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3つの映画の共通点

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 前作でニュー・シネマ・パラダイスカサブランカライフ・イズ・ビューティフルという3つの映画を紹介したが、後でその共通点に気がついた。

戦争の悲惨さを描く

 まずは3作とも第2次世界大戦前後という時代背景にあることだ。そして、後の2作は「戦争の悲惨さ」をメイン・テーマにしている。

 ところで、戦争からもう70年以上経ち、その怖さを知らない世代が大半になっている。

 最近はよく「平和ボケ」という言葉を耳にするが、辞書によると、「戦争や安全保障に関する自国を取り巻く現状や世界情勢を正確に把握しようとせず、争いごとなく平和な日常が続くという幻想を抱くこと、あるいは自分を取り巻く環境は平和だと思い込み、周りの実情に目を向けようとしないことなどを意味する表現。主に安全保障などに無関心である日本国民に向け、皮肉を込めて用いられることが多い」 と書かれている。

自分は「戦争をしない国」と宣言することが一番安全保障につながると確信している。もちろん売られた喧嘩には対抗して自衛はする。それは当然の権利だ。

 原発事故のときもそうだったが、日本は世界の尊敬を集める国になる絶好のチャンスを逃し続けている。

 それにしても、戦争体験が風化しているのがとても怖い。自分も直接戦争は知らない。しかし、広島県に住んでいたせいもあり、その爪痕が至る所に残っている時代を生きてきた。

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被爆の跡も生々しいケロイドの残る原爆症患者(写真左)は親戚にいたし、今や高層アパートが林立し過去の面影もないが、広島市中区基町にはバラック建ての「原爆スラム」(写真右)が広がっていて、70年代前半まで、その一部は残っていた。

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 戦場からほうほうの体で日本に帰還した傷痍軍人(写真)が物乞いで家々を訪問していた。コメは配給されていた。

 戦争は普通の人がいわれも無く殺され、普通の人が戦場で理性を失い、狂気に走る。

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 ライフ・イズ・ビューティフルの主人公・グイドが銃殺されるシーンは衝撃的だった。(写真)

 こういった戦争の悲惨さを伝える映画はいつまでも見て欲しいと思う。これは誇張ではない、本当の戦争の実態だ。
恋と愛の切なさを描く

 「恋と愛」は、多くの映画の主要テーマである。

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 3作の内、ライフ・イズ・ビューティフル「家族愛」(画像)を中心に描かれているが、ニュー・シネマ・パラダイスカサブランカ「切ない恋」がメインテーマだ。


 恋や愛を伝える手段は「キス」

「キス」と言えば、ニュー・シネマ・パラダイスでは、それが映画の主要なモチーフになっている。

 有名なラストシーンと共に、トトとエレナが愛し合う場面にもキスシーンが登場する。

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 トトマルコ・レオナルディが一目ぼれをしたアニェーゼ・ナーノ(左写真)演じるエレナは絶世の美人だった。
彼は、雨の日も嵐の日も彼女の答えを聞こうとして、ずっと家の前で待ち続けるが、その願いが叶い、二人は愛し合う。

 映画の途中雨が降り出したが、その雨に打たれながら情熱的なキスを重ねる次のシーン。(右画像)


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カサブランカにも有名な場面がある。

 は、イルザイングリッド・バーグマン)と、リックハンフリー・ボガード)とのキスシーン。


 この幸せな恋や愛は長続きしない。次には「別れ」が待っているからだ。
 
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ニュー・シネマ・パラダイス
ではトトマルコ・レオナルディ)と親しかった老映画技師アンドレフィリップ・ノアレ)が、エレナとの恋は報われぬものと考え、別れ際に彼女が主人公の元へ訪ねてきたことを隠し、彼女のことを忘れるよう、彼をローマに旅立たせた。
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 ところが、ローマで映画監督として成功したトト=サルヴァトーレジャック・ペランはこれまで何度も恋愛を重ねてきたが、彼女のことが忘れられず、結婚をしなかった。

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 あれから30年後、 故郷に戻った初老のサルヴァトーレは、カフェでエレナに生き写しの少女を見かけて動揺する。(画像)

 後を付けると、サルヴァトーレの幼馴染のボッチャがエレナと結婚し、娘が生まれていたことを知る。

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 そして、サルヴァトーレがエレナブリジット・フォッセーと再会し、衝撃的な事実を知ることになる。(画像)

 なぜ駆け落ちの待ち合わせ場所にきてくれなかったのかと責めると、エレナはアルフレードに言づてを頼んだが断られたので、引っ越し先の住所とメッセージを上映メモの裏に記し、映写室の壁に残したのだと説明する。

 アルフレードはサルヴァトーレが村を離れて自分の道を進めるようにするため、エレナにサルヴァトーレと別れるよう説得していたのだった。

 経緯を知ったサルヴァトーレはアルフレードに怒りを感じるが、エレナは「私と結婚していたら素晴らしい映画は撮れていなかった」と言う。サルヴァトーレとエレナは車のなかでキスし、束の間に愛を確かめる。

 前作・「映画好きの人、必見の映画と言えば?」の繰り返しになるが

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カサブランカではこのシーン。決死の脱出劇、飛行場での別れ。

 最後の言葉「君とのパリの思い出に生きる」「君の瞳に乾杯」(画像)

 男:「3人のために考えた。俺の答えはこれだ」  女:「あなたは?」 男:「君とのパリの思い出に生きる。ゆうべ気付いた」 女:「離れないと誓ったわ」 男:「分かってる。俺にも仕事がある。君は俺の仕事の一部ではないんだ。俺は粗野な男だが、こんなに狂った世の中を見過ごせない。いつか分かる。さあ。君の瞳に乾杯」


ライフ・イズ・ビューティフルでは、幸せだった家族に、強制収容所行きの過酷な運命が待ち受けていた。 

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 絶望と死の恐怖に支配された世界を目の前にして、グイドロベルト・ベルーニ)は家族を守るため、ある「嘘」を思いつき息子に言う。
 
「これはゲームなんだ。泣いたり、ママに会いたがったりしたら減点。いい子にしていれば点数がもらえて、1000点たまったら勝ち。勝ったら、本物の戦車に乗っておうちに帰れるんだ」
 自分の人生を振り返ってみて、「別れ」にはため息をつくばかりだが、こんな映画を観て、自分だけではないんだ、もっと辛い別れもあるんだと思うとともに、「人間の真価とは、避けられない別れのとき、どんな判断をし、相手にどんな言葉を投げかけるかにかかっている」ことを痛感する。

小野リサ/映画「カサブランカ」主題曲「As Time Goes By」 


小田裕一郎とフランシス・レイの死

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 今から3ヶ月前の8月10日、「音楽のある生活」というブログを投稿したことがあった。

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 そこでは、『振り返ってみると、自分の音楽ライフ(画像)にはがあって、趣味と実益を兼ねるというか、オーデイオメーカーで営業をしていたころの1970年代中盤から1980年代後半と、ブログを始めた2009年からの数年がピークだったような気がする』

 と述懐し、最近はあまり音楽を聴いていないことを吐露した。

 事実、音楽のことに触れないブログが多くなり、これでは題名に偽りあり。「中高年の中高年による中高年のための音楽」というブログのタイトルを返上しなければいけないかもしれない』と、真剣に思ったものだ。

