作詞を手がけた永六輔(2016年、87歳で没、写真)は、1960年に在日米軍を優遇する安全保障条約に屈したことへの嘆きを込めてこの詩を書き、~上を向いて歩こう 涙がこぼれない様に~」という歌詞は、こんな政治が支配する世の中でも、生まれたばかりの息子のために顔をあげようという決意の表れであった。

 その経緯を知ってか知らずか、「上を向いて歩こう」は、人々を勇気づける曲として今も燦然として輝いている。

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 11月3日のTBS系「サワコの朝」で、エッセイストの安藤和津さん(70歳、写真)が在宅介護した母を看取った後に鬱病を13年間患い、後に寛解したときの体験談。

 「胸を張って生きると、目線が上を向き、視界が開け、息もいっぱい出来るから気持ちも元気になる」

 こんな言葉も「上を向いて歩こう」の気持ちを押している。

坂本九/上を向いて歩こう(1961年)



 よく空を見上げている。が好きだ。だから雲一つもない「快晴」は苦手だ。これは最近の空の画像。残念ながらスマホではうまく雲が表現できない。

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  こんな歌が頭に浮かぶ。

黛ジュン/雲に乗りたい(1969年)


富士山

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 冬の空は澄んでいる。以前にもブログで紹介したが、はるか彼方の東京のマンションの屋上から見える富士山の姿が美しい。

 天気のいい日はいつも見ることが出来るとは、本当に自分は恵まれている。下写真が屋上から見える富士山。

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 池澤夏樹「うつくしい列島」(2015年、河出書房新社、写真)は、「世の中にはとんでもなく運のいい人がいる」という文章から始まる。

 続いて、「富士山は幸運続きの山だ」とある。

1.まずは(言うまでもなく)その形状。ほぼ完全なシンメトリーで、水平にすぱっと切り取られた山頂から左右ともになだらかな曲線を描いて広い裾野に至る。
(中略)ここまで整っていると象徴にされやすい。記号化されると言ってもいい。日本ではどんな子供でも富士山の絵が描けるが、それは実は絵でなくなのだ。

2.みんなに見える独立峰というのも幸運、言いかえれば人間にとって都合のいい偶然である。海から近く、人の行き来の多い東海道からよく見えて、しかも周囲には邪魔になる他の山が全くない。

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3.しかも、この目立つ山が日本一高い。これがどれほど幸運ないし偶然であるかは、日本で二番目に高い山はどこかと人に問うてみればわかる。南アルプスの北岳(写真)と即答できる人はめったにいないだろう。北岳は標高3,193mだが、その高さを実感する視点がないのだ。

4.もう一つ、日本地図を見慣れた我々が無意識のうちに認知している特徴がある。富士山はほぼ日本の中心に位置しているのだ。この山から北へ計れば稚内までがおよそ1,200キロ、南西を計ると奄美大島までが同じく1,200キロ。

 これだけの偶然が重なると、もう我々は富士山を日本の象徴、ほとんど日本国統合の象徴として受け入れざるを得なくなる。恐れ入りました、という感じだ。

 スターとは私的に付き合ったりしない方がいい。話をしてもいけない。向こうにとってこちらは何者でもないのに親しくなったような錯覚を持ってはいけない。近くからは見ない方がいい。

 遠いところから、このスターが他のスターと戯れるさまを憧れの視線で見る。それに徹しよう。(中略)富士山は人間が見ていることを意識していない。そこのところが正にスターだ。
 
 と締めくくっている。

唱歌「富士山」
 


行きつけのスナック

 昨日は仕事が終わり友人と、もう30年近くの付き合いになる、以前は行きつけだったスナックに久しぶりに行き、午前様になった。さすがに寄る年波を感じる。今日の午前中はほとんど布団を被って寝ていた。

 カラオケも久しぶり。最近は歌う習慣も無くなったので、思ったように歌えるか心配だったが、どうやらそれは杞憂に終わった。一度得心すると堰を切ったように歌が爆発する。

 あれだけ流行ったスナックも今は昔。今は閑古鳥が鳴いているようだが、昨日は違った。大勢の客が訪れ、懐かしい顔もあった。

 ママと相変わらずのデュエット曲はこちら。

島倉千代子&守屋浩/星空に両手を(1963年)


 次はこれも定番。お店の女性とのデュエット曲。

トワ・エ・モア/初恋の人に似ている(1970年)


ブログライフ

 そして、恒例のブログライフについて。

 段々、ブログ作成に時間がかかり、そのせいもあるのだろうか、Script Outというのか、うまくブログが作れない現象が長く続いている。

 そのイライラ感も作成が少なくなっている原因の一つだ。

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 これが、本当のデータなのか、トラブルが多いYahoo! Blogには不信感も大きいが、一応今月の12月に訪問者数の累計が80万人を突破した。過去のブログを調べてみると、昨年(2017年)の5月24日に60万人を突破したようだから、このままでいくと2020年の東京オリンピックまでには100万人に届きそうだ。

 これは自分にとっては金字塔になるので、健康が許す限り、最低ここまではブログを続けていきたいと思う。

 まだ今年は明日まであるので、これがブログの今年最終稿ではありません。次回もご覧いただければ幸いです。

平成の終わりに向けて

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 いよいよ2018年もカウントダウンに入った。

 今年は「平成」最後の年末で、しんみりとこの30年間の思い出に浸りたいところだが、さすがに30年間は長く、いろんな出来事があった。

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 平成は、昭和天皇(写真左)が崩御した次の日に今上天皇(写真右)の即位した1989年1月8日から、来年の2019年4月30日の退位予定までの、30年113日間(=11,070日間)を指す。日本の天皇が存命中に譲位するのは、約200年ぶりとなる。

 日本の元号では昭和(64年)が第一位の長さ。続いて、明治(45年)、応永(35年)に次いで4番目の長さである(5番目は延暦の25年)。 なお、応永は1394年から1428年までの期間。この時代の天皇は後小松天皇在位:1382~1412年)、称光天皇(在位:1412~1428年)。室町幕府将軍は足利義満在位:1368~1394年)足利義持在位:1394~1423年)、足利義量在位:1423~1425年)だった。

 天皇陛下は、2003年に前立腺がん、2012年に心臓手術を受けている。長期間のご公務に感謝したい。来年4月30日に退位し、長男の徳仁皇太子さまが翌日即位する予定だ。

 今上天皇は12月20日、23日の85歳の誕生日に先立ち行われた記者会見で、平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、「心から安堵」していると語られた。

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 そして、自分を支えてくれたと、日本国民美智子皇后陛下(84歳、写真右)に感謝する際には、特に気持ちがこめられていた。

 
 思い起こせば、もう60年も前になる美智子皇后陛下とのご成婚は、「ミッチー・ブーム」と呼ばれ、社会現象になる。1959年のご成婚の年に生まれた女の子はこぞって『美智子』という名前を付け、名前ランキング4位となった。(明治安田生命名前ランキング参照)

 「皇太子妃には旧皇族・華族から選ばれるのが当然」と考えられていた時代に「昭和のシンデレラ」になった、正田美智子さん(当時)は驚きを持って迎えられた。まだ9歳だった自分もよく覚えている。

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 明仁親王(当時)正田美智子さん(当時)はテニスを通じて知り合った。美智子がテニスで着ていた白地のVネックセーターや白い服装、身につけていたヘアバンド、カメオのブローチ、ストール、白の長手袋などのいわゆるミッチースタイルと呼ばれたファッションが大流行し、ヘアバンドは「ミッチーバンド」と名付けられた。 

 1958年、宮内庁で行われた11月27日の婚約記者会見で美智子さんが「とてもご清潔でご誠実なご立派な方で心からご信頼申し上げ」と皇太子の印象を述べた発言が大きな注目を集め、当時の流行語になった。

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 翌1959年(昭和34年)4月10日の、いわゆる結婚式(「結婚の儀」「御成婚」)と、実況生中継されたパレード(ご成婚パレード、写真)で、ミッチー・ブームは頂点に達する。皇居から渋谷の東宮仮御所までの8.18キロを4頭立ての馬車が目抜き通りを走るパレード沿道には、53万人の群衆が詰めかけた。
 
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 時を同じくして、首都圏広域の電波送信を可能にする東京タワー(写真)が1958年12月23日に完成、テレビのメーカー各社は競って宣伝を行なったため消費者は実況生中継を見ようとし、
テレビの売り上げが急伸した。

 パレードの一週間前に NHK の受信契約数(いわゆる普及率)は、200万台を突破。またテレビ製造メーカー、週刊誌各社は大量消費社会へのテイクオフを果たし、テレビコマーシャルや週刊誌の消費が伸びる契機となった。

 皇后は音楽に造詣が深く、学生時代からピアノが得意とされる。バチカン訪問の際の音楽会では、即興でグノーの『アヴェ・マリア』の伴奏を。このほかハープも得意とされる。そして、2009年のカナダ訪問時に訪れたトロントの小児病院では子供たちを前に、子育てのとき子供たちに歌って聞かせた「揺籃のうた」(北原白秋作詞、草川信作曲)を歌唱されたこともある。

 そして、ねむの木の子守歌(作曲:山本正美)を作詞、1966年、吉永小百合梓みちよの競作でシングルレコードとして発売された。

吉永小百合/ねむの木の子守歌(1966年)


 最近は政治家の教養のなさと、あまりの言葉の軽さに落胆していたが、天皇の記者会見は、正に「国民に寄り添う」ことを実践されていたそのお言葉の重厚さに感動したものだ。

 心から30年のご公務に感謝したい。


平成の思い出

 平成元年の1989年は、自分が38才のとき。地方の営業所長だったが、初めて一拠点の責任者になった年だった。

 個人的にも目まぐるしく変化した30年だったが、世の中の大事件については、テレビや新聞で何度も特集しているので、「政治」の1点だけに絞って紹介したい。

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 1989年は、第74代竹下改造内閣の末期だった。当時は官房長官で、後の84代首相になった小淵恵三(2000年、62歳で没、写真)が1月8日に新元号の「平成」を発表した姿は、今でも多くの人がはっきりと覚えているはずだ。

消費税導入

 そして、同年は消費税導入の年。そのときは初回で、4月1日に3%となった。1997年4月1日に5%。そして、2014年10月1日に10%になるはずだったが、世間の反発を恐れて、2014年4月1日に8%となり、さらに導入から30年後の来年の10月1日に10%になる。
 
 消費税の目的は、消費税法 第一条2項にこう書かれてある。

 消費税の収入については、地方交付税法(昭和二十五年法律第二百十一号)に定めるところによるほか、毎年度、制度として確立された年金、医療及び介護の社会保障給付並びに少子化に対処するための施策に要する経費に充てるものとする」

 いずれこんなことになるのではと危惧していたが、この目的は、なし崩しにされるとともに、逆進税である消費税の税率が上がる程、低所得者の生活に打撃を与える。

 今回は、過去、増税のたびに内閣が危機に瀕したことに鑑み、一時しのぎの泥縄対策に躍起のようだが、そんな無駄なことをする位だったら増税など止めたらいいのにネ。

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 1989年、世紀の大事件だったリクルート事件発覚と、消費税導入により支持率が急落した竹下登首相(2000年、76歳で没、写真)は、その責任を取って4月25日に辞意を表明した。

 しかし、ポスト竹下と目されていた安倍晋太郎宮澤喜一渡辺美智雄ら自民党の有力者は軒並みリクルート事件に関与していたため身動きが取れず、河本敏夫三光汽船経営危機問題から敬遠され、さらに伊東正義田村元坂田道太後藤田正晴からも断られて後継の総理総裁選びは難航する。

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 そこで、主要閣僚の中でリクルート事件との関連性が薄く、サミットが近かったこともあり外相であった宇野宗佑(1998年、75歳で没、写真)に白羽の矢が立ち、宇野が急遽後継総裁に擁立されることになった。

 これが、「竹下裁定」と呼ばれるものである。

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 同年の7月に行われた第15回参議院議員通常選挙は、リクルート問題、消費税問題、牛肉・オレンジの輸入自由化問題に加え、宇野首相の『3本の指を立てて「これでどうだ」と女性に身受けを迫ったスキャンダル事件』(写真)の、いわゆる「4点セット」が争点となった。

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 このとき、土井たか子・社会党党首(2014年、85歳で没、写真)に「山が動いた」と言わしめたマドンナブーム「土井ブーム」ともいう)も相まって、自民党は改選議席の69議席を大幅に下回る36議席しか獲得できず、特に一人区では3勝23敗と惨敗。参議院では結党以来初めての過半数割れとなった。

バブル景気

 ときはバブルの真っ只中。「バブル時代」というが、バブルといわれる時期は1986年12月から1991年の2月まで。

 その前は「円高不況」と称された深刻なときが続き、輸出産業が大打撃を受け、東京や大阪などの町工場には倒産が続出していたが、多くの人が好景気の雰囲気を感じ始めたのはブラックマンデーをすぎた1988年頃からであり、円高不況という文字がメディアから消えた。

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  バブルの象徴と言われた、1989年に、三菱地所が約2,200億円で買収したニューヨークのロックフェラー・センター(写真)

 このような成金的な「ジャパンマネー」による海外資産買いあさりは、アメリカ国民とニューヨーク市民の大きな反感を買い、ジャパン・バッシングの火に油を注いだ。しかし、後に不動産不況(バブル崩壊)で莫大な赤字を出すことになり、運営会社は破産。三菱地所が買収した14棟のうち12棟は売却され、現在は下記の「タイムライフ・ビル」と「マグロウ=ヒル・ビル」の2棟のみが三菱地所の所有となっている。

 ところで、宇野内閣後は海部内閣、宮澤内閣、細川内閣、羽田内閣、村山内閣、橋本内閣、小渕内閣、森内閣、小泉内閣、安倍内閣(一次)、福田内閣、麻生内閣、鳩山内閣、菅内閣、野田内閣と続き、現在の安倍内閣(二次)に続く。30年の間に74代の竹下内閣から98代の安倍内閣まで改造まで含めると、24もの内閣が替わった。1年に1度に近い早さである。 

民主党政権誕生

 この間の最大のハイライトは、2009年(平成21年)の民主党政権誕生だろう。

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現政権と民主党政権の違い

 振り返ってみると、民主党政権は現在の安倍内閣とは真逆の政権で、前者が国民や弱者に重きを置き、後者は国や富裕層に重きを置く。前者は「決断力がなく決められない」、後者は「生煮えでも決める」。前者は結果的に「迷走」に終わったが、後者は「暴走」しているという違いだ。

 政治責任を取らなかったということでも安倍政権は歴史に残るであろう。

 「政治責任が有効に機能しないところには民主主義が存在しない」という憲法学の杉原康雄・一橋大名誉教授の言葉の意味は重い。

 民主党政権に対する期待が多かっただけに、その反動と言うか、落胆も大きかった。しかし、現在の政治の混迷と劣化ぶりを見ると、民主党政権がもっと頑張ってくれていたならと悔やまれてならない。日本が模範国として世界の尊敬を集めるチャンスを逃してしまった。

 30年にわたる元号「平成」には、「平和の達成」という意味がある。

 特定秘密保護法、安全保障関連法、「共謀罪」法などを強引な手法で成立してきた安倍政権には危険が一杯だ。

 自分もホワイトハウスに向けた「辺野古の埋め立て中止」を求める嘆願書へ署名した。

 日本国民なのに、日本の首相が国民の声を聞かないので、アメリカ大統領に嘆願しなければならないとは異常事態である。忸怩たる思いだが、仕方ない。

 天皇は日本が戦争に巻き込まれなかった平成の30年間に安堵されたが、平成の次は戦争の時代だったと後世に残らないよう祈るほかない。(Wikipedia 参照)

16歳の歌

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 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 昨年末に書いた「平成の終わりに向けて」だが、いよいよ今年の4月30日に「平成」は終わりを迎える。

 1月1日に放送されたNHKが去年9月から11月にかけて、無作為に抽出した、全国の18歳以上の男女合わせて6000人を対象に郵送で世論調査を実施した結果、次の内容だった。

 まず、平成という時代に当てはまるイメージについて尋ねたところ政治「戦争がなく平和な時代」が79%に上ったのに対し、「社会的弱者に優しい時代」は30%に留まった。(左図)

 さらに、「昭和」と「平成」はどちらがよい時代だったと思うか尋ねたところ、全体的には、「昭和」は55%、「平成」は42%で、「昭和」の方が多く、年代別に見ると、「昭和」を知らない10代・20代は77%が「平成」、「昭和」の時代を幼い時期に過ごした30代は、61%が「平成」、一方、40代以上は「昭和」という答えが多いという結果となった。(右図)

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 この世論調査は妥当なところだろう。「戦争がなく平和な時代」と「治安が良い」という以外はネガティブな結果に終わっている。特に「社会的弱者に優しい時代」について妥当しない回答が多かったのは、安倍内閣の核心をついている。

 平成後の新時代には難問がたくさん待ち構えている。

 NHKの世論調査の結果にあるが、「民主主義が成熟」と言う点も、不安だらけだ。

 過去最高の長期政権となった安倍政権。政府が国会の審議も通さず、国際協調に尻込みをしているのも不安材料だ。「反核宣言」に後ろ向きなこともそうだし、国際捕鯨委員会(IWC)から脱退するというのも首を傾げる。捕鯨に関係の深い、安倍首相(山口)と二階幹事長(和歌山)の地元に忖度していると、もっぱらの噂だ。こんな独走は今年もっと進むだろう。

 そして、少子高齢化問題

 自分が働いているマンションの前は小学校の通学路である。朝と夕刻には子供のにぎやかな声が聞こえる。何時の時代も子供は一緒だと思う。こういう環境で働けることは幸運だ。