最近の音楽ライフ

 ところが、ここのところまた音楽のがやってきそうな予感がしている。それには「犠牲」が伴っている。「読書の秋」だというのに、本を読まなくなっているのだ。もう1ヶ月以上図書館に行っていない。どうしてこうなったかの理由は不明だ。

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 しかし、外で音楽に接することは極端に減ってきた。スナックも行かなくなったので、カラオケ(画像)を歌うことも無く、新しい曲のネタはほとんど入らない。

 それでも、音楽に関するブログ・ネタの仕掛りが増えてきている。亡くなった歌手や、音楽家に関することが多い。

小田裕一郎とフランシス・レイ

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最近では、小田裕一郎さんが9月17日に亡くなった。68歳。(写真)

 小田さんはサーカス「アメリカン・フィーリング」や、松田聖子の初期のヒット曲「裸足の季節」「青い珊瑚礁」杏里「CAT'S EYE」など多くの作品で作曲を手がけた。

 奧さん亡き後彼はニューヨークへ渡り独自の音楽活動を続け、米国・ニュージャージー州の自宅で心筋梗塞のため逝去。

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また、フランスの作曲家、フランシス・レイさんが死去した。86歳だった。(写真)11月7日、出身地の仏南東部ニース市が発表した。死去判明日であり正確な逝去日は不明。

 アコーディオン奏者から作曲家に転身。仏の伝説的シャンソン歌手エディット・ピアフイブ・モンタンに曲を提供したほか、クロード・ルルーシュ監督「男と女」(66年)では、「ダバダバダ……」のスキャットで知られる主題歌を作曲。同監督とは「パリのめぐり逢い」(67年)や「愛と哀しみのボレロ」(81年)などでタッグを組み、数々の映画音楽の名曲を生んだ。

 その他、ミシェル・ボワロン監督「個人教授」(68年)ルネ・クレマン監督「雨の訪問者」(70年)など。

 68年の仏グルノーブル冬季五輪の記録映画「白い恋人たち」アーサー・ヒラ―監督米国映画「ある愛の詩」(70年)ではアカデミー作曲賞を受賞したことでも知られる。

 2016年の朝日新聞の電話インタビューでは、映画音楽について「音楽と映画の関係は不可欠で、映像にエモーショナルなものをもたらす。一度聞いたら口ずさめるような音楽にしたい」と語っていた。

 それでは、これ以上難しいことを考えていると、いつまでもアップ出来ないので、数ある名曲の中で5曲ずつ。

まずは小田裕一郎さんが作曲した曲を。

サーカス/アメリカン・フィーリング(1979年)


松田聖子/裸足の季節(1980年)


松田聖子/青い珊瑚礁(1980年)



松原みき/ニートな午後3時(1981年)


杏里/CAT'S EYE(1983年)


続いてフランシス・レイさんが作曲した曲を。

映画「男と女」(Un homme et une femme)同名主題曲(1966年)


映画「個人教授」( La Leçon particulière)同名主題曲(1968年)


映画「白い恋人たち/グルノーブルの13日」(13 jours en France)同名主題曲(1968年)


映画「雨の訪問者」(Le Passager de la pluie)同名主題曲(1969年)


映画「ある愛の詩」(Love Story)同名主題曲(1970年)


 お二人のご冥福をお祈りいたします。合掌。


曲の出足に衝撃を受けた音楽

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第一印象の大切さ

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 もう大分前の話だが、 「人は見た目が9割」竹内一郎著、2005年、新潮新書、写真)がベストセラーになるご時世、9割とまでは行かないにせよ「第一印象」が大切なのは、音楽も一緒である。 

 人の印象を決める要素として、五感のうち視覚が占める割合が約87%を占めると言われているが、笑顔あいさつ好印象の決め手だと思う。

 今、マンションの管理人をして多くの人に出会うが、改めてそのことを強く感じている。 

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 笑顔はがポイントだ。人の顔はそれぞれ違うが、口の恰好がへの字(画像)に生まれた人は親を怨むのではなく、特に注意と訓練が必要だ。

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 ライオン・エメロンのCMに使われた、こんな歌もある。

 ここでは「後ろ姿」が大切としている。今は死語かも知れないが、当時は「バック・シャン」(写真)と言っていた。

ハニー・ナイツ/ふりむかないで(1971年)



 音楽の場合、第一印象というのは、「出足」というか、イントロである。好感度を上げるにはイントロが極めて重要だと思う。

曲の出足に衝撃を受けた音楽

 自分がイントロに衝撃を受け、いっぺんに好きになった曲はこの2曲である。 いずれも楽器はドラムス(シンバル)を使っている。間違いなく大ヒットする予感がして、2曲ともその通りとなった。

洋楽ではこの曲、シルヴィ・バルタン「アイドルを探せ」である。(拙ブログ:シルヴィ・バルタン参照)


シルヴィ・バルタン/アイドルを探せ(1964年)


邦楽では荒井由美(現:松任谷由実)の「ルージュの伝言」(1975年)。

 その後、1989年に公開されたジブリ映画『魔女の宅急便』のオープニングテーマソングに起用された。

 バックコーラスとして写真左より、山下達郎(65歳)、吉田美奈子(65歳)、大貫妙子(64歳)、そして、スキャットの女王・伊集加代子(現:伊集加代、81歳)という、錚々たるメンバーが参加している。

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 後に夫となるプロデューサーの松任谷正隆からコーラスを頼まれた山下達郎が、コーラスアレンジを自分に任せてもらえるならやるって言ったそうだ。これで抜群のアメリカン・ポップになった。

 なお、歌詞に出てくる「あの人」は、ロックミュージシャンの矢沢永吉をモデルにしてると言われている。(Wikipedia 参照)
 
荒井由美/ルージュの伝言(1975年)



ドラムスのイントロが印象的な曲

 ドラムスはリズムをとるため、ふさわしいからだろうか、イントロで使われることが多い楽器だ。

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 次がそれを構成する楽器である。

①バスドラム(ベースドラム)
②フロアタム
③スネアドラム(サイドドラム)
④トムトム(タム)
⑤ハイハットドラム

⑥シンバル

 ドラムがイントロで流れる曲をいくつか。

中島みゆき地上の星(2000年)

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 「地上の星」はNHK総合テレビ『プロジェクトX~挑戦者たち~』(2000年3月28日~2005年12月28日、画像)の主題歌として作られた。

 なお、エンディングテーマには両A面曲の「ヘッドライト・テールライト」が起用された。

中島みゆき/地上の星(2000年)


黄金の腕(The Man with the Golden Arm、1955年)

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 映画は、1950年に第1回全米図書賞を受賞したネルソン・オルグレンの小説『黄金の腕』を原作に、 ウォルター・ニューマン、ルイス・メルツァー、そしてノンクレジットであるがベン・ヘクトが共同執筆した脚本により製作された。監督は、『帰らざる河』(1954年)、『悲しみよこんにちは』(1957年)、『栄光への脱出』(1960年)のオットー・プレミンジャー(1986年、79歳で没、写真)。

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 第28回アカデミー賞において、アカデミー主演男優賞にフランク・シナトラ(1998年、82歳で没、写真)、アカデミー作曲賞にエルマー・バーンスタイン、アカデミー美術賞にジョセフ・C・ライトダレル・シルヴェラがノミネートされたが、いずれも受賞は逃した。
 
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同名の主題曲を作曲したエルマー・バーンスタイン(2004年、82歳で没、写真は、『十戒』『黄金の腕』『荒野の七人』『大脱走』など、200以上の映画・テレビで音楽を担当、1967年の『モダン・ミリー』ではアカデミー作曲賞を受賞したことで知られる。
 
ビリー・メイ/映画「黄金の腕」主題曲(1955年)

 
シング・シング・シング

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 「スウィング・ジャズ」とは、1930年代から40年代にかけて社交ダンスの伴奏音楽として大流行した、ビックバンド・オーケストラによるジャズのこと。(写真)

イメージ 11スウィング・ジャズの王様(King of Swing)と言えば、ベニー・グッドマン(1986年、77歳で没、写真)。 

 「シング・シング・シングは、1938年にベニー・グッドマン楽団がカーネギー・ホールでのコンサートで演じて以来、同楽団の代表曲として知られる。

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 特に、当時の同楽団の看板ドラマー・ジーン・クルーパ(1973年、64歳で没、写真の黒人的なドラムソロは、ジャズ界におけるドラムの認識を覆すほど革新的で、シング・シング・シングといえば、誰しもがまずジーン・クルーパのドラムソロを連想するほどだった。

 また、クルーパはルックスも良かったことから、一介のドラマーでありながらアイドル的な人気を博し、映画などにも出演した。

ベニー・グッドマン/シング・シング・シング(1938年


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シング・シング・シングは、日本映画『スウィングガールズ』Swing Girls、2004年、画像)でも取り上げられた。

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 脚本・監督は『ウォーター・ボーイズ』(2001年)の矢口史靖(51歳、写真)。東北の片田舎の落ちこぼれ女子高校生がビッグバンドを組んで、ジャズを演奏する青春映画。キャッチフレーズは「ジャズやるべ!」。 

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 ロケは山形県置賜地域(地図)を中心に行われ、セリフも山形弁(置賜弁)が使われた。

 置賜地域は、山形県の最南端に位置し、東は奥羽山脈を境に福島県、宮城県と、西は朝日山地を境に新潟県と、南は吾妻山系・飯豊山系を境に福島県会津地方と、北は朝日岳・白鷹山を境に村山地域に接している。

 また、山形県の母なる川「最上川」の源である吾妻連峰の裾野に広がる米沢盆地を中心に長井盆地を含めた最上川系の陥没盆地と宇津峠山地を分水嶺とする小国盆地から成る。

 面積は、県土の26.8%1を占め、米沢市を中核とした3市5町から構成されている。
(Wikipedia参照)

スウィングガールズ/シング・シング・シング


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所ジョージが司会を務める、日本テレビ系列「1億人の大質問!?笑ってコラえて!」(毎週水曜日19:56 - 20:54)の「日本列島 吹奏楽の旅」に出演する常連校となっている、中高一貫校の京都橘高等学校吹奏楽部(画像) 

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レンジ色の統一ユニホーム(女子部員はスカートタイプ)が特徴で、高い演奏力とダンス技術を併せ持ち「オレンジの悪魔」という愛称で知られている。 

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 2010年代に入りアメリカ合衆国で開催される、1890年に開始され100年以上の伝統を持ち毎年100万人以上の集客規模があるパサデナ市ローズ・パレードに出場するなど、世界進出を果たしており、2018年1月1日に開催された同大会にも、全世界数百団体が応募し僅か約10団体しか出場不能という高倍率、かつ一度出場すると5年間出場資格がないと言う制約がありながら、本校は6年ぶり2回目の出場となっており、この2回目の出場は2018年2月現在、日本国内では唯一本校のみが記録している。(Wikipeia参照)

KYOTO TACHIBANA HIGH SCHOOL GREEN BAND - ROSE PARADE 2018


イントロクイズ番組

シャープさん・フラットさん
 
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 曲当てクイズ番組と言えば、年齢のせいか真っ先にNHK土曜のお昼の番組の「シャープさん・フラットさん」(1962年~1970年)が目に浮かぶ。
 
 これは、2人の回答者がシャープさんとフラットさんになって対抗し、レコードや生演奏で、出題される音楽のタイトル(クラシック、ポピュラー、歌謡曲等)を当てるもの。碁盤風の電光掲示板の25マスを使って、最終的に縦横斜めにマスが一列揃えば勝つという、ビンゴゲーム的なクイズ番組であった。(Wikipeia参照)
 
 当時は最も音楽が好きな年代。曲当てには自信があり、番組に出たい気持ちで一杯だった。
 
クイズ・ドレミファドン!
 
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 その次は、イントロ早押しクイズ番組の「クイズ・ドレミファドン!」(フジテレビ系、1976~1988年)。

 超ウルトラ・ドンといって、とても常人には解答が無理だと思われるクイズもあった。
 少なくとも自分は、上記の音楽については、今でもトップの速さでボタンを押すことが出来る自信がある。

イントロが印象的な日本のフォーク【その1】

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 印象深いイントロの曲の続きだが、1960年代後半から70年代にヒットした、日本のフォークソングには何故かイントロにいろんな楽器を使っている。

 それは、彼らが歌専門の歌手ではなく、シンガーソングライターであり、いろんな楽器も使いこなすからだと思う。

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 例えば、五つの赤い風船(1967年~1972年、写真左)。2000年に再結成(写真右)したが、どちらもリーダーの西岡たかし(74歳)は、作詞、作曲、編曲、歌、演奏をほぼ全て一人やってのけるマルチ・プレイヤーである。

オートハープ

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 オートハープ(写真左)は、一連のコードバーを持つ弦楽器で、その名前にもかかわらず全くハープではなく、むしろツィターだという。アメリカではブルーグラスとフォークの楽器として使用されてきた。

 最も有名なのは、1927年から1943年まで活躍した、カーター・ファミリー(The Carter Family) の メイビル・カーターとサラ・カーターによって使用されたことである。(写真右ではサラ・カーターが持っている)(Wikipedia参照)

イメージ 7 五つの赤い風船の代表曲「遠い世界に」の出だしにも使われている。

 次の映像は2000年再結成した元シモンズ青木まり子さん(写真)のボーカルによるもの。

 ちなみに新メンバーは、竹田裕美子(キーボード)、中川イサト(ギター)、西岡たかし(ボーカル・ギター)、青木まり子(ボーカル)。現在も全国でコンサートやイベントで活躍中だ

五つの赤い風船/遠い世界に(1969年)


ヴィブラフォン 
 
 
五つの赤い風船の「遠い空の彼方に」も、何度聴いても飽きない素敵な曲。歌詞も素晴らしく、日本の「反戦歌」の最高傑作だと思っている

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 リーダーの西岡たかしは伴奏にヴィブラフォン(写真)を使っていて、それが幻想的な雰囲気の曲に仕上げている。