 都会に住んでいると、若い人の比率が高く、少子高齢化とは無縁のように思え、日本全体の問題を見失う恐れがある。

 昨年は45万人、日本の人口が減ったという。それぞれ県庁所在地の長崎市富山市が丸ごと消える規模で、今後さらにこの現象が加速するそうだ。

 同時に老いていく。全人口を年齢順に並べると、1965年は27.5歳が真ん中だった。それが、2015年には46.7歳になった。その半世紀後には55.7歳になると推計される。

 人口減少と少子高齢化の崖を世界一のペースで転がり落ちる。人類史上初の出来事が起きている。地方に住む人々は、国家の難題を先取りした先頭走者である。大都市の住民は、今は実感はなくとも、すぐ後を走っている。

 「社会の持続可能性を維持できない低出生率は、今の国のあり方に国民投票でノーを示しているようなもの。個人の生き方が国家の将来に直結する。その意味で究極の民主主義だ」と人口学者、金子隆一・明治大学特任教授は言う。

 情報技術の革新とグローバル化の深化で、世界は劇的な変化の予感をはらむ。高齢日本は変化をためらい、若い世代は政治の意思決定から遠い。 (朝日新聞2018.12.30記事から抜粋)
 もっともである。しかし、そんな事実も忘れたかのように、十代の若い世代が各方面で活躍し、2020年の東京オリンピックを前に日本国中が浮かれている。こんな十代選手だ。

1.卓球:張本智和(15歳)、伊藤美誠早田ひな平野美宇(18歳)
2.フィギュアスケート:紀平梨花(16歳)、坂本花織(18歳)
3.水泳:池江瑠花子(18歳)
16歳の歌
 
 日本では義務教育が終わり、16歳からが高校生。女性の結婚が可能になり、運転免許が取得できるようになる歳だ。

16歳の結婚

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 16歳の結婚では、三船美佳(現在36歳)と高橋ジョージ(現在60歳)の結婚を思い出す。2人は三船が13歳のころに知り合ってから交際に発展。三船が16歳、高橋が40歳のときに結婚している。「淫行条例」にも引っ掛かるほどの年齢で、当時は世間を大きく騒がせた。

 その後2人は芸能界を代表するおしどり夫婦として活躍したものの、2016年に離婚している。

16歳でデビューした歌手

 16歳でデビューした歌手は多い。

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●島倉千代子

 探せばきっとまだ多くの歌手がいるのだろうが、古くは島倉千代子(2013年、75歳で没、写真)。

 前年に「第5回コロムビア全国歌謡コンクール」で優勝し、同社と専属契約していた1955年(16歳のとき)の島倉のデビュー曲となり、半年後に200万枚達成、自身最大の大ヒットとなった「この世の花」(同名の映画の主題歌)。

 彼女は、1955年23曲、1956年34曲、1957年37曲、1958年33曲と驚異的な速さで新曲を発表した。

島倉千代子/この世の花(1955年)

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●西城秀樹

 昨年亡くなった西城秀樹(享年63歳、写真)は、1971年に上京、所属するプロダクションの社長宅での居候を始め、翌1972年に「恋する季節」でデビューしたのは秀樹が16歳の時だった。

 後に70年代を代表するスターとして、郷ひろみ(現在63歳)、野口五郎(現在62歳)と並んで「新御三家」と呼ばれる秀樹だが、当初は、甘いマスクでアイドル然とした郷、品のあるたたずまいで歌謡界の新星と期待された野口に比べ、キャラクターが定まっていなかった。そんな中、彼の代名詞である“絶唱系”が浸透していき、1973年に5枚目のシングル『情熱の嵐』で初のオリコンベストテン入りを果たすと、次の『ちぎれた愛』で、初のチャート1位を獲得した。新御三家で1位を獲ったのは秀樹が最初。ここから彼の人気は新御三家でも突出したものとなっていく。

 ちなみに郷ひろみのデビュー曲は彼が16歳のときの「男の子女の子」(1972年)。野口五郎は15歳のときの「博多みれん」(1972年)。最初にヒットした2曲目の「青いリンゴ」(1972年)も彼が15歳のときの曲だ。

西城秀樹/恋する季節(1972年)


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 「スター誕生!」1971年10月3日~1983年9月25日、写真という、日本テレビの視聴者参加型オーディション番組があった。

 「スター誕生!」からは、後に記述する中森明菜の他、岩崎宏美伊藤咲子らが、16歳でデビューした。

 「花の中三トリオ」と呼ばれた森昌子桜田淳子(現在60歳)山口百恵(現在59歳)の3人もそこで合格したアイドル歌手だが、デビューしたのは15である。なお、3人が進級するごとに、花の高一トリオ・高二トリオ・高三トリオと呼び名を変え、高校卒業時の1977年3月にトリオ解消となった。

 1982年はタレントの豊作で、「花の82年組」と呼ばれた。中森明菜小泉今日子の他、堀ちえみ三田寛子石川秀美松本伊代早見優シブがき隊らは、同年に16歳でデビューした。
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小泉今日子

 KYON2(キョンキョン)の愛称で知られる、小泉今日子(現在52歳、写真)は「花の82年組」1980年代のアイドルとしては松田聖子と中森明菜の2強に続いた存在であり、歌手としては筒美京平馬飼野康二の作曲した作品でヒットを連発した。1982年3月21日にシングル「私の16才」でアイドル歌手としてデビュー。

小泉今日子/私の16才(1982年)
 
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●中森明菜

 中森明菜(現在53歳、写真)も「スター誕生!」出身で、「花の82年組」の一人。16歳(1982年)のとき、シングル「スローモーション」でデビューし、1980年代のアイドルとしては松田聖子と2強を争った。別冊宝島の調査によると、1980年代のシングル総売上げは年間ベスト50位以内のものに限っても932.5万枚、年間50位以内ランクイン曲数は22曲と、どちらも当時の女性アイドル中1位であった。

中森明菜/スローモーション(1962年)

 海外ではこの人。

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●ジリオラ・チンクエッティ(Gigliola Cinquetti)
 
 サンレモ音楽祭といえばこの人、ジリオラ・チンクエッティ(現在71歳、写真)。2017年、24年ぶりの日本公演に訪れ、その美しさと歌声を披露した。

 ミーナは歳をとって妖怪と呼ばれるほど変貌したが、彼女は現在も活躍中で、その若さと美しさは目を見張るほどだ。

 1964年(当時16歳)に、「non ho l'eta」(夢見る想い)サンレモ音楽祭で歌っていきなり優勝、この曲で同じ年のユーロビジョン・ソング・コンテストにも優勝した。1966年には「Dio come ti amo」(愛は限りなく)を歌って、サンレモ音楽祭でふたたび優勝し、同名の映画にも出演している。
 

ジリオラ・チンクエッティ/夢みる想い(1964年)

題名が16歳(Sixteen)の歌

 今、十代で一番注目されている年齢は、2016年6月より選挙権を得た18歳だろうが、歌ではなぜか「16歳」をテーマにしたものが多い。

 「16歳(Sixteen)」をテーマとした海外の曲をいくつか聴いてみよう。

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●ケーシー・リンデン(Kathy Linden)

 ケーシー・リンデン(現在80歳、写真)の「悲しき16才」Heartaches At Sweet Sixteen)については、
前奏や間奏部分で「ヤヤヤーヤ、ヤヤヤヤ…」と歌う特徴的な部分が人気を博した。

 ザ・ピーナッツが1960年にカバーした曲で、日米ともにB面で、日本ではヒットしたが、アメリカでは全くヒットしなかったようだ。

ケーシー・リンデン ザ・ピーナッツ/悲しき16才(1959年)

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●ニール・セダカ(Neil Sedaka)

 ニール・セダカ(現在79歳、写真)は、1960年代前半に歌手兼作曲家として、1970年代にシンガー・ソングライターとしてそれぞれ黄金期を迎えた。日本やイギリスでも独自のヒット作を生むほどの人気を得た。「すてきな16才」(Happy Birthday Sweet Sixteen、1961年)は、ハワード・グリーンフィールドが作詞し、ニール・セダカが作曲、1962年1月6日から3週連続でビルボード・Hot 100の6位を記録した。

ニール・セダカ/すてきな16才(1961年)

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●サウンド・オブ・ミュージック(Sound of Music)

 サウンド・オブ・ミュージック(1959年)は、オーストリア出身のマリア・フォン・トラップによる自叙伝『トラップ・ファミリー合唱団物語』を基にしている、リチャード・ロジャース作曲、オスカー・ハマースタイン2世作詞によるミュージカル作品。

 「エーデルワイス」、「私のお気に入り」、「すべての山に登れ」、「ドレミの歌」、表題曲「サウンド・オブ・ミュージック」といったミュージカルの多くの曲がスタンダードとなっている。
 ミュージカルを原作に、1965年に公開されたロバート・ワイズ監督、ジュリー・アンドリュース主演のミュージカル映画は、第38回アカデミー賞で作品賞など5部門を獲得し、世界的に大ヒットした。 

 この「もうすぐ17才」(Sixteen Going on Seventeen)は、トラップ家の長女・リーズル(シャーミアン・カー、2016年、73歳で没)と、その一つ上で恋仲の17歳のナチスの電報配達員の恋人、ロルフリーズル(ダニエル・トゥルーエット、現在75歳)とが交互に歌う初々しさに溢れる曲だ。(写真)

映画「サウンド・オブ・ミュージック」より/もうすぐ17才(1965年)

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 16歳では、プロ将棋棋士の藤井聡太七段写真左)と、フィギュアスケートの紀平梨花選手(写真右)が、7月に二人とも17歳になるが、更なる活躍が期待される。

 今年も若い人が活躍できる日本であって欲しいネ。

冬に思う

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 今日は1月8日。もう、すっかりお屠蘇気分も無くなったところだろうが、今日から小学校も始まり、勤め先の前の通学路もにぎやかになる。

 自分は年末年始は5連休だったが、寝正月でゆっくり休むことが出来た。

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 官公庁は12月29日(土)から1月3日(木)までの6連休(図)

 民間では12月29日(土)から1月6日(日)までの9連休というところも多い。

 自分のサラリーマン時代は9連休のところが多かったが、今ではそんな長い休みが懐かしい。5日連休はアッと言う間に終わった。
年末年始の行事

森高千里/一月一日(1995年)

 正月には定番の行事がある。
 
◆正月以前(下図)
 
1.まずは大掃除。(12/13~12/28)

2.しめ縄、しめ飾り、門松を飾る。(12/27、12/28)
3.鏡餅を飾る。(12/27、12/28)

29日は9が「苦」となり縁起が悪いとされ、31日に飾るのも「一夜飾り」と言って神様に失礼だと言われている。

4.年越し蕎麦を食べる。(大みそか)
5.除夜の鐘を聞く。(大みそか)

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◆お正月以降(下図)
 
6.初日の出を拝む。(元旦)
7.初詣に出かける。(元旦)
8.おとそをいただき、おせち料理、お雑煮を食べる。(元旦)
9.お年玉をあげる(貰う)。(元旦)

10.書き初めを行う。(1月2日)
11.七草粥をいただく。(1月7日)
12.鏡開きを行う(1月11日)
13.左義長(自分の地域ではとんどと呼んでいた)を行う。(1月14日夜/1月15日朝)

*しめ縄やしめ飾りは、「松の内」が終わる頃に外すのがよいとされる。

 松の内とは、門松を飾っている期間で、元々は1月15日までを指していた。しかし、1月11日の鏡開きの時にもまだ門松を飾っているのはおかしいと、関東地方では1月7日に松の内を早め、それに合わせてしめ縄などの正月飾りも外すようになったとされている。しかし、関西地方では「松の内」が1月15日で、しめ縄やしめ飾りを外す地域が多い。

 そして、外したしめ縄やしめ飾りは、1月15日に神社で行われる〝どんど焼き〟に出して処分するのが一般的である。どんど焼きに行く事が出来ないという場合は、通常のゴミとして扱いますが、神様に関する物なので出来れば紙に包んだり、他のゴミとは区別するなどした方がよいとされる。

 昨日の朝お参りした神社には、既にしめ縄やしめ飾りを処分する場所が備えられていた。
 
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自分のお正月

 子どもの頃や、転勤先が実家に近く、父母や義父母が元気なころは、家族が全員揃い、上記の行事はほとんど網羅して正月らしいときを過ごしたものだが、段々らしさが無くなってきた。

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 結核で夭折した天才作曲家、滝廉太郎(1903年、23歳で没、写真)作曲の唱歌「お正月」(1900年)。

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 一番の歌詞は、「お正月には あげて こまをまわして 遊びましょう」と男の子向けの正月遊び、二番の歌詞では「お正月には まりついて おいばねついて 遊びましょう」と女の子向けの正月遊びが歌われている。

 「もういくつ寝るとお正月…」という歌い出しも本当の気持ちだったし、歌詞にある遊びも実際に正月ならではの遊びだった。 

 人混みや長い間待つのが苦手なので、三が日の「初詣」を避けるようになって久しいが、初出勤の1月4日に通勤の途中にある神社にお参りした。

 しかし、三が日を超え、しかも朝早い7時だったこともあり、人通りもなく、賽銭箱も置いていない寂しい初詣だった。

 そして、鬼門の年賀状。昔から年賀状を出すのが苦手だ。

 最近は「終活年賀状」というのがじわじわ広がっているそうだ。文章にしたためたことはないが、結果的には自分は随分前から行っている。

 遠くて、間違いなくもう二度と会うことがなさそうな人に年賀状を出さないと、相手からも来なくなった。

 それで、今や年賀状は本当に少ない。正月に来る年賀状は本音を言えばとても楽しみであるが、自業自得というか、転職を繰り返した経験は、会社にいたときだけの「お付き合い年賀状」が大半だったことを痛感させられるときでもある。

 「喪中のあいさつ」も年ごとに多くなった。姉の家もご主人が亡くなったので年賀状は無い。

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 世間的にも年賀状は減る一方で、人口の減少、他人との付き合い方の変化、慣習に対する姿勢の移り変わり、核家族化など多種多様な理由が考えられるが、やはりインターネットとソーシャルメディアの普及によるところが大きいと見て間違いはない。

 右図の通りだが、直近2018年発行・2019年用のデータに関しては、2018年8月30日に発表された2019年用年賀葉書の当初発行枚数の24億21万2千枚。ちなみに2018年用の当初発行枚数は25億86百万8千枚だったので、前年比▲約7.2%となっている。

寒い毎日

 寒い毎日が続き、ニュースもそのことを強調しているが、巷では地球温暖化と言われているのに、本当にそうだろうか。

 もちろん、今と過去では住んでいるところを始め、環境が違うので比較は出来ない。

 しかし、子どもの頃、今より体感的には間違いなく寒かった。

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 暖房と言えば、火鉢炬燵湯たんぽ(写真)

 毎年冬はしもやけあかぎれでとても辛い。しもやけは温めるとかゆくなる。それも辛かった。今の子たちはしもやけやあかぎれを知っているのだろうか。

によると、日本の冬(前年12~2月)の平均気温は、上昇傾向が続いており、長期的には100年あたり約1.10℃の割合で上昇しているという。(下図)

 細線(黒):各年の平均気温の基準値からの偏差、太線(青):偏差の5年移動平均、直線(赤):長期的な変化傾向。基準値は1981~2010年の30年平均値

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 こと東京ではこの140年あまりの間に年間で3℃夏は2℃強冬は4℃ほど平均気温が上昇しているという。(下図)

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 夏の熱中症も怖いが、冬のヒートショックによる突然死の方がもっと怖い。ましてや、心筋梗塞で手術した身だ。風呂に入るときが一番緊張する。姉の夫は昨年風呂場で亡くなった。これまでずっと朝風呂だったが、最近は止めた。

 今の仕事は寒くても夏のように汗をかく。違うのは醒めたときの冷たさだ。冬は本当に注意しなければならない。

 下図の様に1月、2月という冬の死亡率が年間で一番高い。特に老人にとって冬の健康管理が一番大切だ。

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冬の曲

ボンド/Viva

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 ボンド(bond)は2001年、ロンドンで 「21世紀対応、超美形ストリング・クァルテット!完璧なテクニックを身につけた美女4人組」 というキャッチ・フレーズで登場したオーストラリア人とイギリス人の女性4人からなる「元祖クロスオーヴァー」ストリングカルテット。

 Viva!」は、ヴィヴァルディの四季より「冬」の第一楽章をポップアレンジしたボンドの楽曲。日本ではトヨタ・istやCyberdamのCMやプロレスラー佐藤耕平の入場曲、ドラマ「小早川伸木の恋」の挿入歌などで使われた。

 原曲もどうぞ。


土居裕子/冬の星座


 「冬の星座」は、1947年(昭和22年)に中学の音楽教科書に掲載された歌曲。歌いだしは「木枯らしとだえて さゆる空より」。

 原曲は、19世紀に活躍したアメリカの作曲家ウィリアム・へイスによる1871年の歌曲
「モリー・ダーリン(Molliey Darlin'
)」内容は、モリーという女性に対して、「僕の事好きだって言ってくれ」と悶々とする男の狂おしい心境を歌ったラブソング。

 「冬の星座」との関連性はないようにも思えるが、2番の歌詞では「星」というテーマにおいて共通点があるようだ。

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 日本語の訳詞を手がけたのは、作曲家・作詞家・音楽評論家の堀内敬三(1983年、85歳で没、写真)。株式会社浅田飴の創業者である堀内伊三郎の三男として生まれ、ミシガン大学、次いでマサチューセッツ工科大学大学院を修了。本来は工学専攻であったが、ミシガン大学併設の音楽学校でも学び、帰国後は作曲・作詞活動を始めた他、、音楽之友社創立(1941年)にも携わった。