 ヴィヴラフォン(ヴァイブともいう)は1921年にアメリカの楽器メーカー、ディーガン社が開発した鉄琴の一種。
 
 元来、ジャズ用の楽器として開発されたが、その後、ポピュラー音楽や現代音楽でも幅広く使用されている。
 
 ヴィブラフォンがマリンバ木琴と大きく異なる機能は、共鳴パイプの上にファンが電気モーターによって廻っており、それによって音のふるえ(ヴィブラート)を起こし、この楽器特有な甘い音色を出すところで、ヴィブラフォンという名前で呼ばれるのは、ここに起因する。

 音板が金属製のヴィブラフォンは、たたくと音がとても伸び、長い時間をかけて消えていく。
 
 ただし、木のように疎密がなく均一なので、出る音は無機質。そこで音に変化を付けるために、ファンが回り、ヴィブラートがかかる仕組みになっている。
 
 共鳴パイプの上にファンがいくつも付いた軸が1本通り、電気で軸を回すとファンが回ってパイプの口が開いたり閉じたりする。
 
 開いた時に音は大きくなり、"ワーンワーン"と音に変化が生まれる。回転スピードを速くも遅くもでき、好みのヴィブラートが出せる。

 音の伸びを止めるためにあるのが、ダンパー。ペダルを踏むと音板の下に当たり、振動が止まる。ファンもダンパーも、音がそれほど伸びないマリンバにはない仕組みである。


 次の映像も新・五つの赤い風船青木まり子さんのボーカルによるもの。曲は原曲を少しアレンジしている。

 この曲、「五つの赤い風船 フォークアルバム第1集」で歌ったのは、今は亡き「フーコさん」という愛称で知られた藤原秀子さんだった。

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 その、レコードジャケット(写真)、左からリーダーの西岡たかし長野たかし(ベース)、藤原秀子(ボーカル、2013年、67歳で没)、東祥高(シンセサイザー、2012年、64歳で没)。

 なお、彼女は東祥高と結婚し、グループ解散と共に引退した。しかし、二人ともすでに鬼籍に入ってしまった。

 彼女が歌うオリジナルは抒情的な感じだが、これはアップテンポで、青木まり子の野太い声も曲にマッチしている。自分はこの方が好みだ。

五つの赤い風船/遠い空の彼方から(1969年)

 

トランペット

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トランペット(写真)は金管楽器の代表で、ステージの王様

 トランペットが純粋に音楽の合奏として用いられるようになったのは17世紀のことで、そのころもまだ自然倍音しか出ない、いわゆるナチュラル・トランペットだった。現在のバルブ構造のトランペットが普及してくるのは1820年頃からで、1850年頃にはかなり一般的なものとなったという

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 昨年の2017年12月2日、72歳で亡くなったはしだのりひこは伝説のフォークグループの「ザ・フォーク・クルセダーズ」(本人は写真左)を1968年に解散後、5年間の間に目まぐるしくグループを変えた

 それは、最初のグループで、「風」「さすらい人の子守唄」のヒットで有名な「はしだのりひことシューベルツ」のベース、井上博が急死したからである。

 それでも「はしだのりひことクライマックス」では「花嫁」、「はしだのりひことエンドレス」では「嫁ぐ日」と、スマッシュ・ヒットを続けた。

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 「はしだのりひことシューベルツ」
のデビュー曲「風」は、青春の旅立ちのやるせなさを歌った曲。勇んで旅に出たのが当時吹き荒れた学園闘争(写真)とすれば、挫折は闘争の終わりである。

 その虚しさをこの歌は「ただ風が吹いているだけ」というフレーズでうまく表現している。「風」は学園闘争に敗れ、挫折し疲れはてた若者たちの心の中を吹き抜ける、正に「風」だったのだ。 

はしだのりひことシューベルツ/風(1969年)


オカリナ

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 オカリナ(ocarina、写真)という名称は、イタリア語の「oca(ガチョウ)」に由来する造語で、「-ina」は "小さな" を意味する接尾語であるから、「小さなガチョウ」といった意味である。

 オカリナは、外形だけでなく指穴の数や配置まで自由に変更できる。
 
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 NSP(写真)は、岩手県一関市出身の天野滋(ヴォーカル・ギター、2005年、52歳で没)、宮古市出身の中村貴之(ヴォーカル・ギター、65歳)、花巻市出身の平賀和人(ヴォーカル・ベース、64歳)の3人組フォークグループ。一関工業高等専門学校の同級生であった三人が在学中の1972年に結成した。

 アマチュア時代にはニュー・サディスティック・ピンク(New Sadistic Pink)として、当初はロックを中心に活動していた。しかしフォーク調の曲でデビューするのにこの名前が似合わないという理由で、頭文字だけ取り出したNSP(N.S.P )というアルファベット三文字のバンド名に変更された。
 
NSP/夕暮れ時はさびしそう(1974年)


フルート

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 フルート(写真)の歴史は長く、先史時代まで遡るという。

 現在のフルートは横型だが、これは19世紀の中ごろドイツのT・ベームによって作られたもので、先史時代においてはほとんど縦型だったそうだ。
 

 フルートは「豊穣」、「生命」、「再生」に関係あると昔から信じられていて、お葬式や儀式などに欠かせず、求愛のための大きな力を持つ楽器と考えられていた。

 バッハなどが活躍をしていたバロック時代には木で作られていたが、材質もそれまでの木から銀や金の金属へと変わっていった。以来、木製のものが発展した楽器なので、金管楽器ではなく、木管楽器に分類されている。

 細く軽いため、指の動かし方が比較的簡単なことから、管楽器の中で運動性能が最も高いといわれ、かなり速い楽曲の演奏をすることも可能である。

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 マイ・ペース(写真)は、秋田県の昭和町飯田川町組合立羽城中学校(現在の潟上市立羽城中学校)の同級生である、森田貢(リード・ボーカル、ギター、ベース、64歳)、伊藤進(フルート、ボーカル、65歳)根次男(リード・ギター、ボーカル、65歳)の3人で結成。 

 同郷のシンガーソングライター山平和彦のバックバンドを経て、名古屋に活動拠点を移す。1974年にシングル『東京』でメジャーデビュー。累計で100万枚のヒットを記録したロングセラーとなる。その後は東京に移り住む。

マイ・ペース/東京(1974年)


リコーダー

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 同じエアーリードである現代のフルートが横笛であるのに対し、リコーダー(写真)は縦笛である。
 
 奏者が自らの口形によって吹き込む空気の束を調整をしなければならない横笛に対し、空気の束が一定に保たれ、吹奏が比較的に容易である。また構造もシンプルで安価に量産できるため、日本では教育楽器として多用されるようになった。
 
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  「岬めぐり」は、1974年にリリースされた山本コウタロー(70歳)、一美(元・黒崎とかずみ)、板垣秀雄(元・ピピ&コット)の3人組フォークグループ「山本コウタローとウィークエンド」(1976年以降はウィークエンドに改称、写真のファーストシングルである。作詞は山上路夫、作曲は山本厚太郎(山本コウタローの本名)。

 オリコンシングルチャートでは最高5位を記録し、約40万枚ほど売り上げた。山本コウタローとウィークエンドでは最高の売り上げであった。
 
 山上によれば日本各地の岬を歩きまわってできた総合的なイメージを基に書いたということであるが、神奈川県三浦市では三浦半島がモデルであると信じられており、山上も「三浦の人たちに愛され、この歌は幸せですね」と述べている。
現在は京急三浦海岸駅の電車到着メロディーに採用されている