 外国で入手した楽譜と語学力とを活かして優れた訳詞を行い、スコットランド民謡「アニーローリー」、アイルランド民謡「春の日の花と輝く」、ブラームス「眠りの精」、フリース「モーツァルトの子守歌」、ドヴォルザーク「新世界より」第二楽章から「遠き山に日は落ちて」など、数々の有名な作品を残した。

 原曲もどうぞ。


老化現象「ハメマラ」

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 もうすぐ70歳だ。少し前までは自分は若いと思っていたが、段々年相応になったと思うようになってきた。

1.置かれている環境の影響も大きい。それは、人との接点が減った」ということだ。

 一般企業に勤めていた2年前は、自分は一つ年上の社長に続いての年長者だったが、若い人も多く、当然その人たちと話す機会もたくさんあったので、あまり「歳」を感じたことがなかった。

 今もマンション管理人として働いているが、人と話す機会が圧倒的に少なくなっている。もちろん人と接することはあるが、じっくり話し込むことはほとんど無くなった。

 ときどき行われる同業者の研修で集まる人たちはほとんど同世代。自分を鏡で見ているようで、嫌が応にも自分も「老人」であるという自覚が生まれる。

 そして、仕事上の付き合いもあって飲みに行くことも多かったが、今は家計のこともあり、外食すらほとんどしない。

 カラオケをしなくなったということも含め、「声」を出すことが少なくなったということだ。

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 昨年末に行われた上述での研修で、アンチエイジングについて講演があり、その中で「本や新聞を音読する」というのがあった。

 「声帯」は人間の筋肉の中で一番強いが、使わないと真っ先に衰える筋肉でもある。これはいい方法だね。

2.そして、「身体が老人らしくなった」ということだ。

 いろんな箇所で身体が悲鳴を上げている。

 俗に「ハメマラ」というが、男性の老化の進行で代表的な部位のことをいう。

 男性はみんな知っていると思うが、ちなみにハメマラの『ハ』は(歯槽膿漏や歯肉炎、固いものが噛めないといった症状)、『メ』は(視力低下、細かい文字が読めない)、『マラ』は梵語のmaraから男性の生殖器官(ED(勃起不全)や尿の切れの悪さ)を意味する。

 3番目の「マラ」はここでは置いといて、「歯」と「目」は幼いころから病院に通った回数では双璧で、今でもよく病院にお世話になっている。


 歯については、子どもの頃から食後や就寝前に必ず歯を磨くという習慣をきちんとしていれば、バロメーターと言われる20本以上の歯」があったのではないかと、今では悔やまれる。

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 昔から固いものが好きだったが、随分前から義歯のお世話になっている。今では好きなスルメ(写真)も怖くて食べられない。

 「8020現在歯数と健康寿命」に、歯の健康と健康寿命の関係のことが書かれている。

 8020運動は、平成元年より厚生省(当時)と日本歯科医師会が推進している「80歳になっても20本以上自分の歯を保とう」という運動です。20本以上の歯があれば、食生活にほぼ満足することができると言われています。そのため、「生涯、自分の歯で食べる楽しみを味わえるように」との願いを込めてこの運動が始まりました。(日歯HPより引用)

 愛知県知多半島の65歳以上の住民を3~4年間追跡した研究において、歯が多く残っている人や、歯が少なくても義歯等を入れている人では、歯が少ない人また義歯を入れていない人と比較して、年齢、治療中の病気や生活習慣などの影響を取り除いても、その後に認知症発症転倒する危険性が低いということがわかってきています。

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 は、歯の状態や入れ歯の使用状態と認知症になっている人の割合を示しています。

 これによると歯を失い、入れ歯を使用していない場合、歯が20歯以上残っている人や歯がほとんどなくても入れ歯によりかみ合わせが回復している人と比較して、認知症の発症リスクが最大1.9倍になるということを示しています。また、図5では、歯が19歯以下で入れ歯を使用していない人は、20歯以上保有している人と比較し、転倒するリスクが2.5倍になることが示されています。


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 またによると、保有する歯が19歯以下の人は、20歯以上の人と比較して1.2倍要介護認定を受けやすいという結果が出ています。つまり要介護状態になる危険性も歯が多い人ほど少ないこともわかってきています。(中略)
 
 歯が多く残っていることや、すでに喪失していても入れ歯等で口腔機能を維持することは要介護になりやすい疾患を予防し、健康寿命を延伸する可能性があると思われます。

 現在、平均値で20本以上保有する年齢層は69歳までとなっています。70歳以降では自分の歯が20本を下回っている方が多いことがわかります。平均寿命が、女性では86.41歳、男性が79.94歳である日本において、歯の本数は長寿に追いついていない現状となっています。
目(眼)

1.まずは、目の役割について

 目の役割は大きい。もちろん目は物を見るためにあるが、少なくとも人間の場合には、「目は口ほどにものを言い」「目は心の窓」という言葉もあるように、目は非言語コミュニケーションの大きな部分を担っている。
 2.
の違いと使い方について(「目」と「眼」の違いと使い分けを区別するポイント参照)

【目】「め」と漢字で書くとき「目」と書けば間違いない。
「目」の汎用性の高さを表す用例
▼「見る行為」に関係する
・形や外観:ため目、つり目
・見る行為:お目にかかる
・見た印象:見た目、目つき
・能力:目が悪い(視力)、目が高い(洞察力)
・評判:世間の目
▼「見る行為」に関係しない
・形が目と似ている:台風の目、魚の目
・区切りをあらわす:一つ目、二番目、三年目、節目
・状態や性質:落ち目、焦げ目
・体験:大変な目にあう
【眼】「眼球」が正式名称で「目玉」は俗称。そのため「眼科」などと言う。
【目と眼】「目」は形状から機能まで幅広く使われるが「眼」は医学の専門用語と「見る行為」に特化される傾向にある。
「眼」が使われる医学・生物学の専門用語以外の言葉の例
▼「見る行為」に関係する…審美眼、観察眼
▼「見る行為」に通じる…眼力、心眼、慧眼
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3.眼鏡

 子どもの頃から近視乱視があり、40代後半から老眼も加わった。

 眼鏡をかけるのは煩わしいのと、そんなに絶望的ではなかったので、かけたりかけなかったりしていた。

 それが、今は眼鏡をしていない。とても気に入っていた、買い替えたばかりの眼鏡を無くしたことがある。どこを探してもないので、どうやらゴミと一緒に捨ててしまったようだ。

 眼鏡を代える暇も無く、60歳になって転職した会社では最初からかけるのを止めた。ところが、不思議なことに視力が改善したのだ。以来、眼鏡をかけたことがない。

 眼鏡をかけ続けると、悪い視力が固定してしまうという話を聞いたことがある。自分は多分そのクチだ。

 3月に運転免許証の更新が待っている。長い間運転をしていないので、そろそろ返上しようという気持ちと、今も事実上身分証明書の代わりとなっているので、いろんな手続きで不便にならないかという心配が交錯して、更新するかどうか迷っている。
4.目の病気

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 目の病気ではこんな経験がある。

 40歳手前の頃だったと思う、営業の仕事で山口県の宇部市のあるホテルに泊った。次の日起きるとどうも右目がおかしい。ギラギラした感じがする。何度目をこすっても治らない。そのときはまさかそれが白内障(図)だとは夢にも思わず、このところ展示会続きで疲れが出たのだと思っていた。
 
 それからが大変だった。生活は一変した。目が悪いため、運動能力も落ちた。それでも仕事が営業なので車の運転を避けることが出来ず、特に夜の運転はひやひやものだった。
 
 その後病状の進行を待って、5年後にやっと手術をした。当時は白内障も入院して手術をしていた。初めて経験する入院。そのときまだ44歳、こんなに若い白内障患者はいない。周りは老人ばかりである。じろじろ見られて恥ずかしかった思い出だけが残る。
 
 病気の原因は不明である。もちろん糖尿病ではない。紫外線を浴びすぎるとなるそうで、営業活動で外に出ることが多かったせいだろうと思っている。
 5.目の衰え

 最近、目の衰えを強く感じる。

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 本やテレビを見ても疲れて長続きしない。長く見ているとぼやけて二重写しに見える。そして、物が見えにくくなった。ハズキルーペが欲しいぐらい小さい字が見えにくい。(画像)

 まだ大丈夫だが、これ以上目が悪くなると、今の仕事では致命傷になる。ゴミが見えなくなると仕事にならないからだ。

 最近観たテレビで、印象に残るシーンがあった。

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 1月7日に日本テレビで放映された「はじめてのおつかい!爆笑!2019年大冒険スペシャル」(画像)だが、最後のこの映像しか見ていない。

 23年前、0.02という弱視の舟君が初めてのおつかいをする。涙涙の話だった。

 お母さんは、心配で心配でたまらない。本人も行くとは言ったものの、途中で決断が出来ない。お母さんはわが子を弱視という理由で甘やかしてきたことを悔いる。実は、この子のおつかいはナレーションの言うとおり「お母さん、貴方のおつかい」だった。はじめてのおつかいは、1年後には一人で行けるようになっていて、23年後には立派に成長して乗り継ぎの多い職場に通っているという。

 目が見えないと言うのはどういうものだろうか。いつか、研修の一環で、目隠しをして歩かされたことがある。何の目的でしたのかは忘れたが、不安で恐ろしい経験だった。誰しも未知の世界は怖いものだ。

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 これからいろんな臓器が弱くなるだろうが、目が見えなくなるのは最も怖い病気の一つだ。目が見えないとこれまで経験した多くの楽しみが失われる。行動範囲も限られる。

 その代り、健常者には分からない感性が発達する。辻井伸明(30歳、写真)を見ればその凄さが分かる。 

辻井伸行/ラ・カンパネラ


 流れに任せるしかないね。

「兼高かおる」を始め、訃報相次ぐ

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 有名人の訃報が相次いでいる。兼高かおるさん(90歳、心不全で1/5没)、天地総子さん(78歳、脳梗塞で1/6没)、梅原猛さん(93歳、肺炎で1/12没)、市原悦子さん(82歳、心不全で1/12没)だ。

 市原悦子さんについては、NHKのテレビ番組を見ているとテロップが流れたので、何事かと思ったら、彼女の訃報の知らせで、ここまで国民的な大ニュースなんだと驚いたものだ。

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 1月8日の拙ブログ「冬に思う」で、のように、『1月、2月という冬の死亡率が年間で一番高い。

 特に老人にとって冬の健康管理が一番大切だ』と述べたが、正にその通り。みんな老人の代表的な病気で亡くなっている。
イメージ 2 ところで、自分の「アクセス解析」(図)は、ほとんど毎日見ているが、そのランキングに最近変化が起きている。

 どうやらこの方たちの「死」に関係がありそうなのである。

 自分のランキング・ベストテンは、ほとんどいくつかの過去の記事で固定している。いわば常連客のようなものである。それが、ときどき新参者が現れる。

 例えば、こんな記事だ。


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 どうやら前者は、紀行番組「兼高かおる世界の旅」(左画像)、後者は、NHKテレビのバラエティ番組「連想ゲーム」(右画像)で、天地総子さんが3代目の紅組キャプテンを務めたことを簡単に伝えたことがランキングのトップに躍り出た理由ではないかと思う。


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 なお、訪問者数については、もうすぐ10年、2500作を超えたブログのお陰で、最近の投稿が少ない割には望外の一日400人以上の方に見ていただいている状態が続いている。

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 今回は紙面の都合もあり、兼高かおるさんのことについて絞りたい。
兼高かおる

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兼高かおる世界の旅

 海外渡航が自由化される前、海外旅行が夢のような1959年に、紀行番組『兼高かおる世界の旅』は始まった。そのとき、兼高かおるは31歳。

 当時のテレビは白黒(写真)の時代。TBS系列局で主に毎週日曜日朝に放送され、自分もずっと見ていた。そのとき10歳だった。

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 まだ女性の社会的地位が低い時代に、若い彼女が世界を股にかけ、ディレクター、プロデューサー、レポーター、ナレーター、そして時にはカメラマン全てを兼ねるという縦横無尽の活躍ぶりに目を丸くしたものだ。

 その美貌と品の良さ、一人称が「わたくし」で、笑い方が「ホホホ」と言うのにも驚いた。こんな女性が日本にもいるんだ。

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 当時TBSアナウンサーだった芥川隆行(1990年、71歳で没、写真)との掛け合いも楽しみの一つだった。彼は、後に「木枯し紋次郎」などで、ナレーションの第一人者となった。

 正確に言うと、放送開始当初のタイトルは『兼高かおる世界飛び歩き』だったが、1960年6月19日放送分をもって一旦中断し、同年9月20日放送分から放送を再開し、『兼高かおる世界の旅』に改題した。

 放送回数は『世界飛び歩き』を含めて1990年9月30日にかけて30年10か月の間の1,586回。全行程は721万kmであり、何と、世界各地160か国を取材し、地球を180周した計算になる。

 番組のテーマ曲(1977年まで)は、映画「80日間世界一周」(1956年)の同名の主題曲。

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「80日間世界一周」は、「SFの父」と呼ばれるジュール・ヴェルヌ(1905年、77歳で没、写真)による1873年出版のフランスの小説を映画化したもの。 

 大プロデューサーとして知られたマイク・トッドがプロデュース、イギリス出身の若手監督マイケル・アンダーソンが監督した。

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 1872年、イギリス人資産家フィリアス・フォッグ(デヴィッド・ニーヴン20,000ポンドの賭けに勝利するため、執事のパスパルトゥーマリオ・モレノ)を従え、後期ビクトリア朝時代の世界を80日で一周しようと試みる、波瀾万丈の冒険物語。(写真)


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 音楽は、ヴィクター・ヤング(1956年、57歳で没、写真)。1930年代中頃より映画音楽に専念し、アカデミー賞に22回ノミネートされたが、生前に受賞することはできず、死後にこの「80日間世界一周」でアカデミー作曲賞を受賞した。

 他に「シェーン~遥かなる山の呼び声~」(1953年、映像)などがある。映画エデンの東」の演奏も素晴らしい。



兼高かおるの経歴

 兼高かおるさんの経歴に少し触れてみよう。

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 兵庫県神戸市生まれ。本名は兼高ローズといい、父親はインド人。1946年香蘭女学校卒業後、1954年ロサンゼルス市立大学に留学。その後ジャーナリストとしてジャパンタイムスなどで活躍する。香蘭女学校では黒柳徹子の先輩にあたり、「徹子の部屋」にも出演している。(画像)


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 ところで、自分の妻の旧姓は「兼重」という。この名字も珍しいが、同じ「兼」を使っている「兼高」という名字も珍しい。

 「名字由来NET」によると、兼高姓は、9,524位の全国で790人。静岡県が一番多く、250人だという。(図)

 朝日新聞1月13日の文化・文芸欄にこんな記事が載っていた。


 「兼高かおる世界の旅」は女性たちが特に注目していた番組でした。女性でも自分の得意分野を仕事にできる。さらにその仕事が海外を紹介するものだという驚き。放送が始まった1959年当時は、自由に海外旅行に出られなかった時代です。誰にでも会って、どこへでも飛び込んでいく人だったから、パイオニアとしてテレビ局にも重宝されたんだと思います。

 TBS社員も当時はみんな海外経験が乏しい。語学が堪能で経験豊富な兼高さんに頼らざるを得ませんでした。航空会社や日本の商社の駐在先に現地で紹介してもらうなどして取材していました。「ホテルの手配から何から全部私がするのよ」「チェックインの名前も私が書くのよ」と言っていましたね。出演者なのに取材のコーディネートから編集作業、ナレーションまで一手に引き受け、1回取材に出ると2カ月は戻りませんでした。

 取材映像を見て一番すごいと思ったのは、兼高さんが取材先で現地の食事を出された時に絶対に残さないことです。ヤギの頭が出てきても、驚いたり嫌がったりすることもなく、勧められるままきれいに食べる。男性スタッフの中には食べられない人もいたので、みんなで感心しました。

 私がプロデューサーを務めたのは番組が終わった90年までの6年間です。この頃になると当初に比べて海外も身近になり、取材先も似たような場所が多くなるというジレンマを抱えていました。すると兼高さんは、チャールズ皇太子のインタビューを自ら取りつけてきた。なんとか付加価値を付けようと懸命だったのだと思います。

 それでも最後には視聴率の低迷やスポンサー事情で幕引きが決まりました。過酷なロケで、体調や年齢的にも厳しそうでしたが、兼高さんは「どうしてやめるんですか」と言って納得できない様子でしたね。

 晩年まで送られてきたはがきも、今年はどこの国に行ったとか、クルーズ船に乗ったとか海外旅行の話ばかりでした。船の上で講演もしていたようです。兼高さんの心の中で、番組は続いていたのかもしれません。今度はお星様に乗って旅をしているのかしら。
(聞き手・矢田萌)



 ご冥福をお祈りいたします。合掌。

CMソングの女王

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 前作では右写真の有名人4人の訃報の内、左端兼高かおるを紹介した。

天地総子

 その4人のうちの一人、「フーコ」こと、左から二番目天地総子は、そういえば最近見かけなかったなと思ったが、以前はテレビに登場しない日が無いほどの活躍ぶりだった。

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 彼女については、どの追悼記事を見ても、1970年から79年まで、NHKのバラエティ番組「連想ゲーム」(写真)の紅組キャプテンと、「CMソングの女王」の事が書かれてある。

 白組キャプテン・加藤芳郎さん(2006年、80歳で没、写真左)との掛け合いが懐かしい連想ゲームのことはよく覚えているが、「CMソングの女王」の異名があったのはすっかり忘れていた。

 言われてみればそうだった。「パンシロンの歌」「アート引越センター」など、2000曲以上のコマーシャルソングを歌ったというのだから凄い。それもあり、テレビに登場しない日が無いほどといったのだ。正確に言うとテレビで歌声を聴かない日が無いほどというべきだった。