山本コータロー/岬めぐり(レコーダー:見崎孝雄、1974年)



イントロが印象的な日本のフォーク【その2】

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 前作・イントロが印象的な日本のフォークは、1回で終わるつもりだったが、積み残しがあったので追加することにした。

ハーモニカ

イメージ 3 子供の頃音楽が不得意で、学校の成績も悪かった。言い訳がましくなるが、小学校3年生のとき、田舎から町に転校したとき、田舎の授業が遅れていて、音楽の授業で先生が音階のことを説明しているが何のことかさっぱり分からなかった。
 
 以来、「おたまじゃくし」(音符、)が大の苦手となった。実は今でもよく理解していない。

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 ハーモニカ(写真)は、1970年代頃まで日本の小中学校で教育楽器としても用いられた。その練習の時間が大嫌いで、
いまでも思い出したくないほど苦い記憶である。
 
しかし、ハーモニカについて調べてみると、どうやら違う問題もあったようだ。教師もハーモニカの教育を受けたわけではないため、生徒に対する指導が困難だったという。

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 その問題を解決するため、教育楽器としてハーモニカは、鍵盤付きハーモニカ(写真)(ヤマハの「ピアニカ」、鈴木楽器製作所の「メロディオン」など)に取って代わられた。 
 
 そして、鍵盤付きハーモニカは鍵盤楽器の需要に繋がり、同じようにリコーダーは管楽器への移行に繋がったが、ハーモニカはその後が続かず、子供のおもちゃ程度に思われていた時代もあった。それが、今やいろいろなジャンルの音楽に使われている。

 ハーモニカを使いこなす日本のフォークシンガーは多い。

 写真左よりシバ(69歳)、岡林信康(72歳)、遠藤賢司(2017年、70歳で没)、井上陽水(70歳)、友部正人(68歳)など、

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 そして、
吉田拓郎(72歳、写真左)と長渕剛(62歳、写真右)。二人の代表曲の一つで、自ら演奏するハーモニカがイントロの曲を。

 なお、吉田拓郎は、『祭りのあと』や、『シンシア』などでもハーモニカを演奏している。

吉田拓郎/旅の宿(1972年)
 

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 この曲を作詞した岡本おさみ(2015年、72歳で没、写真左)によると、名曲「旅の宿」は、彼が27歳のとき自分の新婚旅行で青森の奥入瀬渓流のそばにある温泉宿「蔦温泉旅館」(写真右)に泊まった一夜の情景をそのまま詞にしたもので、70万枚を売る大ヒット作品となった。

 そのおかげで当時、ハーモニカが爆発的に売れたという。  
 
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 その宿には今も年に十数組の拓郎ファンが、彼が泊まった10畳一間の和室「66号室」を指定して来るそうだ。

 「旅の宿」の後、彼は「ラジオ局と家の往復ばかりで外界を知らない。これで詩は書けないと思い」と、20日旅に出て10日自宅にいる生活を始め、それが3~4ヶ月のつもりが3~4年も続いたという。

 そして、旅先で作った詩は、あの名曲「落陽」「襟裳岬」になったという。

吉田拓郎/旅の宿(1972年)


長渕剛/巡恋歌(1978年)

 「巡恋歌」は、不遇だった長渕剛の再起をかけたファーストシングル(通算2枚目)。

 その再起の一曲は、ヤマハポピュラーミュージックコンテスト(ポプコン)の九州大会で優勝し、静岡県のつま恋で行われた本選会でも入賞し、ヤマハ側から絶賛され、やっと認められた。そして、彼のデビュー以降のライブでもほとんど欠かさず演奏されている。

 ライブではオリジナルと違い、バックバンドなし、ギターとハーモニカだけで歌う。特にエンディングへ向けてハーモニカを激しく吹きながらギターをハイスピードでかき鳴らすシーンは、長渕ライブの見どころの一つとなっている。 

長渕剛/巡恋歌(1978年


 長渕剛のヒット曲では、こんな楽器もイントロで使っている。 

ケーナ

 ケーナ(写真)は南米アンデスの音楽「フォルクローレ」で欠かすことのできない楽器

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左から、ケーナ、サンポーニャ、チャランゴ、ボンボ、タルカ

 「GOOD-BYE青春」は、長渕本人も出演したテレビドラマ『家族ゲーム』(1983年、TBS系列)主題歌として使用された。

長渕剛/GOOD-BYE青春(1983年)



オーボエ

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 オーボエ(写真)は、木管楽器の一つで、上下に組み合わされた2枚のリードによって音を出すダブルリード式の楽器(複簧管楽器)である。
 
  オーボエの魅力は、何と言ってもその独特の音色にある。ゆったりとした曲における哀愁を帯びた丸い甘美な音色、または軽快な曲における軽やかで華やかな存在感のある音色、どちらをとっても素晴らしいものがある。

 「耳をすましてごらん」は、NHKの連続テレビ小説『藍より青く』(1972年4月3日~1973年3月31日、画像)の主題歌である。脚本を担当した山田太一が作詞を、音楽を担当した湯浅譲二が作・編曲を。田路津子が歌い、21万5千枚を売り上げ、すでに『秋でもないのに』『ひとりの手』をリリースしていた彼女にとって最大のヒット曲となった。

 ここでは、オーボエの存在はそんなに大きくはない。田路津子の歌はYouTubeでは思ったのが見つからなかった。ここでは、その18年後に南野陽子がカバーした曲を。これは、原曲をあまりアレンジしていない。

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 『藍より青く』
は、太平洋戦争末期から敗戦後にかけての、熊本県天草が舞台。
 
 ヒロインの真木洋子(2000年、51歳で没、写真)演じる真紀は、厳格な校長である父に反対されながらも網元の息子周一大和田伸也と結婚するが、長男が生まれる前に夫は出征、そのまま帰らぬ人となる。周囲に支えられながら、真紀は戦争未亡人同士で商売を始め何事にも負けず強く明るく、中華料理店を経営するまでを描いた。 

 平均視聴率は47.3%、最高視聴率は53.3%であった。(関東地区、ビデオリサーチ調べ)

南野陽子/耳をすましてごらん(1972年)
 

口笛
 
 「口笛は楽器ではない!」と叱られそうだが、そんなこと言わずに聴いて下さい。

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 デビュー曲の「秋でもないのに」は、元々ラジオ番組「バイタリス・フォークビレッジ」でギタリストの石川鷹彦(75歳、写真)が歌う今月の歌だった。

 その彼が、ハルミラフォークコンテストの審査員をしていたとき、1970年に彼女がジョーン・バエズ「シルキー」を歌って優勝したのをきっかけに、この曲でプロデビューした。

本田路津子/秋でもないのに(1970年)

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 本田路津子(69歳、写真)は、元フォークシンガー、現ゴスペルシンガー。

 両親がキリスト教徒だったので、路津子の名前は、旧約聖書の「ルツ記」に由来する。大学在学中は聖歌隊に所属していた。

 森山良子と並んでカレッジフォークの第一人者として活躍した。

 自分は、彼女が日本で一番美しい声の歌手だと思っている。

 人生の途中から、彼女の歌う歌は賛美歌になったが、惜しい歌手を失い、とても残念だ。

 最後に、大好きなこの曲もどうぞ。

本田路津子/一人の手


イントロが印象的な日本の歌謡曲【その1】鍵盤楽器編

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  前々作・イントロが印象的な日本のフォーク【その1】では、次の楽器を紹介した。

 写真左より、オートハープ、ヴィブラフォン、トランペット、オカリナ、フルート、リコーダー

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 前作・
イントロが印象的な日本のフォーク【その2】では、口笛も楽器の一つと考え、次の通りだった。

 写真左より、ハーモニカ、ケーナ、オーボエ、口笛

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 今回は、2回に分け、イントロが印象的な日本の歌謡曲と題して、次の楽器で始まる曲を紹介したい。

 【その1鍵盤楽器写真左より、マリンバ、ピアノ、チェンバロ、パイプオルガン

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 その2管楽器写真左より、クラリネット、サックス、ホルン

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マリンバ

 マリンバは、ピアノと同様の配列をした木製の鍵盤をマレットと呼ばれる枹・ばちでたたいて演奏する。
 
 元々はアフリカ起源の民族楽器だが、現在の形のマリンバが生まれたのは、19世紀後半、中米のグアテマラであると言われている。
 
 それがアメリカ大陸に持ち込まれ、20世紀に北米シカゴを拠点に近代的な改良が図られた。まずポピュラー音楽に使われ、芸術音楽、クラシック音楽でも用いられるようになり、同時に世界に広がっていった。  

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シロフォンとの違い

 同じ木琴の一種であるシロフォン(写真)と同様の構造であるが、シロフォンよりも鍵盤が広く厚く造られており、深みのある音色を表現できる。
 
 さらに、鍵盤の下部に各音階によって長さを変えた共鳴用の金属管が設けられており、その下端を閉じることにより、鍵盤の音に共鳴し増幅させる。それにより、さらに豊かな音色となる。 

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マリンバ発展の母

 ところで、日本で「マリンバ発展の母」といえば安倍圭子さん(現在81歳、写真)。40年以上前、マリンバの音域は4オクターブで、マリンバの曲もそれほど多く無かった。現代のようにソロ楽器として認められるようになったのは、日本のマリンバ奏者、安倍圭子さんのおかげであり、世界中で演奏会やレッスンをしながらマリンバの素晴らしさを広め、ヤマハとともに新しいマリンバの開発を手がけた人で、現在5オクターブの楽器があるのも、もっといろんな曲が弾きたいという彼女の想いが強かったからという。(YAMAHA楽器解体新書参照) 

坂本九/上を向いて歩こう

 1963年6月、日本のポップスが米国の「ビルボード・ホット100」(シングル人気チャート)で3週連続1位に輝いた。それから半世紀を経た現在も、チャート1位を獲得した日本の歌は、この『SUKIYAKI』(上を向いて歩こう)だけである。

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 皮肉なことに、作詞を手がけた永六輔(2016年、87歳で没、写真)は、日本政府が在日米軍を優遇する条約に屈したことへの嘆きを込めてこの詩を書いたという。

 彼は1933年、東京の寺の住職の息子として生まれた。第2次大戦中は学童疎開で地方へ疎開し、そこで終戦を迎えた。自身の戦争体験から、生涯を通じて平和主義を掲げ、反戦を貫いた。2016年夏に83歳で死去する直前まで、ラジオの人気パーソナリティーとして活躍。戦争の放棄を宣言する日本国憲法第9条を守ろうと訴え、改憲派を批判しつづけた。

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 『上を向いて歩こう』は、1960年に日米安保条約が締結され、安保闘争デモで女子大学生(樺美智子写真左)が命を落とし、社会主義政党の指導者(社会党委員長:浅沼稲次郎写真右の右)が17歳の右翼青年(山口二矢(やまぐちおとや)、写真右の左)に銃剣で暗殺されるーそんな暗い政治的事件が続いても、生まれたばかりの息子のために顔をあげようという永六輔の決意だった。

 そういう経緯を知っていれば「♪~上を向いて歩こう 涙がこぼれない様に~♪」という歌詞の意味合いも変わって聴こえてくるだろう。

坂本九/上を向いて歩こう(1961年)


ピアノ

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 世界中で愛されているピアノ(写真)は、「楽器の王様」と呼ばれている。歴史はとても長く、300年以上もあるといわれている。

「楽器の王様」と呼ばれている理由は5つある。

 1.音域がとても広い 2.多様に出せる音色 3.音量を自由に変えられる  4.同時にたくさんの音が出せる  5.独奏も合奏もできる

松任谷由美/春よ、来い

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 「春よ、来い」は、NHK連続テレビ小説の第52作の同名の番組の主題曲。

 松任谷由実ユーミン、64歳、画像)自身のシングルとしては『真夏の夜の夢』『Hello, my friend』に続いて3番目に売れたシングル。

 2018年現在、シングルの中では本作が最後の1位獲得とミリオンセラーである。
 
 テレビは、1994年10月3日~翌1995年9月30日に放送された、NHK放送開始70周年記念作品。期間平均視聴率は24.7%、最高視聴率は29.4%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)。

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 『おんな太閤記』『おしん』『春日局』『渡る世間は鬼ばかり』などの作品で知られる、原作者・橋田壽賀子(93歳、写真)の自伝小説作品のドラマ化。主人公が大学進学のために単身で上京するところから、脚本家として成功した後、夫の死を見送るまでを描いた。
 
 主演は当初安田成美であったが、太平洋戦争のシーンの後で突如降板し、その後(33歳から64歳まで)は中田喜子が務めた。そのため安田が演じた前半を「第1部」、中田が演じた後半を「第2部」としている。歌は、第1部では1番、第2部では2番が流されていた。(Wkipedia参照)
 
松任谷由実/春よ、来い(1994年) 
 

高田みづえ/私はピアノ

 「私はピアノ」は、1980年に発表されたサザンオールスターズの楽曲。アルバム『タイニイ・バブルス』の4曲目に収録された。作詞・作曲は桑田佳祐。キーボーディストの妻・原由子が初めてリードボーカルを担当した。

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 同年、高田みづえ(58歳、写真)によってカバーされ、最高位はオリコン3位まで上昇し、シングル売上も50万枚近い記録となり、高田の最大のヒット曲となった。

高田みづえ/私はピアノ(1980年)



チェンバロ

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 チェンバロ(写真)とは、弦をはじいて音を出す鍵盤楽器で、18世紀以前に用いられた鍵盤楽器の代表的なもの。

 鍵盤の先端に垂直に立てた木片にプレクトラムと呼ばれる小さな爪がはめこまれていて、鍵盤を押すとその爪が金属の弦をはじいて音を出す撥弦楽器。この点がハンマーで弦を打って音を出すピアノ(打弦楽器とは大きく異なり、全く別種のタッチを必要とする。