 ご冥福をお祈りします。

 『天地総子大全~フーコのコマソン・パラダイス』(2007年)というCDが発売されている。

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 1. 全国こども電話相談室テーマソング
 2. アート引越しセンター(*初代)
 3. パンシロンの歌(ロート製薬)
 4. 日石灯油「日石灯油だもんネ」
 5. サクマのチャオ
 6. でん六まめ
 7. きゅうりのキューちゃん
 8. オリンパス・ペン
 9. ライオネス コーヒーキャンディ(ライオン菓子)
 10. コンビアン
 11. 明治チョコボールアーモンド
 12. ロッテ 小夏
 13. オリーブ石鹸・浪曲篇
 14. 冗談天国のテーマ with 逗子とんぼ
 15. 減点パパの唄
 16. お笑いオンステージの歌
 17. あなたの次のプレゼント
 18. 雨に濡れていた
 19. なぜ?
 20. 福正宗
 21. 東京白衣
 22. 伊豆屋のパン
 23. 金港堂の唄
 24. 八木山ベニーランド(*東北ローカル)
 25. レキシィデータ
 26. 明治コナミルク
 27. 子供ライオン
 28. 新アサヒ豆腐ふっくらさん
 29. 三ツ矢サイダーのうた
 30. イパネマの娘 with 笈田敏夫
 31. オルフェの唄
 32. 悪魔ソング (『それからのブンとフン』より)

 33. 銀色の真昼

天地総子/全国こども電話相談室テーマソング・パンシロンCM



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 ところで、拙ブログで「CMソングの女王」として紹介したのは、元祖CMソングの女王・楠トシエ(現在91歳、写真左)の第295話:元祖CMの女王「楠トシエ」と、松田聖子(現在56歳、写真右)の第288話:CMの女王「松田聖子」だ。

 なお、松田聖子は特定の企業や商品と提携して作られた「タイアップソング」で、元歌のレコードもヒットしたが、楠トシエや天地総子の場合は、基本的に、純粋な「広告音楽」であり、レコードとして市販したものではない。
楠トシエ

 自分は年齢のせいか、CMソングと言えば、楠トシエのことが真っ先に思い浮かぶ。

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 楠トシエは1949年、21歳の時、角筈のムーランルージュ新宿座(写真)へ歌手として入団し、芸能界入りした。

 なお、ムーランルージュ新宿座は、彼女の他、森繁久弥由利徹左卜全らが活躍したが、ストリップ人気に押されて51年5月に閉館した。 現在、同ビルは新築され、パチンコ店ベガスベガス新宿店とディスカウントストアのドン・キホーテが入居している。

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 1951年のムーラン解散前後から、日本初のCMソングといわれる『僕はアマチュアカメラマン』(小西六写真工業、1951年)を作った三木鶏郎(1994年、80歳で没、写真)の誘いで、NHKラジオ第1『日曜娯楽版』に出演し、一躍全国区の歌手となった。

 1953年、25歳の時、「NHK専属タレント第1号」となる。

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 その後も、三木鶏郎グループの一員として、テレビ・ラジオ出演をこなし、黒柳徹子らとともに「テレビ女優第1号」(1957年)と呼ばれる一人となる。 

 『お笑い三人組』(ラジオ 1955年11月 - 1960年3月、テレビ 1957年 - 1966年3月)。写真中央桜京美(1988年、58歳で没)、写真右は、音羽美子(現在86歳)。『ひょっこりひょうたん島』(1964年 - 1969年)、『おはよう!こどもショー』(日本テレビ、1965年 - 1970年代)など、多数の番組に出演した。

 歌手としては、『NHK紅白歌合戦』に7年(1957年~1963年)連続出場している。

楠トシエ&デュークエイセス/僕は特急の機関士で(1953年)


 そして、800曲とも1000曲とも言われるほどCMソングを吹き込み、「コマーシャルソングの女王」と呼ばれている。楠の代表曲である清酒黄桜CMソング『かっぱの唄』は、現在も時折放送されるロングランCM曲である。また、内外薬品・『ケロリン』のCMソング『青空晴れた空』は、1958年にシングル(SP盤)発売され、大ヒットした。現在はリメイクバージョンにはなったが、CMに使われている。 

楠トシエ/黄桜「カッパの唄」・ハウス・バーモント・カレーCM


 かつてのLPレコードのアルバム『みんなが知ってるコマーシャル・ソング集』(1960年)のジャケットを再度ジャケットに採用、同アルバムを含む2枚組CDアルバム『元祖コマソンの女王 楠トシエ大全』(2007年)が発売されている。

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ディスク:1
 1. かっぱの唄<黄桜>
 2. 船橋ヘルスセンター(長生きチョンパ)

 3. カシミロンの歌
 4. ハマフォームの歌
 5. 仁丹の歌
 6. アルコLの歌
 7. サントリーの天気予報(あしたのお天気)
 8. かーんかーんカネボウ
 9. 花王石鹸の歌
 10. ノーシンの歌
 11. シャンシャンオーシャン波の上
 12. ミツワ石鹸
 13. 講談社の歌
 14. みんみんミゼットの歌
 15. ポポンの歌(ポポンとね)
 16. パンの歌
 17. ライオンコナコナの歌
 18. キスミー・セクシー・ピンクの歌
 19. トーハツ号の唄(東発号の歌)
 20. 頭の中までスカッとね
 21. かーんかーんカネボウ
 22. 淀屋橋から三条へ京阪特急
 23. オルガン針の唄
 24. 丸井の歌
 25. マルハ大洋練炭の唄
 26. 日清製粉愛唱歌 サラサラシューッ
 27. 味の素・お料理ミュージカル(幕の内篇)
 28. ブリヂストン チャンピオン オートバイの唄
 29. パント錠の唄
 30. 大井証券マネープランの唄
 31. 近鉄特急(近鉄のうた)
 32. パイロットでスタート
 33. トントントマト・まっかっか<カゴメ>
 34. テル<旭電化>

 35. ヴィックス
 36. かっぱ黄桜
 37. セデス
 38. テル
 39. かごめケチャップ
 40. ケロリン青空晴れた空

ディスク:2
 1. 誰も知らない
 2. ラジオ体操の歌
 3. かかしのねがいごと
 4. すうじのうた
 5. うちのママは世界一
 6. おはよう!こどもショー
 7. びんちゃんのうた
 8. ろばくんのうた
 9. おーい体操だい
 10. ふしぎの国のアリス
 11. パットマンX
 12. 怪人わかとの
 13. 雪のワルツ
 14. 二見音頭
 15. こけしのチビッ子
 16. サンマ・サンバ
 17. 二人の雨
 18. ピンポンパン
 19. チンチロリン
 20. 僕は特急の機関士で
 21. ベアトリ姐ちゃん
 22. 連隊の唄
 23. 恋はやさし
 24. 石松金毘羅道中
 25. マンハントに行こう
 26. お母さんおぼえていますか
 27. 黒猫シャノワ
 28. 笑いましょう
 29. オリンピック・ア・ゴーゴー
 30. ダイヤモンドのパンツ
のこいのこ

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 のこいのこ(現在70歳、写真)という変わった芸名の歌手もいた。本名は猪子育代(いのこいくよ)。本姓をもじって芸名としたそうだ。

 彼女は、20世紀後半から21世紀初頭にかけて、多くのコマーシャルソングを手がけ、隠れCMソングの女王」と呼ばれ、800曲以上を手がけた。

 また、フジテレビ系列の子ども番組『ひらけ!ポンキッキ』(1973年~1993年)では、「パタパタママ」(1976年)などの楽曲や既存曲などの童謡も数多く録音している。

 なお、この番組からは、この曲の他、シングルレコード450万枚以上を売り上げ、日本におけるシングル盤売上記録1位作品の「およげ!たいやきくん」(1975年)をはじめ、「いっぽんでもニンジン」「ホネホネ・ロック」「はたらくくるま」「まる・さんかく・しかく」「カンフーレディー」といったヒット曲も生まれた。

のこいのこ/パタパタママ(1976年)


 彼女も『のこいのこ大全』(2006年)をビクターエンタテインメントから発売し、累計で4万枚以上を売り上げている。

 その「のこいのこ大全」に続くアルバムのこいのこ大全リターンズ」(写真)2012年に完成。「前回惜しくも収録出来なかったCMソングに加え、小西康陽による番組テーマ曲のほか今回はなんと新録を8曲収録!伊藤アキラ、桜井 順、高浪慶太郎ら豪華作家陣による新曲、そして、名曲「ヤセタンとコロンタン」「パタパタママ」「キャンティのうた」「もものハート」「青い空白い雲」のリメイクなど、ミラクルボイスがたっぷり楽しめるアルバムです」とある。
 
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1.のこいのこ新発売!
2.青い空白い雲
3.もものハート
4.バンダイ ぼくらのニュータウン B
5.モココーワ
6.シンシン パリキュー
7.パットちゃん(ロングバージョン)
8.ミルキークレール A
9.ミルキークレール B
10.クリネックスティシュー
11.BACK-UP!
12.爆笑おすピー問題!
13.シャパクリャクの歌
14.東急大決算A#1
15.東急大決算C#2
16.グリコカプリソーネ B#3
17.グリコカプリソーネ サウンドロゴ・メドレー
18.味の素マヨネーズ サウンドロゴ
19.プラッシー A
20.プラッシー B
21.ヤセタンとコロンタン
22.キャンティのうた
23.ロッテ A
24.ロッテ C
25.ロッテ D
26.三菱もちつき器
27.セイカ スイートチコ
28.セイカ パズル
29.セイカ プロペラジェグラー B
30.でん六豆 サウンドロゴ
31.日曜天国ジングル
32.とくダネ!ジングル
33.やぐちひとりジングル
34.旭食品 A
35.ナショナル ラブラブ
36.緑屋 A
37.味覚糖ラムネーダー A
38.味覚糖ラムネーダー B
39.ヤマキ減塩だしつゆ
40.パタパタママ
41.よそ見ばっかり
42.そっとおやすみ

スリーグレイセス

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 スリー・グレイセス(写真)は、1958年に結成され、ミリオンセラーになった「山のロザリア」(1961年)で脚光を浴びた女性3人組のコーラスグループ。CMソングなど多数の作品を残している。

 メンバーは、森本政江(旧姓:石井、姉、アルト・リーダー、写真中央)、星野操(旧姓:石井、妹、メロディー、写真左)、白鳥華子(旧姓:長尾、ソプラノ、写真右)。1967年~1989年、それぞれ結婚・出産、家事・育児に専念するため活動休止した期間もあったが、22年ぶりに活動を再開した

 CMソングでは、アサヒペン、ミツワ石鹸(1964年)、富士フイルム 「フジカシングル8」(1985年)、積水ハウスの歌、ハウス食品「バーモントカレー」、愛のスカイライン(日産自動車)、チョコレートは明治(明治製菓(現明治))など。

スリーグレイセス/山のロザリア(1961年)・魔法使いサリーのうた


 

スリーグレイセス/アサヒペン・ミツワ石鹸CM




音楽大学(音楽学校)出身の歌手【その1】

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 キッチリと基礎から声楽を学んだ歌手のことを「正統派歌手」と呼ぶことがある。

 昔は、せっかく音楽大学(音楽学校)声楽科を卒業しても、クラシックでは飯も食えない時代があったので、意に反して流行歌歌手になる人も多かった。

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 日本のシャンソン界の先駆者であり、ブルースと名の付く歌謡曲を何曲も歌唱した由縁から「ブルースの女王」と呼ばれた、淡谷のり子(1999年、92歳で没、写真)もその一人である。

 1907年、青森市の豪商「大五阿波屋」の長女として生まれたが、1910年の青森市大火によって生家が没落。10代の頃に実家が破産し、1923年、青森県立青森高等女学校を中退し母と妹と共に上京。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科に入学する。後に荻野綾子に声楽の資質を見出されて声楽科に編入、オペラ歌手を目指すためクラシックの基礎を学び十年に一人のソプラノと絶賛され、1929年、首席で卒業する。しかし、クラシックでは生計が立たず、家を支えるために流行歌を歌う。
 
 その経験から辛口の発言が多く、1965年の『NHK紅白歌合戦』では「今の若手は歌手ではなく歌屋にすぎない」「歌手ではなくカス」の発言で賛否両論を巻き起こし話題となったこともある。(Wikipedia 参照)

淡谷のり子/別れのブルース(1937年)


音楽大学出身者の職業

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 音楽大学出身者の職業にはどんなものがあるのだろう。

 「クラシック音楽の仕事」によると、音楽大学出身者の仕事にはこんなものがある。(右表)

 一般的には聞きなれない職業については、以下の解説を。

*1:コレペティトゥアとは、オペラ歌手が新しいレパートリーを覚えるのを手伝うピアニストのことをいう。マンツーマンで歌手にあわせてピアノを弾き、伴奏以外にも、オペラ歌手の教師役となり、歌い方や発音、演技の指導を行う。二重唱などでは相手のパートを歌うこともある。時には食事や健康管理、衣装の選択までアドバイスを求められることもある。

*2:ブライダルプレーヤーとは、結婚式や披露宴の席で、ピアノや電子オルガン、弦楽器・管楽器などの楽器演奏をする職業をいう。演奏は入退場の他、様々な場面に合わせ演奏するだけでなく、余興の伴奏なども担当する。ただ演奏するだけではなく、その場の雰囲気に臨機応変に対応できる能力や音楽センスが必要とされる。

*3:インペグはINSPECTORの略。アーティストのCDやコンサートの伴奏者、テレビ番組や映画のBGM、オーケストラピットで演奏するミュージシャンを斡旋するのがインペグ屋の仕事だ。

*4:日本での音楽ホールのレセプショニストは、コンサートホールでの本格的なサービスを担う接客係として、1986年サントリーホールのオープンと同時に生まれた。レセプショニストはホールの入口で切符を切る、チケットもぎり、来場者の荷物を預かるクローク、ホール内の案内をする場内係や、来場者の様々な質問に答える総合案内等の仕事がある。
 
*5:リトミックとは、音楽のリズムで子どもの創造力や感性を豊かに育む教育メソッドで、おもに0~4歳程度の幼児を対象としたもの。主な内容としては、歌やピアノ、ゴムボール等の玩具を用いて、リズム感や感受性、表現力、集中力、自主性、協調性などを養っていく。

音楽大学声楽科出身の変わり種

 もちろん、だからと言って音楽大学出身者が必ずしも音楽関係の仕事に就くとは限らない。

 自分の周りにも音大出身のOLがいた。川崎の会社で社員採用の責任者をしていたとき、大学の担当者とインターンシップの会合があった。そこでは二校、音楽大学の担当者の顔もあった。
 
 多分少数だろうが、「音楽大学の学生が一般の会社のインターンシップを希望することもあるんだ」と、驚いたことがある。

 音楽大学の声楽科出身では、ちょっと変わり種の有名人としてこんな人たちがいる。

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黒柳徹子(現在85歳、写真

 例えば、日本でのテレビ誕生と同時に生まれたテレビタレントの先駆けとして、長年に亘り第一線で活躍し、現在に至るまで唯一テレビ番組のレギュラーを継続して持ち続ける、テレビ放送史を代表する芸能人の1人である、
黒柳徹子の父は音楽家で、NHK交響楽団のコンサートマスターも務めたヴァイオリニストの黒柳守綱(旧姓田口、1983年、74歳で没)、母は声楽家でエッセイストの黒柳朝(旧姓門山、2006年、95歳で没)、娘の徹子も東洋音楽学校(現・東京音楽大学)声楽科出身という、音楽一家だった。

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 ところが、1953年、東洋音楽学校在学中(当時19歳)、「子どもに人形劇や絵本の読み聞かせを上手にできるお母さんになりたい」と思い立って、「ひょっとしたら絵本の読み方も教えてくれるかもしれない」と新聞で見かけたNHK放送劇団の俳優募集の広告に応募、テレビ女優第一号の一人としてNHK放送劇団の一員となる。(当時の写真)
池田理代子

 逆に漫画家として成功した後に、47歳でソプラノ歌手を目指し、1995年、東京音楽大学声楽科に入学し、1999年に大学卒業。以降、コンサート出演や講演などの活動を行い、2005年には、世界初録音9曲を含むマリー・アントワネット作曲の歌曲12曲を歌ったCDを発売した人がいる。
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 池田理代子(現在71歳、写真)のことだ。

 東京教育大学文学部哲学科に入学。学者を志し、勉強していたが、1年で父親からの金銭的援助が打ち切られてしまうために、生活の糧として漫画を描き始める。

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 下積み生活を続けたのち、1972年(当時24歳)に『週刊マーガレット』にて連載を開始した『ベルサイユのばら』(写真)が単行本で1,500万部という空前のヒット。宝塚歌劇団による舞台化も観客動員数延べ350万人以上の大成功。アニメ化・映画化もされ、一種の社会現象を巻き起こした。
 
 40歳から更年期障害に悩まされ、残りの人生について考える機会が増えた池田は、音楽への道に進むかどうか5年間の思案の後、45歳で音大受験を決意。2年間の猛勉と共に、歌手になるため20㎏体重を増やした。



 この年齢で声楽家を目指した理由の一つに、年と共に目、耳、歯などいろいろ衰える中で、声帯だけは最後まで衰えない器官だということと、子どもたちに古き良き美しき日本語の歌を残さなければならない。そのためには、自分のような子どもに読んでもらうものを仕事にしている者が歌うと説得力があるのではないか。でも素人の歌では失礼だから専門家になろうというのが直接のきっかけだったという。(Wikipedia 、「山折哲雄こころ塾」参照)
大賀典雄(2011年、81歳で没、写真