 例えば、ベートーヴェン「ピアノソナタ月光」をチェンバロで弾くとこういう感じだ。


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 フランス語ではクラヴサン、英語ではハープシコードと呼ばれる。特にバロック期の音楽家J・Sバッハ(1750年、65歳で没、画像)によって、室内楽や管弦楽における独奏楽器として主役の地位にまで高められた。

キャンディ♥キャンディ

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 『キャンディ♥キャンディ』(画像)は、原作:水木杏子(別名:名木田恵子、68歳、写真)、作画:いがらしゆみこによる日本の少女漫画作品。

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 テレビアニメ版の同名主題歌は「アニメソングの女王」の異名をとる堀江美都子(61歳、写真)が歌い、120万枚を売り上げた。

 原作やアニメの内容は知らないが、主題歌だけは知っているという人も多い。
 
堀江美都子ザ・チャーブス/キャンディキャンディOPテーマ曲(1977年)



パイプオルガン

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 たくさんのパイプを持つ巨大な楽器がパイプオルガン(写真)だ。

 その始まりは、アシを1列に並べた笛「パンパイプ」だといわれている。パイプオルガンが楽器として完成されたのは18世紀で、ちょうどドイツではJ・S.バッハが活躍した時代と重なる。19世紀以降はオーケストラ音楽の時代の流れとともにパイプオルガンは、コンサートホールに設置されるようになった。

荒井由実/翳りゆく部屋

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 「翳りゆく部屋」
は、松任谷由実写真)の荒井由実時代のラストシングルである。

 イントロにバロック調のパイプオルガンを使った、イギリスのロック・バンド、プロコル・ハルムのデビュー曲「青い影」(A Whiter Shade of Pale)(1967年)に似ている。

 そのパイプオルガンは目白にある「東京カテドラル教会」の初代のもの(現在使われているのは2代目。2004年に完成)を使っている。もともと別の詞がついた「マホガニーの部屋」という曲があったが発売は見送られていた。

 ユーミンは、この曲をきっかけに音楽を自作するようになったそうだ。

荒井由実/翳りゆく部屋 (1976年) 


イントロが印象的な日本の歌謡曲【その2】管楽器編

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 前作の「鍵盤楽器」に続き、今回は「管楽器」編を。早速、行ってみよう。

クラリネット

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 クラリネット(写真)は、消え入るような弱音から華やかな強音まで多彩な音を出すことが出来る楽器。
 
 音域がとても広く、高い音域ではオーボエとフルートを合わせたような丸い音色を得意とする一方、低い音域では暗く太い音を持っている。
 
 吹奏楽、オーケストラ、ジャズと広く親しむことができる楽器なので、様々なジャンルの音楽が好きな人にお勧めである。
 
八代亜紀/舟歌

 「舟唄」といえば、もう大分前に亡くなったが、故郷の広島県呉市のスナックで義父が歌ったシーンと、次の歌詞を今も思い出し、しんみりとしてしまう。

<歌詞>

 お酒はぬるめの燗がいい 肴はあぶった イカでいい 女は無口な人がいい 灯はぼんやり ともりゃいい しみじみ飲めば しみじみと 想い出だけが 行き過ぎる涙がポロリと こぼれたら 歌いだすのさ 舟歌を
 
 沖の鴎に 深酒させてョ いとしあの娘とョ 朝寝するダンチョネ
 
 店には飾りが ないがいい 窓から港が 見えりゃいい はやりの歌など なくていい ときどき霧笛が 鳴ればいい ほろほろ飲めば ほろほろと 心がすすり 泣いている●サックス

 お酒が好きで、妻の実家に帰るたび、いつも朝から酒盛りだったが、とてもいい義父だった。

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 しかし、当の八代亜紀(68歳、写真)は、「お酒はぬるめの燗がいい」「肴はあぶったイカでいい」というものの、どうやら全くの下戸のようだ。

 彼女は、芸名の通り熊本県八代市出身。地元の中学卒業後、地元熊本のバス会社九州産業交通(現:九州産業交通ホールディングス)のバスガイドとして勤務していたが、15歳で父親の反対を押し切り上京。銀座のクラブ歌手となり、スタンダードやポップスなどを歌った。
 
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 1971年にテイチクより「愛は死んでも」でデビュー。

 読売テレビのオーディション番組『全日本歌謡選手権』(画像)に出場して10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンとなる。

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 1973年に「なみだ恋」が120万枚とヒットした後トラック運転手から“トラック野郎の女神”として絶大な支持を得るようになり、「八代観音」と呼ばれる、八代の顔を模した観音の絵が描かれたトラックが出現した(画像左)。これがきっかけとなり、1977年に当時大ヒットを飛ばしていた菅原文太愛川欣也主演の東映映画『トラック野郎・度胸一番星』に女ダンプ運転手「紅弁天」役で出演し、八代の曲「恋歌」が挿入歌として起用された。 (画像右)

 その後も「しのび恋」「愛ひとすじ」「おんなの夢」「ともしび」「花水仙」「もう一度逢いたい」「おんな港町」「愛の終着駅」など、女心を歌った歌で次々とヒット曲を連発するが、1979年に新境地を開拓した初の男歌「舟唄」が大ヒットし、1980年に発表した「雨の慕情」で日本レコード大賞を受賞する。

 これら2曲は「港町絶唱」と共に阿久悠浜圭介竜崎孝路のコンビによる「哀憐三部作」とされ、NHK紅白歌合戦では2年連続大トリを務めて“演歌の女王”と称された。

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 「舟唄」は、八代亜紀の代表作であるが、阿久悠(2007年、70歳で没、写真)作詞の本曲を初めて八代が聴いた時、最初のフレーズを聴いただけで「必ずヒットする」と直感したという。過去に阿久と『街の灯り』(歌・堺正章)を創作して以降、作曲家として起死回生を狙っていた浜圭介が曲を付けた。

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 1981年に製作された映画『駅 STATION』降旗康男監督/東映)の劇中では、居酒屋で高倉健倍賞千恵子が見ている紅白で八代が「舟唄」を歌う場面が挿入されている。(画像) 


八代亜紀/舟歌(1979年)


西田佐知子/赤坂の夜は更けて

 この曲もイントロがクラリネットだね。懐かしい曲。

西田佐知子/赤坂の夜は更けて(1965年)


サックス(サクソフォーン)

イメージ 8 とにかく、サックス(写真)のソロはカッコいい。

 そのサクソフォーンは1840年にベルギーのアドルフ・サックスによって考案された。木管楽器と金管楽器との中間の音色を持ち、弦楽器のようなヴィブラートで奏される柔らかい音質は、かなり質の悪い音も耳あたりよく変質させる力を持つ。その機能的なメカニズムとともに19世紀最高の発明品のひとつとして数えられている。

テレサ・テン/スキャンダル(1986年)


美川憲一/新潟ブルース(1967年)


内山田洋とクールファイブ/逢わずに愛して(1969年)



内山田洋とクールファイブ/噂の女(1970年)



 *次に紹介する曲はインスツルメンタルの曲で、歌謡曲ではありません。

ホルン

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 樋口哲生「うまくなろう ホルン!」(音楽の友社)(写真右)を読むと、こんなことが書かれてある。
 