 実業家として成功したのは、ソニー株式会社社長だった大賀典雄だ。

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 第二次世界大戦の敗戦に打ちひしがれていたころ、たまたま聴いた日比谷公会堂でのバリトン歌手で後に二期会を創設した中山悌一(2009年、89歳で没、写真)の歌声に感動し、東京芸術大学音楽学部声楽科に進学。

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 同大学在学中に東京通信工業(のちのソニー)のテープレコーダーの音質にクレームをつけたのがきっかけで同社嘱託となる。入社後もバリトン歌手や指揮者として音楽に関わり、コンパクトディスクCD写真)の商品開発でも その陣頭指揮を執った。

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 LPレコードに代わるメディアとして開発されたCDにおいて、大賀氏がこだわったのは75分という収録時間。これは、ベートーヴェン「第九」が収まる時間であり、まさに音楽家としての見識が仕様策定に生かされている。

 この時に、親交があった世界的指揮者であるヘルベルト・フォン・カラヤン(1989年、81歳で没、写真)が、仕様提案の後ろ盾になったという逸話もある。(Wikipedia 参照)
日本の主な音楽大学

 日本において国立大学法人が運営する音楽学部を設置している大学は、東京芸術大学のみである。

 次いで公立大学としては、愛知県立芸術大学京都市立芸術大学沖縄県立芸術大学の三大学である。(現在、大分県立芸術短期大学が四年制芸術大学移行に向けて準備室を設置中)

 またピアノと声楽のみであるが(音楽学において作曲も専門的に学べる)お茶の水女子大学の中に芸術・表現行動学科 音楽表現コースが設置されている。

 そして、東京学芸大学大阪教育大学のように、実質的に音楽大学と同一の教育内容であるゼロ免課程の教育学部を設ける大学も数校存在し、ここから専門の音楽家になる者もいる。(Wikipedia 参照)

<主な音楽大学>

東京芸術大学(旧:東京音楽学校東京美術学校が統合、1949年)

 東京芸術大学は美術学部、音楽学部共に優れた人材を多数輩出している日本唯一の国立芸術大学。実技試験を最重要視する入試形態で、その入試倍率は毎年数十倍(音楽学部は5~6倍)になっている。通称、略称は「芸大」、「東京芸大」と呼ばれている。

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 なお、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)は、日本で最初の音楽学校として明治20年(1887年)に開校し、明治23年(1890年)に音楽ホール「奏楽堂」を擁する新校舎が建てられた(西四軒寺跡。東京芸大奏楽堂附近)。後年、校舎の管理運営が東京芸大から台東区へ移り、現在の地に移築・復原。旧東京音楽学校奏楽堂として開館した。重要文化財として、今もなお当時の姿を留めている。 (写真)

 2018年11月1日のリニューアルオープン記念式典では、落成式と共に東京芸術大学の澤和樹学長による弦楽アンサンブルと、廣江理枝教授によるパイプオルガン演奏が披露された。

桐朋学園大学

 桐朋学園大学は東京都調布市にあり1961年に開校された。小澤征爾をはじめとして優秀な演奏家を多数輩出しており、国内外の音楽コンクールでは同学出身者及び在籍者が優勝もしくは上位入賞を占めることも多い。少数精鋭の密度の高い教育を実践しており、子供のための音楽教室から大学、大学院まで一貫した教育体系を持つ。大学の略称は「桐朋」。

国立音楽大学

 国立音楽大学(くにたち…)は立川市にあり1950年に設置された。12月に開かれるNHK交響楽団の第九コンサートでは合唱に声楽専攻の学生が出演することで有名。大学名の国立の読みは「くにたち」が正しいが、しばしば誤って「こくりつ」と読まれたり、私立大学ではなく国立大学であると誤解されることがある。

武蔵野音楽大学(旧:武蔵野音楽学校

 武蔵野音楽大学は東京都練馬区羽沢にあり1949年に設置された。 創設者は福井直秋。私立音楽大学としては歴史も古く、音楽教員も数多く輩出している。

東京音楽大学(旧:東洋音楽学校

 東京音楽大学は東京都豊島区南池袋にある音楽大学。日本国内に有する音大の中で、創立100周年を迎えた、日本で最も長い歴史を持つ名門校。私立の音楽大学の中では最難関のひとつ。

愛知県立芸術大学

 愛知県立芸術大学は、1966年、日本で初めて、美術学部と音楽学部を備えた公立芸術大学として誕生する。同じく両学部を備えた公立芸術大学の京都市立芸術大学の誕生は、それより3年後である。 キャンパスは名古屋市郊外の長久手市岩作三ヶ峯に所在し、山と森、湿原に囲まれ、豊かな自然に恵まれている。

京都市立芸術大学

 京都市立芸術大学は、1969年、1950年創立の市立美術大学と、52年創立の市立音楽短期大学が統合し、京都市立芸術大学となり2カ所で開学。1974年には先日亡くなった梅原猛が学長となる。

洗足学園大学

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 洗足学園音楽大学は、神奈川県川崎市にある。ミッションスクールではないが、創始者が敬虔なクリスチャンであったことから、イエス・キリストが弟子の足を洗ったことに因んで「洗足」の名が付けられている。

 2006年のフジテレビ系列にて放送のテレビドラマ、「のだめカンタービレ」(画像)のロケ地として、キャンパス構内やホール等が使われた。 

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音楽大学のレベル・難易度

 「クラシック音楽情報」の項目で、「音楽大学のこと」にはこんなことが記載されている。

 音楽大学のレべル・難易度というとやはりトップは東京芸術大学になるでしょう。東京芸大以外では、専攻の科目によって違ってきますが、私立の音大の総合的なレべルは、桐朋学園大学国立音楽大学武蔵野音楽大学東京音楽大学そして公立の愛知県立芸術大学京都市立芸術大学などは一言で言うとほぼ横並びといっていいのでしょうか。最近は洗足学園大学などもレベルを上げてきているようです。

 音楽大学のレべルを図る一つの目安に、著名な国内外のコンクール入賞者の数があります。その点から見るとやはりどの専攻においてもダントツに入賞者が多いのは東京芸大です。東京芸大以外では弦楽器や指揮者の専攻においては芸大に匹敵するかもしくはそれ以上の逸材を輩出している桐朋学園、声楽のコンクールで入賞者が比較的多いのが国立音大、桐朋学園、東京音大、ピアノは桐朋学園、東京音大、古くから歴史のある武蔵野音楽大学、管楽器は国立音大、東京音大、また専門学校の東京ミュージック&メディアアーツ尚美なども頑張っています。また公立では愛知県立芸術大学や京都市立芸術大学なども入賞者が多いようです。

 また人気度はというと、伝統的に師弟制度で成り立っている音大ではどのような先生がいるか、どのような卒業生が活躍しているかというように、一般的に世間の認知度の高い大学に人気があるようです。

 それでは、どの音大を選ぶのがいいかというと、芸大に入る実力がある人でも、「井の中の蛙」のほうが実力を発揮できるタイプの人は、芸大でレべルの高い学生の多い中にうずもれてしまうよりも、私立大学にいって上位に位置し、学内コンクールの入賞や、公開レッスンの生徒に抜擢されたり、コンチェルトのソリストをつとめたりといった活躍の場を得ることの方が利点になることもあります。

 クラシック音楽の世界では自分にとって最良の先生に廻りあい、師事し、経験、音楽性、技術を身に着けていくのかが、大学の名前より重要になります。そのため大学入学前に師事していた先生の推薦する学校に入ることが多く、また逆に入りたい大学の先生を選んで師事し、その大学を目指すというのが一般的になっています。一流の演奏家が必ずしもよい先生とは限りませんが、自分にあった先生に廻りあえることは、何にもまして大切なことのようです。
 続く。

音楽大学(音楽学校)出身の歌手【その2】

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大学別の著名な歌手

東京芸術大学(旧:東京音楽学校)

 東京芸術大学(旧:東京音楽学校)からは有名歌手が輩出している。

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藤山一郎東京音楽学校出身、1993年、82歳で没、写真

 藤山一郎は、日本の歌手・声楽家・作曲家・指揮者。東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論とハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。本名は増永丈夫。本名ではクラシック音楽の声楽家・バリトン歌手として活躍した。

 1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『東京ラプソディ』・『青い山脈』・『長崎の鐘』など数多くのヒット曲を世に送った。理論・楽典に忠実に歌ったことから正格歌手と呼ばれ、その格調の高い歌声は「楷書の歌」と評された。1992年、国民栄誉賞を受賞した。 

藤山一郎/長崎の鐘(1949年)

 

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二葉あき子 東京音楽学校出身、2011年、96歳で没、写真

 広島市大須賀町二葉(現在の東区二葉の里)出身で、芸名は二葉の里で安芸の国と地元からとる。本名は加藤芳江。

 東京音楽学校在籍中、その奏楽堂で同校期待の増永丈夫の美しいバリトンを聴いて感銘を受ける。その増永丈夫はすでに藤山一郎として流行歌手として名をなしていた。
 
 卒業後、地元の広島の三次高等女学校(現在の広島県立三次高等学校)で教鞭をとる。

 1936年春(当時21歳)、コロムビアの専属となる。「愛の揺り籃」が最初のレコードだった。「あの夢この夢」「月に踊る」「乙女十九」などで世に知られ1939年、松竹映画『春雷』の主題歌「古き花園」が大ヒットすると人気歌手としての声価を得る。

 戦後になると、「別れても」「夜のプラットホーム」「恋の曼珠沙華」「さよならルンバ」「村の一本橋」など多くのヒット曲を放った。1950年の「水色のワルツ」は、綺麗なメロディーに二葉あき子の歌唱が合い、人々に潤いをあたえた。

二葉あき子/水色のワルツ(1950年)


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岸洋子東京芸術大学大学院出身、1992年、57歳で没、写真

 岸洋子は、日本のシャンソン歌手、カンツォーネ歌手。山形県酒田市出身。

 オペラ歌手を目指していたが、心臓神経症のため断念する。病床で聴いたエディット・ピアフのアルバムに感動してシャンソンに転向した。

 日本のシャンソン界において、越路吹雪と人気を分け、「魅せる越路、聴かせる岸」と評価されていた。 

 「夜明けのうた」「恋心」「希望」など、ヒットを連発する中、1970年9月下旬に膠原病を発症する。後遺症と闘いながらも歌手活動を続けていたが、1992年、57歳で死去した。

岸洋子/希望(1970年)



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森麻季東京芸術大学大学院出身、現在48歳、写真
 
 森麻季は、日本のソプラノ歌手。二期会会員。幼い頃よりピアノを習い、国立音楽大学附属小学校ピアノ科に入学。東京芸術大学音楽学部声楽科を経て、同大学院独唱専攻を修了。在学中に安宅賞受賞。 

 文化庁オペラ研修所修了後、五島記念文化財団オペラ新人賞を受賞し、文化庁派遣芸術家在学研修員としてミラノのヴェルディ国立音楽院に留学。また、ミュンヘン国立音楽大学大学院を修了した。第26回イタリア声楽コンコルソ優勝、ミラノ大賞受賞。モーツァルトコンクール優勝など、数々のコンクール受賞歴を誇る。

森麻季/からたちの花(1925年) 


国立音楽大学
 
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菅原洋一(現在85歳、写真
 
 菅原洋一は、国立音楽大学大学院卒業後、1958年にタンゴバンド「早川真平とオルケスタ・ティピカ東京」に参加し、歌手デビューをする。

 デビューからしばらくの間はヒット作に恵まれない不遇を味わったが、1965年に発売した「知りたくないの」(元々は「恋心」のB面曲だった)が2年後の1967年に入ってからヒット、80万枚を超える売上を記録し、人気歌手の仲間入りを果たし、同年、NHK紅白歌合戦にも初出場を果たす(以降1988年まで通算22回連続で紅白に出場)。

菅原洋一/今日でお別れ(1967年)


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佐藤しのぶ(現在60歳、写真

 佐藤しのぶは、音楽とは無縁の一般家庭に育つ。声楽を島田和子、中山悌一、田原祥一郎に師事。文化庁オペラ研修所に最年少で入所し首席で修了。文化庁芸術家在外研究員としてイタリアミラノへ留学。「椿姫」でデビューにして主役を演じる。 

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 1987年、オペラ歌手として初めてNHK紅白歌合戦に出演(以後、4年連続出演)。椿姫でオペラの素晴らしさを伝え、音大への関心を高めるのに一役買った。

  2013年には核廃絶を願い、「リメンバー」を歌い、平和運動にも力を入れている。(写真)

続く。

音楽大学(音楽学校)出身の歌手【その3】

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大学別の著名な歌手(続)

武蔵野音楽大学(旧:武蔵野音楽学校
 
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渡辺はま子(武蔵野音楽学校出身、1999年、88歳で没、写真
 

 渡辺はま子は戦前から戦後にかけて活躍した日本の流行歌手。生涯横浜で過ごした。愛称は「おはまさん」。

 1933年、武蔵野音楽学校(後の武蔵野音楽大学)卒業後は、横浜高等女学校(後の横浜学園高等学校)で音楽教師をしていたが、同年にレコードデビュー。

 1937年頃から、戦時下の上海など戦地への慰問も積極的に行うようになり、「支那の夜」「広東ブルース」などの大陸を題材にした曲目が徐々に増え、人々からは『チャイナ・メロディーの女王』『チャイナソングのおハマさん』と呼ばれ支持された。

 さらに、当時はテイチクの専属であった満州の大陸女優、李香蘭主演の大ヒット映画の主題歌をコロムビアから国内で日本語で発売する際には、渡辺がレコーディングした。「いとしあの星」「蘇州夜曲」といった曲は渡辺、李両者の持ち歌として大ヒットを記録している。 戦地への慰問として訪れていた大陸の天津で終戦を迎え、捕虜として1年間の収容所生活を余儀なくされる。

 戦後は、歌手活動の傍ら横浜で花屋を営みながら、「雨のオランダ坂」「東京の夜」といったヒット曲を飛ばし続けた。 

 1952年(昭和27年)、NHKラジオ「陽気な喫茶店」を司会していた松井翠声の元に送られてきた、フィリピンの日本人戦犯が作詞作曲した曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」を渡辺がレコード化。日本国政府の厚生省復員局と渡辺の奔走で、モンテンルパ市のニューピリビット刑務所へ慰問コンサートが実現。フィリピン政府当局に減刑、釈放を嘆願し、当時のフィリピンの首長であったキリノ大統領に日本人戦犯の釈放を決断させ、全員の日本への帰国が実現したことは、渡辺の歌手人生におけるハイライトといえる。

渡辺はま子/桑港のチャイナタウン(1950年)


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近江俊郎(武蔵野音楽学校出身、1992年、73歳で没、写真
 
 近江俊郎は、武蔵野音楽学校に在学中、教授と進級試験の方法を巡って対立。1936年に退学し、同年デビューしたが、その間レコード会社を転々とした。

 デビューから10年目の戦後の1946年に「悲しき竹笛」が大ヒット。その後、「湯の町エレジー」などがヒットし、岡晴夫田端義夫とともに戦後三羽烏と言われるスターダムにのし上がる。 

近江俊郎/湯の町エレジー(1948年)



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岡本敦郎(武蔵野音楽学校出身、2012年、88歳で没、写真

 岡本敦郎は小樽市出身の歌手。武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)声楽科卒業。

 1946年にラジオ歌謡のホームソング「朝はどこから」でデビューした。この曲は当時、敗戦直後の日本を励ますため朝日新聞が企画した懸賞応募曲である。明るいその曲調から、広く親しまれ愛唱された曲である。抜群の伸びのある美声と正統派の歌唱で、戦後の歌謡界で活躍した。1949年の「街の艶歌師」の小ヒットを皮切りに流行歌のヒットが増えて行った。ちなみにこの作曲は八洲秀章で岡本敦郎にしては珍しい演歌である。
 
 そして、「白い花の咲く頃」の大ヒットや「チャペルの鐘」「あこがれの郵便馬車」などのヒットを経て、1954年にリリースした「高原列車は行く」は爆発的ヒットとなり現在までの岡本敦郎の代表曲となった。その後も「ピレニエの山の男」「自転車旅行」「若人スキーヤー」などヒットを飛ばした。多くのラジオ歌謡を吹き込んだことから、ミスターラジオ歌謡の異名を持つ。

岡本敦郎/高原列車は行く(1954年)



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川田正子(武蔵野音楽大学出身、2006年、71歳で没、写真

 川田正子は、日本の童謡歌手。幼少期より日本で最も伝統のある児童合唱団音羽ゆりかご会に所属し、作曲家海沼實に師事して才能を開花すると童謡や唱歌を数多く歌唱。甥にあたる現音羽ゆりかご会会長の作曲家三代目海沼実らによって顕彰され、没後も童謡界のカリスマとして根強い人気を誇る。

川田正子/鐘の鳴る丘主題曲「とんがり帽子」(1947年)


東京音楽大学(旧:東洋音楽学校
 
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霧島昇東洋音楽学校出身、1984年、69歳で没、写真

 霧島昇は、戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。福島県双葉郡大久村(現・いわき市)出身。1970年(昭和45年)、紫綬褒章受章。 小学校を卒業後上京し、中学に通いながらボクサーを目指すが断念、テノールの藤原義江のレコードを聴き、日本の歌曲を流行歌として歌いたいと思い、苦学しながら東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)を卒業。 

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 浅草のレビュー小屋でアルバイトをする傍ら吹き込んだエヂソン・レコード『僕の思い出』がコロムビア文芸部長・松村重武(俳優の松村達雄の実父)の目にとまり、1936年にコロムビアに入社。当時のコロムビアは松平晃(東京音楽学校中退、1961年、49歳で没、写真)が看板スターだった。

 霧島は松平を目標に歌唱技術を磨き、松平にはないテノールの甘い音色と邦楽的技巧表現を生かした。 

 翌1937年に『赤城しぐれ』でデビュー。1938年に松竹映画『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』を当時大スターだったミス・コロムビア(本名・松原操=後に本名を芸名とする)と共に吹き込み大ヒット。1939年にミス・コロムビアと結婚。前年に吹き込んだ『旅の夜風』が縁結びとなった。その後も『一杯のコーヒーから』、『誰か故郷を想わざる』などの大ヒットを飛ばし「コロムビアのドル箱」と呼ばれた。 戦後は並木路子と吹き込んだ『リンゴの唄』を皮切りに『三百六十五夜』、『胸の振子』などのヒットを放った。生涯に吹き込んだ数は3千曲を超えた。

霧島昇&ミス・コロンビア/映画愛染かつら主題曲「旅の夜風」 (1935年)


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春日八郎東洋音楽学校出身、1991年、67歳で没、写真

 春日八郎は、福島県河沼郡会津坂下町塔寺出身の演歌歌手。『赤いランプの終列車』『お富さん』『別れの一本杉』などが有名である。実家は麺類製造業。浅草でクラシックの正統派・藤山一郎のステージを見て歌手に憧れる。旧制会津中学校を中退し、エンジニアを志して13歳で上京。しかし、歌手の夢を捨てきれずに東洋音楽学校へ入学。卒業後は会津若松陸軍第29連隊に入隊し、終戦後に台湾より復員。

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 赤貧を洗うような下積みが3年続き、妻・恵子に紹介してもらった作曲家・江口夜詩(えぐちよし、東京音楽学校出身、1978年、75歳で没、写真)の家に毎日のように通い、掃除をしたり肩を揉んだりしながら、曲を作ってもらえるよう願い続けた。江口に「低音が出ないし、声が細い」と指摘されると、河原に出て土砂降りの中で発声練習をしたりと必死の努力が実り、ようやく新曲『赤いランプの終列車』(1952年発売)を作曲してもらうことになり、50万枚の大ヒットとなる。

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 1954年に歌舞伎の「与話情浮名横櫛」に登場する、お富さんと切られの与三郎の掛け合いを歌にした『お富さん』が125万枚の大ヒット、また1955年には『別れの一本杉』(60万枚の大ヒット、まだ売り出し中の船村徹(東洋音楽学校出身、2017年、84歳で没、写真)を有名にさせた作品でもある)とそれまでの流行歌とは質の異なる望郷歌謡をたて続けにヒットさせ、流行歌の衰退期において「演歌」という新天地を築いた。

春日八郎/長崎の女(1963年)


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織井茂子東洋音楽学校出身、1996年、70歳で没、写真

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 織井茂子は、10代の頃は、童謡歌手として、リーガル(コロムビアの廉価盤)の専属として活躍。(写真)

 東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を卒業後、歌謡曲歌手となるべく当時有名であった大村能章歌謡学院の門下となり、大村の紹介により「都能子(みやこよしこ)」の芸名で1947年にキングレコードからデビュー。 
 
 1949年、芸名を本名の旧姓である織井茂子に戻して、コロムビアに移籍し、『安南夜船』で再デビュー。1952年にようやく、松竹映画『カルメン純情す』(監督:木下惠介)の同名の主題歌で脚光を浴びることとなる。

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 正統派歌手が敬遠されはじめていた時代、織井茂子の名を不動のものとしたのは、やはり同年に開始された連続放送劇『君の名は』の主題歌をレコーディングしたことによる。翌1953年に発売されたレコードは番組の人気に支えられ順調に売り上げを伸ばした。さらに同年に岸惠子・佐田啓二主演で松竹により映画化され、主題歌として使われると、この曲は空前の大ヒットとなり、総計110万枚の売り上げを記録した。(写真)続く、映画『君の名は』の第2部主題歌『黒百合の歌』、佐田啓二とのデュエットである第3部主題歌『君は遥かな』もヒットし、織井茂子は全国的なヒット歌手としてスターダムにのし上がった

 昭和30年代は、船村徹作品に新境地を見出し『東京無情』『夜がわらっている』などのヒットを飛ばすが、結婚したこともあり、徐々に一線から退いていった。しかし、昭和40年代半ばごろからの懐メロブームで復活。「なつかしの歌声」などのテレビの歌謡番組でも往年のヒット曲を多数披露した。 

織井茂子/君の名は(1953年)



三浦洸一東洋音楽学校出身、現在91歳、写真

 三浦洸一は、神奈川県三浦市三崎地区出身。芸名は出身地の神奈川県三浦市にちなんで命名された。

 東洋音楽学校(現:東京音楽大学)声楽科卒業後、1952年に日本ビクターレコードに入社。作曲家の吉田正に師事する。大学ではクラシックの声楽を学んでいた。

 持ち歌は文芸を題材にして書かれた曲いわゆる「文芸歌謡」が多い。 歌唱法が実直であり、社歌や自治体制作の音頭など委託制作盤も多数吹き込んでいる。

 「踊り子」は1957年2月に呉羽紡績提供の朝日放送ラジオ番組『クレハ・ホームソング』で放送され、同年8月にレコード発売。漫画家&声楽家の池田理代子が「歌は美しかった 思い出の絵ぼんぼり」でカヴァーしている。池田は東京音大の後輩。

三浦洸一/踊子(1957年)


 Wikipedia参照)続く。

音楽大学(音楽学校)出身の歌手【その4】

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大学別の著名な歌手(続)

東京音楽大学(旧:東洋音楽学校

 前作では織井茂子の記述途中で文字が切れたので、彼女の最初の文から始めます。

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織井茂子東洋音楽学校出身、1996年、70歳で没、写真

 織井茂子は、10代の頃は、童謡歌手として、リーガル(コロムビアの廉価盤)の専属として活躍。

 東洋音楽学校を卒業後、歌謡曲歌手となるべく当時有名であった大村能章歌謡学院の門下となり、大村の紹介により「都能子」の芸名で1947年にキングレコードからデビュー。 
 
 1949年、芸名を本名の旧姓である織井茂子に戻して、コロムビアに移籍し、『安南夜船』で再デビュー。

 正統派歌手が敬遠されはじめていた時代、織井の名を不動のものとしたのは、やはり同年に開始された連続放送劇『君の名は』の主題歌をレコーディングしたことによる。

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 翌1953年に発売されたレコードは番組の人気に支えられ順調に売り上げを伸ばした。さらに同年に岸惠子佐田啓二主演で松竹により映画化され、主題歌として使われると、この曲は空前の大ヒットとなり、総計110万枚の売り上げを記録した。(写真)

 続く、第2部の主題歌『黒百合の歌』、佐田啓二とのデュエットである第3部主題歌『君は遥かな』もヒットし、織井は全国的なヒット歌手としてスターダムにのし上がった。

織井茂子/君の名は(1953年)

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菅原都々子東洋音楽学校出身、現在91歳写真

 菅原都々子は、青森県上北郡三本木町(現・十和田市)出身。個性的なビブラート唱法が特徴。現在は、特定非営利活動法人 名曲慰問団 名誉顧問として老人福祉施設にボランティア活動を行っており、90代に入った今でも歌謡番組に定期的に出演している。

 2011年8月16日に二葉あき子が亡くなり、第1回NHK紅白歌合戦に出演した最後の存命者となった。(下表)

 ちなみに、第1回NHK紅白歌合戦は、今日から68年前の1951年1月3日にNHK東京放送会館第1スタジオで行われ、20時から21時に生放送された。
当時はラジオ放送。テレビ放送が始まったのは、第3回の1953年から。ちなみに大晦日になったのは第4回以降である。

 菅原都々子は『憧れの住む町』(1950年)で紅組トップバッター及び先攻トップバッターを務めた。紅白には計4回出場している。

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父は浅草オペラ歌手の河合丸目郎で、後に作曲家となる陸奥明1945年父の母校である東洋音楽学校を卒業。戦後は田端義夫の前座を務めながら独特のビブラートの高音で少しずつ人気を得ていく。

 『江の島悲歌』(1951年)が大映により映画化され共に大ヒットとなり、菅原の名前は全国区となる。その後続編的な作品として『佐渡ヶ島悲歌』『博多エレジー』『海峡エレジー』などが製作され独特のビブラートが掛かったうなり節、悲壮感のある声質も相まって「エレジー(悲歌)の女王」との異名をとるようになった。

 エレジーものが飽きられ始めたころ、イメージチェンジを図って売り出した『月がとっても青いから』 (1955年)が、現在の市場規模の30分の1の時代、100万枚を超える大ヒットとなり、この曲で歌手としての地位を不動のものとした。

菅原都々子/月がとっても青いから(1955年)

イメージ 5洗足学園大学

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渡辺真知子(現在62歳、写真

 渡辺真知子は、歌手、女優、シンガーソングライター。神奈川県横須賀市出身。一般にニューミュージックに分類される。洗足学園短期大学卒業。
  
 1975年、高校生時代にヤマハポピュラーソングコンテストに「PIA」というグループで参加したが、エントリー時はすでにソロ活動を行っていた。『オルゴールの恋唄』で審査員特別賞(川上賞)を受賞。
 
 1977年に「迷い道」でデビュー。翌年かもめが翔んだ日」で第20回日本レコード大賞最優秀新人賞受賞。松任谷由実や中島みゆきなどの次の世代のニューミュージックシンガーとして、声楽出身の豊かな声量で人気を博し、数々のヒットを生んだ。

渡辺真知子/迷い道(1977年)
 
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米良美一(現在47歳、写真

 米良美一は、宮崎県西都市出身。3万人にひとり程度の割合で発症する難病、先天性骨形成不全症を持ち生まれる。身長138.7cm。

 1990年、神奈川県の洗足学園音楽大学の声楽専攻にトップの成績で入学。在学中、テナーから女声の音域を歌うカウンターテナーに転向する。1994年、大学を首席で卒業後、アムステルダム音楽院にオランダ政府給費留学。

 1997年、映画『もののけ姫』の主題歌を歌ったことで大衆的人気を獲得。その当時は真面目な好青年のイメージで売り出したが、2012年以降はひょうきんな言動をするオネエ系のバラエティタレントとして活躍。2017年、母校の洗足学園音楽大学50週年記念コンサートに出演している。

米良美一/映画「もののけ姫」同名主題曲(1997年)

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平原綾香(現在34歳、写真) 

 平原綾香は、シンガーソングライター、サクソフォーン奏者。

 芸能界デビューのきっかけは、洗足学園大学附属高等学校(現洗足学園中学校・高等学校)高校の文化祭の時にミュージカル『天使にラブソングを2』でリタ役を演じ「Joyful Joyful」を歌い、ドリーミュージックの社長の目に留まったことからである。 

 洗足学園音楽大学ジャズコースサックス専攻入学。サックスを二宮和弘とボブ・ザングに師事。2007年卒業。卒業時には「学長賞」を受賞した。

 平原のデビュー曲「Jupiter」は、イギリスの作曲家、グスターヴ・ホルスト(1934年、59歳で没)の組曲「惑星(Planets)」の第4曲、「木星」をモチーフにしたもの
だが、吉元由美(現在58歳)により、その第4主題に新たな歌詞が付けられたもので大ヒットした。

平原綾香/Jupiter(2003年) 


(Wikipedia 参照)続く。

音楽教師だった歌手

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 前作で、音楽大学(音楽学校)出身の歌手を4回連載した。

 【その2】では、東京芸術大学(旧:東京音楽学校)出身の藤山一郎二葉あき子岸洋子森麻季国立音楽大学出身の菅原洋一佐藤しのぶ【その3】では、武蔵野音楽大学(旧:武蔵野音楽学校)出身の渡辺はま子近江俊郎岡本敦郎若山彰川田正子東京音楽大学(旧:東洋音楽学校)出身の霧島昇春日八郎【その4】ではその続きで織井茂子菅原都々子洗足学園大学出身の渡辺真知子米良良一平原綾香

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 合計18人(写真)を紹介したが、もちろん全ての歌手を網羅しているわけでもないし、続編を重ねようと思っていたが、腹八分目というか、そろそろ潮時とし、別のテーマに移りたい。

 このメンバーの中で、気が付いたのは、音楽教師から歌手に変身した人がいたことだ。

 渡辺はま子と、二葉あき子である。

渡辺はま子

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 渡辺はま子(写真左)は、横浜市出身。1933年(昭和8年)武蔵野音楽学校(後の武蔵野音楽大学)卒業。

 卒業後は、当時横浜・元町にあった横浜高等女学校写真右:後の横浜学園高等学校)で2年間、音楽教師をしていた。

 当時彼女は女学生のあこがれの存在だったようだ。この写真は何時のときのものか分からないが、その気持ちはよく分かる。

 なお、横浜高等女学校は横浜市・元町にあったが、戦災で焼失し、戦後、磯子区岡村に移転し、男女共学の横浜学園高等学校に生まれ変わっている。

 1933年(昭和8年)にポリドールの歌手テストを受け、「最上川小唄」を吹き込むがポリドールでは結局この1曲のみで終わった。

 同年の12月、ビクターに移籍し、音楽教師と歌手という「二足の草鞋をはく」ことになる。

 1934年(昭和9年)のJ.Oスタヂオ映画「百万人の合唱」に出演するために勤務先の横浜高女を休んだ(
校長の許可を得ていた)ことが問題になり、保護者らが学校に抗議。これが新聞沙汰となる。1935年(昭和10年)の秋には教職を辞し、渡辺はビクターの流行歌手に専念することとなる。

 1937年(昭和12年)にビクターの内紛などでコロンビアに移籍。戦後は再び古巣のビクターに戻った。

 1951年(昭和26年)の第1回NHK紅白歌合戦では、紅組トリを務め、紅白には9回出場した。

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渡辺はま子/蘇州夜曲(1940年)

二葉あき子

 二葉あき子は広島市出身。地元の「二葉の里」と「安芸の国」の文字をとって芸名にした。

 レコードデビューは、東京音楽学校(後の東京芸術大学在学中にコロムビアで吹込んだ教育レコードだった。

 1935年(昭和10年)同校卒業後、地元の広島県三次市の三次高等女学校(現在の広島県立三次高等学校)で1年間教鞭をとる。

 出身地にちなんだ「安芸」「二葉」を芸名に取り、コロムビア専属の歌手として1936年にデビュー。

 1945年(昭和20年)8月6日、広島市に原爆が投下された時、広島から帰郷のため芸備線に乗っていた列車がトンネルに入り直撃を免れた。

 この体験から「『フランチェスカの鐘』(1948年)などの曲は、戦争で死んだ人たちへの鎮魂歌として歌っている」と語っていたという。

 NHK紅白歌合戦にも1951年の第1回から1959年の第10回まで10回連続出場した。第6回では代表曲の一つである「バラのルムバ」紅組トリを務めるなど、渡辺はま子・淡谷のり子・松島詩子・笠置シヅ子と並ぶ創世記の紅白を代表する女性スターでもあった。 

 1955年前後に高音が出なくなり意気を喪失して帰郷、実家から刃物を持ち出し自殺を図るが未遂に終わった。その後、作曲家の服部良一に「高音だけが歌じゃない」と励まされ復帰し、自ら低音発声法を作った。

二葉あき子/さよならルンバ(1948年)

 
その他で音楽教師から歌手になった人を2人。

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松島詩子1996年、91歳で没、写真

 往年の大歌手、松島詩子は、山口県玖珂郡日積村(現在の柳井市の一部)出身。1923年(大正12年)、山口県玖珂郡立柳井高等女学校(現在の山口県立柳井高等学校)卒業。

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 卒業後は小学校教師を経て、1930年(昭和5年、当時25歳)から2年間、忠海高等女学校(現:広島県立忠海高等学校)代用教員を務めた。

 余談になるが、学校のある広島県竹原市忠海地区は自分が子どもの頃住んでいたところ。高校(写真)は町の外れにあったが、兄や姉が通っていた。
 
 この高等学校は有名人を輩出している。
 
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 拙ブログで紹介したこともある、「エデンの海」の作家、若林慧は、忠海高等女学校の講師だった。(写真は高校の近くにある記念碑)

 
イメージ 9 著名な画家の平山郁夫2009年、79歳で没、写真)も忠海高校出身。
 
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 そして、2014-15年のNHK朝の連続テレビ「マッサン」のモデルである「日本のウィスキー王」、ニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝1979年、85歳で没、写真)も実家は竹原市だが、同高校の出身だ。

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 そして、ときの総理大臣・池田勇人1965年、65歳で没、写真)も同校の出身。
 
 マッサンこと竹鶴氏と池田氏は終生友として付き合った仲なのだそうだ。

 話を元に戻そう。

 1932年(昭和7年)、歌手になりたいとの思いが強く、忠海高女を退職し上京。作曲家佐々木すぐるの勧めで日本コロムビアより柳井はるみという名前でデビュー。その後、いくつかの芸名を経て1935年(昭和10年)、キングレコードに移籍。松島詩子の芸名となる。命名者は山田耕筰。「夕べ仄かに」が初ヒットした。

 彼女も1951年、第1回NHK紅白歌合戦に出場。以後計10回出場した。

松島詩子/喫茶店の片隅で(1955年)

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原田悠里(現在64歳、写真

 原田悠里は、熊本県本渡市(現:天草市)出身。鹿児島大学教育学部卒業。卒業後2年間、横浜市旭区の横浜市立市沢小学校にて音楽の教師をしていた。 

 教員採用試験を鹿児島、熊本、横浜で受け、横浜で採用された。横浜で受けた理由として、東京に近く、歌手へのチャンスがあるかもしれないと思っていたからだ。

 1980年、当時25歳の時に転機がやってきた。

 知人と一緒に新宿コマ劇場であった「北島三郎コンサート」へ行き、初めて北島三郎の歌を聴き「こんなに人を感動させられる歌があるんだ」と衝撃を受けたと同時に、「私の歌に判断をくだしてくれるのは、この人しかいない」ピンときて、美空ひばりやシャンソンを歌ったテープを北島に送った。

 北島から「演歌を歌える人間だね」と言われ、
1982年6月、「俺に咲いた花」でレコードデビュー。1985年発売の「木曽路の女」、1999年発売の「津軽の花」が大ヒットになる。

 プライベートでは、同じ二葉百合子門下生の島津亜矢、坂本冬美、藤あや子、石原詢子「二葉組」を結成していて、彼女らとは定期的に食事会を開き、互いをあだ名で呼び合う仲である。

原田悠里/津軽の花(1999年)



あなたの故郷は何処ですか

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 次の動画のように、テレサ・テンから「あなたの故郷は何処ですか?」と聞かれて、答えに窮する人は多いだろう。(*ブログの途中から文章が中心に寄っていますが、修正できないのでお許しください)

テレサ・テン/あなたのふるさとはどこですか(1977年)

 両親の転勤や転職などで転居が頻繁な人はそうだろうし、我々団塊の世代より前は、戦禍で海外から引き揚げたり、疎開でやむなく移転し、果たしてどこが自分の「故郷」なのか、明確に言えない人も多いのではないだろうか。

自分のこと

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 元々家族は広島県・呉市に住んでいたが、戦争で家が焼失し、同じ広島県の田舎に全員で疎開した。

 お墓は呉市にあるが、家は借家だったので戻る必要はなかった。それでも、疎開から17年後呉市に戻ってきた。

 広島県の海の見えない内陸地の疎開先で生れ、3歳まで住んでいたが、記憶は全く残っていない。

 父が教師をしていたので転勤のため、その後3回引っ越し、定年退職後中学1年生の2学期(当時12歳)に呉市に移り、大学卒業まで9年間いた。(呉市内でも3回引っ越しした)

 大学卒業の22歳までずっと広島県内に住んでいたので、「故郷は?」と聞かれると、「広島県」か、無名の田舎を説明するのが面倒なので「呉市」と答えることにしている。 

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 しかし、本音を言うと、3歳から7歳(小学2年生)まで5年間過ごした、三原市・幸崎町渡瀬地区と、8歳(小学3年生)から12歳(中学1年生1学期)まで4年あまり住んでいた、竹原市・忠海地区という2つの地が「自分のふるさと」だと思っている。

 文部省唱歌故郷(ふるさと)」の歌詞にあるように、正にここは「兎追ひしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷」だった。

唱歌「故郷(ふるさと)」

故郷は?と聞かれて困りそうな有名人たち

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大坂なおみ(現在21歳、
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 全豪オープンテニスに優勝した大坂なおみは、今最も旬な日本女性だ。遂に女子シングルス世界一となった

 Wikipediaには、彼女を「大阪市中央区出身」と書いてあるが、本人に「故郷は?」と聞いて大阪と答えるだろうか。

 確かに、彼女は大阪府大阪市で生まれた。一家は当時、同中央区南東部の空堀商店街近くに住んで、父親は市内で大手語学学校の英語講師をしていたが、2001年(当時5歳)アメリカへ移住。父方の祖父母がいる、ニューヨーク州ロングアイランドのエルモントに住んだ。

イメージ 3 更に、2006年(当時10歳)フロリダ州フォートローダーデール(地図)に移住し、現在もそこに住んでいる。

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 父親はハイチ共和国ジャクメル(地図)出身で、アメリカのニューヨーク市立大学シティカレッジで学んだ後、13年間日本に在住した、 ハイチ系アメリカ人。母親は北海道根室市出身の日本人で、二人は札幌で出会った。札幌市の住居が、なおみの日本の住民票の住所である。苗字の「大坂」は母方から来ている。母方の祖父は歯舞群島の勇留島出身で、根室漁業協同組合組合長をしている。

 幼いころ大阪から米国に移住した大坂(注:ダジャレではない)は、日本の記憶はおぼろげだ。米フロリダ在住で言葉も英語の方が流ちょう。

 2018年現在、法的には日米二重国籍であるが、 日本テニス協会に所属している。なぜ大坂一家は、なおみをいまだに日本登録なのだろうか。

 大坂は米国テニス協会のジュニア大会に多く出場しているが、目立った成績は残していない。米国では完全に埋もれた存在だった。大坂一家は米国協会に支援を申し込んだが、大して取り合ってもらえなかったという。しかし大坂が16年全豪で予選を勝ち上がり本戦で3回戦に進むと、米国協会は強烈なアプローチを仕掛けてきた。

 日米争奪戦の勃発だった。米国は女子代表監督が自ら乗り出し、多額の支援を約束したと伝えられる。だが大坂の父フランソワさんは、無名の時から娘を支援し続けた日本の恩義を尊重したという。だからこそ、いまでも大坂は日本で登録し続けるのだ。

 そもそも日本人って一体何なんだろう。日本人の定義ははっきりしているのだろうか。あるいは、深く考える必要はなく、ご都合主義でいいのだろうか。

 東京オリンピックで大坂なおみはアメリカから出場するという仰天情報もある。確かに父がアメリカ国籍、本人も二重国籍で、住んでいるところはアメリカとなると、その可能性は否定できない。

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稀勢の里(現在32歳、写真

 初場所で引退した悲運の横綱・稀勢の里出身地争いと言うのがあった。(「稀勢の里の出身地は牛久?それとも竜ヶ崎?出身高校や中学を調査」参照)

イメージ 7 稀勢の里の出身地は公には茨城県・牛久市となっている。牛久市出身となっているのは、相撲部屋に入門した当時に住んでいたのが牛久市だったからという理由だ

 稀勢の里が生まれたのは兵庫県・芦屋市で、2歳のとき龍ヶ崎に転入し、中学時代まで龍ヶ崎市で生まれ育つ。牛久市は、稀勢の里が中学生だったころで、居住年数は、龍ヶ崎市が一番長い。

 ちなみに、出身地に関しては法的な定義は一切ないが、国土交通省による出身地の定義では「15歳くらいまで長く住んでいた場所」であり、「人格形成に強く影響を与えた地」ということのようだ。この定義に従えば、稀勢の里の出身地は龍ヶ崎市ということになる。

 果たして、稀勢の里に故郷を一つ選べと言ったら何と答えるだろうか。

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吉田拓郎(現在72歳、写真

 吉田拓郎は広島県出身の自分にとっては、広島県が生んだ英雄だと思っている。ところが、出身は鹿児島県伊佐郡大口町(のちの大口市、現:伊佐市)と表記されている場合もある。

 鹿児島県伊佐郡大口町(のちの大口市、現:伊佐市)で生まれ、鹿児島県鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現:鹿児島市)に転居し、谷山小学校に2年生(8歳)まで在学(歌手の西郷輝彦と同期生)。その後は広島県広島市南区西霞町で育つ。

 1955年に両親が別居し、立教大学に進学した兄は上京、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居。同年4月、広島市立皆実小学校へ転校。翠町中学校を経て、1962年に皆実高校に入学。1965年に広島商科大学(現・広島修道大学)に入学した。 

 生まれは鹿児島県・伊佐市、育ちが広島市ということだね。

吉田拓郎/いつも見ていたヒロシマ(1980年)

吉田拓郎/唇をかみしめて(1988年)

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高橋真梨子(現在68歳、写真

 知り合いで、広島県廿日市市出身の人に「高橋真梨子の出身地ですね」といったら、「えっ!彼女は福岡が出身地ではないですか」と言われたことがあった。

 生れは広島県・廿日市市。父・森岡月夫は広島鉄道局、母・橋千鶴子は広島市内の銀行に、それぞれ勤務時の19458月6米軍の原子爆弾投下により被爆母はダンサーでもあり、広島のダンスホールで両親は出会い結婚し1949年、真梨子が生まれた。
 
 戦後、国鉄を辞めてプロのジャズクラリネット奏者を目指した父は、朝鮮戦争下で米軍基地が多くジャズが盛んであった福岡に移り、まもなく当時1歳だった真梨子も母に連れられて博多に転居した。
 
 しかし父に脱疽の症状が出て病状が悪化し、働くことが出来なくなった父に代わり、母は中洲でホステスとして働き家計を支えた。母の収入は高額な痛み止めなど、父親の治療費に消えた。夫婦ゲンカが絶えなくなり、5歳の時に両親は別居、真梨子は母と博多に残る。

 真梨子が小学校310歳の時に父母の離婚成立で、母親の「橋」姓となる。父は広島に戻り、広島市内のクラブでジャズプレイヤーとして働いたが、入市被爆が原因で長らく後遺症に苦しんだのち39歳の若さで亡くなった。母はバーをやりながら娘を育てた。

 音楽を目指した父の影響を受け芸能界に憧れ、自らもジャズボーカルの勉強を始める。16歳になるとプロ歌手を目指して九州女子高等学校(現・福岡大学附属若葉高等学校)より駒沢学園女子高等学校へ転入のため上京。渡辺プロのもとで本格的なレッスンを受けた後、1966年に「スクールメイツ」の一員として芸能界デビュー。しかし自身の求めているアーティスト路線でなかったこともあり、高校を卒業すると渡辺プロを脱退し、博多に戻りディスコやクラブでの活動を始めた。

 1972年、中洲のナイトクラブで歌っていたところ「ペドロ&カプリシャス」ペドロ梅村にスカウトされる。同年に「別れの朝」が大ヒットしながらも突如離脱した先代・前野曜子に次ぐ、二代目ボーカルとして参加。カプリシャス時代の芸名は「高橋まり」。 

 翌1973年には「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」などがロングヒット。翌1974年の『第25回NHK紅白歌合戦』に「ジョニィへの伝言」で初出場を果たした。

 1978年に 「ペドロ&カプリシャス」から独立して、一緒に脱退したそのメンバーの一人ヘンリー広瀬1993年に結婚。「バラードの女王」と呼ばれ、今も人気歌手を続けている。

 彼女は拓郎とは反対に、生まれが廿日市市、育ちが福岡市と言ったら正しいのだろう。

高橋真梨子/for you…(1982年)

故郷のない人

 故郷(ふるさと)について、小さいころから東京に住んでいる人に対して、「故郷がない」といわれて怒っている話が載っていた。「東京だって故郷なんだぞ!」
 
 故郷=出身地とすると、
上述の国土交通省による出身地の定義では「15歳くらいまで長く住んでいた場所」とあったが、それに「今住んでいるところから離れているところ」を付け加える必要があると思う。
 
 従って、小さいころからずっと同じ地に住んでいる人には「故郷(ふるさと)」はないのだ。但し、例えば小さい頃東京に住んでいたが今は地方で生活している人は「東京」が立派な「故郷」である。

 こんな歌がある。

本田路津子/秋でもないのに(1970年)

 【歌詞】秋でもないのに ひと恋しくて さびしくて 黙っていると 誰か私に 手紙を書いて 書いているような ふるさともない 私だけど どこかに帰れる そんな気もして
 
 

 最後は故郷の曲。

野路由紀子/私が生まれて育ったところ(1971年) 

(Wikipedia 参照)
 

タンゴと日本人

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 ここのところ音楽への興味が高まり、逆に読書量が減ってきていたが、どうやら最近は読書への関心も元に戻ったようだ。

 図書館で借りるのはいつも通りだが、ぼちぼち書店に寄って本を買うことが増えてきた。それも読んで面白いものが多く、ブログでなかなか紹介することができない能力と書くことに対する集中力のなさがもどかしい。

山折哲雄「こころ塾<2>」

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 ところで、1月22日の拙ブログ「音楽大学(音楽学校)出身の歌手【その1】」で、音楽大学声楽科出身の変わり種として池田理代子(71歳、写真)が登場した。

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 「ベルサイユのばら」で漫画家として頂点を極めたにもかかわらず、猛勉強して47歳で東京芸術大学声楽科に入学した経緯について、参考にしたのが図書館で借りた、山折哲雄 こころ塾<2>」(2008年、読売新聞大阪本社編、写真)だった。

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 この本は、「こころ塾」山折哲雄
塾長(87歳、写真左)と、スポーツジャーナリスト・増田明美(55歳、写真中央)や、法政大学総長の田中優子(67歳、写真右)など、一線で活躍する多彩なゲスト12名との対談集。
 
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 その内の一人で、故・船村徹(2017年、84歳で没、写真左)との対談があり、おやっと思うことがあった。

 肺結核で夭折した生涯の友・高野公男(1956年、26歳で没、写真右)とは東洋音楽学校(現:東京音楽大学)で出会い、大学在学時に、作詞家の高野と組み作曲活動を開始した。

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 それが、二人とも鳴かず飛ばずの状態が続いたが、もう後がないと思って売り込みに行ったキングレコードで、春日八郎(1991年、67歳で没、写真)を担当していたスタッフの目にとまり、春日の歌唱による『別れの一本杉』(1955年)が大ヒットした。高野はその翌年、26歳の若さで他界する。

  そのこてこての日本の演歌と思っていた曲が何とハバネラタンゴというタンゴのリズムを乗っけて作った曲」だというのだ。

春日八郎/別れの一本杉(1955年)

 タンゴのリズムの歌謡曲 

 日本の歌謡曲でタンゴのリズムの曲は幾つかは知っている。

 戦前では「マロニエの木陰」(1937年、松島詩子)、「或る雨の午後」(1938年、ディック・ミネ)、「新雪」(1942年、灰田勝彦)、「湯島の白梅」(1942年、小畑実)。二葉あき子が1947年に歌った「夜のプラットホーム」は1939年・淡谷のり子のカバーだ。

松島詩子/マロニエの木陰(1937年)

藤田まこと/或る雨の午後(1938年)

灰田勝彦/新雪(1942年)

小畑実&榎本美佐江/湯島の白梅(1942年)

二葉あき子/夜のプラットホーム(原曲は淡谷のり子:歌、1939年)

 戦後はたくさんの曲がタンゴのリズムだ。
タンゴと日本人

 それで、ネットで探していたらこんな本に出合った。

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 生明俊雄(あざみとしお)著「タンゴと日本人」(2018年、集英社新書、写真)だ。2018年8月22日第一刷発行とあるので、まだ新しい。

 その帯封の表には石原裕次郎美空ひばりもみんな「タンゴ」を歌った」とし、

 「夜霧よ今夜も有難う、みだれ髪、有楽町で逢いましょう、別れの一本杉、上海帰りのリル、銀座の恋の物語、与作、柔、函館の女、霧子のタンゴ、夜霧のブルース、アンコ椿は恋の花、だんご3兄弟」が書いてある。納得の曲もあるが、ほとんどが初耳で驚いてしまう。

 そして、裏には「さて、日本人とタンゴについて考えるときに、もうひとつ忘れてはならないことがある。

 それは、ブエノスアイレスから持ち込まれたアルゼンチン・タンゴや、欧米から届けられるコンチネンタル・タンゴだけではなく、ある時期からは日本独自のタンゴが生まれ、広く聴かれるようになったことである。(中略)

 歌謡曲のなかでも最も日本的といわれる演歌にもタンゴ調の曲がある。また子供たちに歌わせ、聴かせるために作られたいくつかの童謡のなかにもタンゴのリズムが使われた。そういう曲を聴いたり、歌ったりするときに、タンゴを意識しているかどうかは別にして。

 こう考えると、やはりタンゴは日本人にとって何か特別なものであるということは言えそうだ」(「はじめに」より)

 もう興味津々、一日も早く読んでみたいと思い、仕事の帰りがけにある、大きな書店に在庫を問い合わせてみた。それが「有る」という。早速その日に飛んで行って買った次第である。

 それでは、この本を参考に、「日本人とタンゴ」について何回かブログを作ろうと思う。
 続く。



 

タンゴの起源と日本への到来【その1】

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 タンゴを始め、19世紀から20世紀前半に相次いで生まれたポピュラー音楽の発祥については諸説があり、明確ではないものが多い。

 前作で船村徹「別れの一本杉」のリズムが「ハバネラタンゴ」だという聞きなれない言葉を話していた。

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 早速Netで調べたがよく理解できなかった。生明俊雄著の「タンゴと日本人」には分かりやすい説明がされている。

タンゴの起源

 「タンゴには誕生の原点として三つのリズムがある。それは父親ともいえるハバネラ、母親ともいえるカンドンベ、そしてそのような両親から、タンゴより少し先に生まれていた、兄貴分のミロンガである。この三つのリズムとその相互の関係、そしてそこからタンゴが生まれた経緯を確認していく」とし、その後それぞれの解説がある。

まずは、キューバから渡ってきた父親「ハバネラ」から

 「ハバネラ」はあのカルメンのハバネラである。そして、その名が示すようにキューバの首都ハバナの音楽である。

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 19世紀前半にアルゼンチンのブエノスアイレスを流れるラ・プラタ河口当たりの港町やその対岸のウルグアイのモンテビデオにキューバの水夫たちが運んできたハバネラという音楽が人気となっていた。(地図)

 しかし、その源流は19世紀初めのイギリスで生まれたカントリー・ダンスと言う舞曲とされる。それがフランスに渡ってコントラダンサと呼ばれるようになり、さらにスペインを経由してキューバに持ち込まれハバネラと呼ばれるようになったという。

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 ハバナでブレイクしたハバネラから世界的なヒット曲が生まれる。

 それは、当時キューバに滞在していたスペインの作曲家、セバスティアン・イラディエール(1865年、56歳で没、写真)が帰国後に発表した、「ラ・パロマ(La Paloma)、鳩」「エル・アルグリートEl Arreglito)という二つの曲である。

 1840年代に発表された「ラ・パロマ」は今でも各国でスタンダード・ナンバーとして演奏されている。日本でも大正時代には楽譜が発売され、レコード化もされたが、戦後来日したメキシコのトリオ・ロス・パンチョスの歌でさらに知られるようになった。

ミレーユ・マチュー/ラ・パロマ

 もう一曲は、同じ1840年代に発表の「エル・アルグリートである

 フランスの作曲家、ジョルジュ・ビゼーによるオペラ『カルメン』の中の第一幕で歌われるアリア『ハバネラ』(Habanera)は、冒頭の歌詞から「恋は野の鳥」(仏:L'amour est un oiseau rebelle)の題名でも呼ばれる。彼は、セバスティアン・イラディエール作曲のハバネラ「エル・アルグリードをスペインの民族音楽と誤解して流用した。

エリーナ・ガランチャ/歌劇「カルメン」より「恋は野の鳥」

 上記2曲の世界的流行は、ハバネラを使った名曲を生むことになった。

 イタリアのカンツォーネ「オー・ソレ・ミオ」もハバネラのリズムであり、アメリカのジャズの名曲「セント・ルイス・ブルース」も中間部に典型的なハバネラが現れる

ルチアーノ・パバロッティ/オー・ソレ・ミオ

 日本の民謡にもハバネラのリズム使われている。熊本民謡の代表格で、明るくて陽気な歌詞が特徴の「おてもやん」、それに長野の木曾地方の民謡で大正年間に盆踊り唄として全国に広まった「木曾節」がその例である。

市丸/おてもやん 三橋美智也/木曾節


アフリカの黒人が連れてきた母親「カンドンベ」

 カンドンベはアフリカから南米に奴隷として連れてこられた黒人たちが持ち込んだ、アフリカの宗教の儀式やそれに伴う行進の音楽である。

 カンドンベは太鼓を中心とする多くの打楽器が同時に打ち鳴らされ、テンポも速くリズムのパターンも複雑だが、その中にタンゴのリズムに酷似しているものがある。そのためカンドンベもハバネラと同様にタンゴのリズムの誕生に強い影響を与えたと言われている。

 カンドンベはハバネラにおける「ラ・パロマ」のような世界的に有名な曲は生まれなかったが、強烈であるが浮き立つような陽気なリズムは、世界各国の土着の踊りや古謡の中に類似するものが多い。ちなみに、日本の栃木県の民謡「八木節」の太鼓のリズムはカンベに限りなく強い。

八木節

後は、兄「ミロンガ」の誕生

 タンゴより一足早く生まれたミロンガにはリズム・パターンは同じだが、テンポが違う2種類があった。

 一つはテンポの緩やかなミロンガで、ミロンガ・カンペーラmilonga campera、田舎のミロンガ)、またはミロンガ・パンペアーナmilonga pampeana 、草原のミロンガ)と呼ばれた。

 都市を離れたアルゼンチンのフォルクローレの代表的なジャンルとして定着する。
 
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 そこでは第一人者として、アルゼンチンのアタウアルパ・ユパンキ(1992年、84歳で没、写真)がいる。

 そのローカルなミロンガはいかにも田園地帯の音楽らしい、ゆったりした曲が多い。ユパンキの代表作「牛車にゆられて」(Los ejes demi correte)はその典型である。

アタウアルパ・ユパンキ/牛車にゆられて

 もう一つのミロンガはテンポの速いミロンガで、ミロンガ・シウダーナ(街のミロンガ)と呼ばれる。

 ミロンガの多くは即興演奏で、後世には残らなかったものが多い。ただし1990年前後に作曲されたタンゴの中で、「エル・チョクロ」「ラ・モローチャ」「エル・エントレリアーノ」などはタンゴ・ミロンガと呼ばれることもあり、タンゴよりむしろミロンガのリズムで演奏され、ミロンガを踊るのに適していたようだ。

ミロンガの弟「タンゴ」が誕生

 20世紀になってしばらくは、ミロンガとタンゴは区分のはっきりしない状態にあった。

 しばらくすると2拍子のミランガのリズムとは明らかに異なる、4拍子のタンゴが現れたのだ。

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 その代表曲は1917年に生まれた、ウルグアイのヘラルド・エルナン・マトス・ロドリゲス(1948年、51歳で没、写真)が
作曲した「ラ・クンパルシータ」(La Cumparsita)である。

 その少し前に作曲された「夜明け」「フェリシア」などのタンゴの名曲も同様に4拍子のリズムである。

ファン・ダリエンソ楽団/ラ・クンパルシータ  フェリシア

 タンゴが生まれてからもミロンガは生き残っている。Wikipediaによると、タンゴのサイトの Todotango でも、ミロンガと分類されている曲が300曲ほどあるという。

 タンゴ誕生以降、ミロンガの新曲には、「ミロンガ・センチメンタル」(1931年)、「ミロンガ・トリステ」(1937年)、「天使のミロンガ」というように、タイトルにミロンガという名称を入れてタンゴと区別している。

アストル・ピアソラ/天使のミロンガ

 続く。

タンゴの起源と日本への到来【その2】

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タンゴのヨーロッパ上陸

 19世紀末、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで生まれたタンゴは、20世紀初頭フランス・パリに渡って洗練されるや、パリからドイツ、イタリア、イギリス、デンマークなどヨーロッパ中に広まった。

 それには、1929年に起こった世界恐慌でアルゼンチンは大不況となり、パリに脱出していくミュージシャンが増えたという経済情勢もあった。

 しかし、まもなくヨーロッパではオリジナルとはかなりイメージの異なった新しいタンゴが生まれることになった。

 アルゼンチン・タンゴ特有の激しいリズムは影を潜め、軽いリズムにヨーロッパらしい優美なメロディが乗ったタンゴである。

 この時期にヨーロッパで生まれ、今も演奏されるタンゴには、フランスでは「夢のタンゴ」「小雨降る径」、ドイツでは「碧空」「夜のタンゴ」「モンテカルロの一夜」「奥様お手をどうぞ」など。イタリアでは「バラのタンゴ」、デンマークでは「ジェラシー」、オランダでは「オレ・グァッパ」などがある。

 タンゴはアメリカにも渡り、1927年にトーキーになってからのハリウッド映画には、主題曲やBGMにしばしばタンゴが使われるようになった。「ブルータンゴ」「ヘルナンドス・ハイダウェイ」「月下の蘭」など、世界的に知られるタンゴのスタンダード曲も、この頃にアメリカの映画やレコードから生まれた。

アルフレッド・ハウゼ楽団/夢のタンゴ

アルフレッド・ハウゼ楽団/夜のタンゴ

バラのタンゴ

カティツァ・イリーニ/ジェラシー

カイロオペラオーケストラ/ブルータンゴ

そしてタンゴは日本に渡来した

 ヨーロッパで成熟しつつあったタンゴは、二つのルートで日本に渡ってきた。一つはアメリカを経由して。もう一つはパリから直接に。

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 このうち日本に根を下ろしたのは、パリからやってきた方のタンゴである。なぜアメリカからのタンゴが定着せず、パリからのタンゴが受け入れられたか。

 そこにはヨーロッパ遊学で6年のパリ生活に別れを告げ、1926年(昭和元年)に帰国した、勝海舟の孫で、パリで出会ったタンゴを日本に紹介した男爵・目賀田綱美(1969年、73歳で没、写真)がいた。

 彼は、パリの社交界で「バロン目賀田」と呼ばれるほどの人気者だったが、父の病気の悪化の知らせを聞いて、これを機会に日本に腰を据えることを決心する。後に「日本のタンゴの生みの親」と言われるほど、日本のタンゴの普及に人生をかけることになる。

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 パリを離れるとき、パリで親交をもった俳優の早川雪洲(1973年、87歳で没、写真)から餞別の品としてもらったタンゴのレコード12枚を持ち帰った。

 早川雪舟は彼についてこう述べていたという。

 「この青年は社交ダンス研究のため巴里に来ていたのだった…これが目賀田君だ。国際的巴里優粋のダンスを日本に紹介するんだと彼は大いに力んでいた」

 彼はまずダンスを踊ることに興味を持っている友人・知人や、伝え聞いて訪れる人たちに自邸でパリ仕込みのダンスを教え始めた。

 そして、精力的にレコードを収集するとともに、帰国後の翌年の1927年(昭和2年)に誕生した日本ビクターにレコード輸入を促した。同社は翌年にはアルゼンチン・タンゴのレコードを6種ほど輸入して販売。その数年後には日本のタンゴバンドが演奏するレコードや、淡谷のり子松島詩子ディック・ミネなどの歌手によるレコードも販売されるようになった。
 続く。

タンゴはダンスか音楽か

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 タンゴの好きな人の多くはダンスか、音楽か、どちらかと言う人の方が多く、両方というのは少ないようだ。

ダンスと私

 自分もその一人。踊りはからきしダメで、音楽一辺倒だった。

 我々団塊の世代はいくつもダンス音楽の洗礼を受けた。 
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 大学時代の男女の社交の場はダンスパーティ(画像)だった。
 
 フォックストロットやジルバに始まり、チャールストン、ワルツ、チャチャチャ、マンボ、ルンバ。タンゴは最も難しい踊りだった。
 

 自分はダンスを全く苦手としていたので、いわゆる「壁の花」(これは女性に使う言葉だが)。指をくわえて踊るのを眺めるだけ。

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 社会人になっても、キャバレーやスナックで軽やかにジルバを踊る仲間を尻目に、ムード歌謡に乗って足元もおぼつかない、チークダンス(画像)を踊るのが精一杯。

 タンゴを踊れたら、その人は間違いなくスターだった。

 映画でタンゴを踊っている印象的なシーンも多い。

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1 .「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」Scent of a Woman、1992年)で、盲目の退役軍人を演じるアル・パチーノガブリエル・アンウォーのタンゴ。

セント・オブ・ウーマン/夢の香り 

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2.「トゥルーライズ」(True Lies、1994年)ではアーノルド・シュワルツネッガー扮する凄腕のスパイが、何も知らない妻のジェイミー・リー・カーティスと映画の最後の方でタンゴを踊る。 

「トゥルーライズ」(True Lies)

 ちなみにこの二つの映画に流れていた曲は、タンゴの有名曲の一つで、ポル・ウナ・カベサ (Por una cabeza)という曲。曲名は競馬用語の「首(ひとつ)の差で」を意味する。

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 カルロス・ガルデル(1935年、飛行機事故で44歳で没、写真)が1935年の映画「タンゴ・バー」 (Tango bar) の挿入歌として作曲したもの。

 彼は不世出のタンゴ歌手として知られるアルゼンチンの歌手・俳優であり、その人気の絶頂期に飛行機事故で急逝した事と相まって、現在なおタンゴ界の偶像というにとどまらずアルゼンチンの国民的英雄としての地位を不動のものにしている。

 彼も歌っているが、両映画では、タンゴ・プロジェクトというグループのものが使用されている。

ポル・ウナ・カベサ (Por una cabeza)

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3.「レッスン!」(Take the Lead、2006年)では、アントニオ・バンデラスカティア・バーシラスが、落ちこぼれの生徒たちに情熱的なタンゴを披露して彼らを社交ダンスの虜にさせるシーン。

 *バックに流れる音楽はArmik/Tango flamencoで、映画とは違います。


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4.「シャル・ウィー・ダンス?」(2004年、Shall we dance?)で、リチャード・ギア ジェニファー・ロペスがタンゴを踊るシーン。

 日本映画『Shall we ダンス?』(1996年制作 監督・脚本:周防正行)のリメイク版だが、オリジナルのヒロインであった草刈民代が、忠実にオリジナルを再現したハリウッド版を観て、その忠実さに感動して感泣すると、監督で夫の周防正行に「自分が出た時には泣かなかったのに、なんでこっちで泣くんだ」と言われたという逸話があるそうだ。


音楽と私

 ムード・ミュージック全盛期の時代があった。1960年代から70年代のころ。自分はそのころムード・ミュージックの虜だった。

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  今やBGMになり果てて、想像もつかないが、ムード・ミュージックは当時メジャーな音楽で、その代表曲である、パーシーフェイス楽団「夏の日の恋」(1960年、画像左)は9週連続全米ヒットチャート1位という快挙を成し遂げ、同年のグラミー賞まで受賞したほどの人気で、ポール・モーリア楽団「恋はみずいろ」(1968年画像右)は、同ヒットチャートで7週間1位を快走し、全世界で500万枚以上売れた。

 コンチネンタル・タンゴに人気があったのも同時期だ。

 アルゼンチン・タンゴに対して、ヨーロッパ製のタンゴをコンチネンタル・タンゴと呼ぶが、これは日本のレコード会社が考案した造語のようである。

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 アルゼンチン・タンゴはバンドネオン(写真左)が用いられるのが特徴で、コンチネンタル・タンゴはアコーディオン(写真右)が用いられることが多く、楽器編成も通常のポピュラー音楽での管弦楽編成に近く、別名「シンフォニック・タンゴ」と呼ばれる。アルゼンチン・タンゴはムード・ミュージックのジャンルには入らない。自分はコンチネンタル・タンゴが大好きだった。

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 コンチネンタルタンゴで、まず思い浮かぶのがドイツのアルフレッド・ハウゼ(2005年、83歳で没、写真左)、次にオランダのマランド(1979年、71歳で没、写真中央)、そしてリカルド・サントス(後のウエルナー・ミュラー)(1998年、77歳で没、写真右)と言ったところだろうか。

 アルフレッド・ハウゼとマランドはコンチネンタルタンゴの双璧で、シンフォニックの魅力ではハウゼ、歯切れのよいアコーデオンの魅力はマランドというイメージだった。

 リカルド・サントスは、本来ラテン音楽全般をレパートリーとしていたが、日本ではコンチネンタルタンゴという印象が強かった。
 
 その代表曲が、アルフレッド・ハウゼの「碧空(あおぞら)」、続いてマランドの「オレ・グァッパ」、リカルド・サントスは「真珠採り」後に「真珠採りのタンゴ」とも題された。

 なお、碧空(Blauer Himmel)は、1938年頃のドイツで発表されたコンチネンタル・タンゴ。バルナバス・フォン・ゲッツィ作曲。

 オレ・グァッパ(Ole Guapa)は、1937年にオランダ映画の主題歌として、マランド自身が作曲したもの。タイトルになっている "Ole"というのは、闘牛士などに送る掛け声で、"Guapa"というのは娘とかお転婆娘という意味だそうで、”Ole Guapa”はタンゴを踊る若い娘にかける冷やかしの掛け声で、「よっ、お嬢さん!」といったところだという。

 真珠採り(Perl Fishers、1957年)は、フランスの作曲家・ビゼーのオペラ「真珠採り」(1863年、パリで初演)より、アリア「耳に残る君が歌声」をポップス化したもの。アルフレッド・ハウゼ楽団が 編曲・演奏し、世界的に流行したものだが、リカルド・サントス楽団の演奏と幻想的な女性のバックコーラスがとても魅力的で日本で大ヒットした。

アルフレッド・ハウゼ楽団/碧空

マランド楽団/オレグァッパ

リカルドサントス楽団/真珠採り


 中学生から高校生のころはラジオの洋楽音楽番組に夢中だった。これが当時の主な番組。

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 各レコード会社の洋盤の主に新曲を紹介する番組では、文化放送のS盤アワー(ビクター、DJ:帆足まり)とニッポン放送のP盤アワー(ポリドール、DJ:大沢牧子。ラジオ東京のL盤アワー(コロンビア)というのもあったようだけど、これは記憶にない。多分、田舎にいたので全国ネットワークに入っていなかったのではないかと思う。
 
 当時、ビクターや東芝レコードはアルゼンチン・タンゴにウェイトを置いて普及に取り組んでいたが、ヨーロッパのタンゴに力を入れるレコード会社もあった。それがポリドール・レコードである。

 ポリドールは、ベルリン・フィルドレスデン国立管弦楽団に代表されるドイツのクラシック音楽を一手に扱っていたドイツのグラモフォン社が、ポピュラー音楽を扱うために設立したレコード会社で、日本の受け皿になったのが、戦後、日本グラモフォンを名乗ったことの時期もあった日本ポリドールだった。

 ドイツのポリドールはドイツ語で歌われる曲をあきらめ、楽器だけで演奏されるダンス音楽やムード音楽を売る作戦をとった。

 P盤アワーのイントロを務める「星空のブルース」ベルト・ケンプフェルト楽団がすぐに思い浮かぶ。

 この番組からアルフレッド・ハウゼの「碧空」が大ヒット、コンチネンタル・タンゴの代表的損じ隣、世の中はタンゴ・ブームを迎えることになる。

 この番組から、リカルド・サントス「真珠採り」、ベルト・ケンプフェルト「真夜中のブルース」「愛の誓い(Till)」、映画「最後の楽園」のテーマ「パペーテの夜明け」「太陽がいっぱい」などが大ヒットを記録し、あのビージズもこの番組で日本に知られるようになった。

イタリア・フイルム・シンフォニー・オーケストラ/パペーテの夜明け(1957年)

 アルフレッド・ハウゼは、
1964年からTBSラジオの音楽ラジオ番組で食品メーカー「キユーピー」提供の『キユーピー・バックグラウンド・ミュージック』のテーマ曲、『ミリタリータンゴ』でも有名だ。

 当時は、語り手役の元TBSアナウンサー・今井とも子(今井登茂子)の曲目紹介と演奏中の曲をBGMに、キャッチフレーズなどを読み上げるだけの番組の雰囲気を壊さないCMだけが挟まれ、日曜朝のひと時にメロディーだけのクラシックやインストゥルメンタルを中心に構成された。

 1990年に第1368回の放送をもって四半世紀にわたり番組の語り手を務めてきた今井とも子が降板。同時にキユーピーがスポンサーから撤退。翌月から休日(不定期)の11:00 - 12:53に文化放送の音楽番組で『キユーピー・メロディホリデー』がスタートしている。

  『ミリタリータンゴ』は誰しも一度は聴いたことのある、軽快な曲だ。


 続く。
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