 ホルン
(写真左)を吹くと幸せになります
 
 まず数ある楽器の中からホルンを選んだ諸君は、その瞬間から幸せなのです。なぜなら、ホルンは、管楽器の中でもっとも美しい音色と音質を持っている楽器なのですから。
 
 その楽器を演奏するということは、すなわちあなたの人間性も美しく豊かになっていきます。しかし、それにはやはり試練があるのです。といっても、そんなに硬くなることはありません。及ばずながら私が諸君の力になりたいと思っています…。

 Wikipediaによると、ギネス・ワールド・レコーズで、The American Music Conferenceの発表を引用して、ホルンが世界で一番難しい金管楽器であるとして掲載されたそうだ。

玉木宏樹/大江戸捜査網オープニング・テーマ曲(1970年)


冨田勲/NHK「新日本紀行」テーマ曲 祭りの笛(1969年)


 「新日本紀行」は、1963年から1982年まで18年半続いたNHK総合テレビで放送されたテレビ番組。制作本数は計793本にのぼる。
 
 日本で初めての本格的な紀行番組でNHKアナウンサーが日本各地の原風景を訪ね、それにナレーションやインタビューを加えるという体裁を取り入れた。
 
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 ホルンと、拍子木(写真右)の音が印象的なテーマ曲は、『展覧会の絵』『火の鳥』(1975年)、『惑星』(1976年)の作曲など、シンセサイザー音楽の第一人者・冨田勲が(2016年、84歳で没、写真左)が作曲した。


イントロが印象的な日本の歌謡曲【その3】トランペット編

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 2回に分け、イントロが印象的な日本の歌謡曲と題して、鍵盤楽器と管楽器で始まる曲を紹介した。

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 トランペット(写真)は管楽器に属するが、対象曲が多すぎたのと、その前にイントロが印象的な日本のフォークで、すでに紹介していたので、どうしょうかと迷っていたが、【その3】として追加することにした。

トランペット

 特に日本のムード歌謡には、トランペットの前奏が流れる曲が多い。

ムード歌謡

 ムード歌謡とは、昭和30年代~昭和40年代(西暦でいうと、1955年~1974年)に全盛を誇った、歌謡曲の1ジャンルで、曲調からは演歌ともいえず、むしろラテン、ハワイアン、ジャズなどの洋楽的要素を取り入れて、大人の雰囲気を漂わせたような作品を指す。コーラスを主体としたものをムードコーラスと呼ぶことがある。
 
 ムード歌謡にはいくつかのパターンがある。
 
(1)コーラス・グループ(2)石原裕次郎、フランク永井など、特定の歌手
(3)いわゆる「ご当地ソング」(4)「~ブルース」「~の夜」 (3)と(4)が重なっていればほぼ「鉄板」(5)男女デュエット曲

 上記の(3)と(4)にあるように、ご当地ソングに多い「~ブルース」とか、「~の夜」という曲のほぼ全てはムード歌謡だ。

 ここでの「ブルース」は、本来のブルースとは違い、「憂鬱(Blue)な気持ちを歌った曲」という意味合いが強い音楽である。

 ちなみに、「ブルース」という名のつくご当地ソングは、下図の通り。

 北から稚内、旭川、札幌、中の島(札幌)、すすきの(札幌)、函館、秋田(川反)、盛岡、新潟、香林坊(金沢)、前橋、北埼玉、東京、新宿(東京)、歌舞伎町(東京)、山谷(東京)、銀座(東京)、渋谷(東京)、三鷹(東京)、横浜、伊勢佐木町(横浜)、長者町(横浜)、釜利谷(横浜)、本牧(横浜)、熱海、糸川(熱海)、城ヶ崎(静岡)、柳ヶ瀬(岐阜)、名古屋、東新町(名古屋)、京都、加茂川(京都)、大阪、宗右衛門町(大阪)、道頓堀(大阪)、三ノ宮(神戸)、広島、芦田川(広島)、博多、玄海(福岡)、長崎、思案橋(長崎)、西海(佐世保)、奄美大島、沖縄など。

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 「~の夜」は、釧路(美川憲一)、帯広(山本ひろし)、池袋(青江三奈)、熱海(箱崎晋一郎」)金沢(都はるみ)、長崎(瀬川瑛子)などだ。

森進一/港町ブルース

 「港町ブルース」の作詞は、雑誌『平凡』により募集された歌詞になかにし礼が補作、猪俣公章(1993年、55歳で没、写真)が作曲した。 

 歌詞中には北海道函館市を皮切りとして、鹿児島県枕崎市まで日本列島を南下するように多くの港町が登場している。(下図)

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 またその町々に港湾があるのみでなく、函館、宮古、釜石、気仙沼、八幡浜、枕崎には「港町」と名の付く町名が実在する。
 
 発売されて2週間余りでオリコンチャートのベストテンに初登場し、5週間にわたり第1位にランクされるなど、森進一(71歳、写真)のシングル盤では最高の売上を記録。250万枚と言われるミリオンセラーとなった。(Wikipedia参照)

 *奇しくも本日、11月18日が森進一さんの誕生日。おめでとうございます。

伍代夏子他/港町ブルース(1969年)


平和勝次とダークホース/宗右衛門町ブルース(1972年)


秋庭豊とアローナイツ/中の島ブルース(1973年)


西田佐知子/アカシアの雨がやむとき

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 西田佐知子(79歳、写真)の「アカシアの雨がやむとき」(1960年)が支持された背景として、「日米安保闘争」と関連付けて語られることが多い。
 
 1960年1月の「日米安保条約」調印を発端とした安保闘争後、反対運動の成果ゼロという結果に疲れた若者たちが西田佐知子の乾いたボーカルと廃頽的な詞に共鳴し、歌われたことで広まっていった、というものである。
 
 そのため、テレビ番組では当時の世相を反映する楽曲として、安保闘争(とりわけ樺美智子死亡による抗議デモ)の映像のバックで流れることがある。
 
西田佐知子/アカシアの雨がやむとき(1960年)


西田佐知子と関口宏

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 彼女のご主人は、TBS・サンデー・モーニングの司会でおなじみの関口宏(75歳、写真)。彼は5歳年下だが、1970年から始まったフジテレビの人気番組「ラブラブショー」で猛烈にアタックの上、彼女を射止めたようだ。
 
 そして、1982年発売の「テレビを見ている女」を最後に、専業主婦になった。
 
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 ちなみにラブラブショーでカップルになったのは、この他、郷治・ちあきなおみ夫妻(1992年、死別)、三浦友和・山口百恵夫妻、石坂浩二・浅丘ルリ子夫妻(2000年に離婚)、三條正人・香山美子夫妻(2017年死別)、千昌夫・ジョーン・シェパード夫妻(1988年に離婚)、井上順・青木エミ夫妻(1982年に離婚)、和田浩治・梓みちよ夫妻(1971年に離婚)と、錚々たるメンバーだ。(Wikipedia参照)

 ところで、彼女が歌手として活躍していた頃から30年以上経っているので、もう若い人は知らないだろうが、この曲だけは聴いたことがあるのではなかろうか。

 「やっぱり俺は菊正宗」(作詞:永六輔・作曲:中村八大)は正式タイトルが「初めての街で」という曲だが、1975年にCMで使って以来、長い間西田佐知子の歌で親しまれてきた。これもイントロでトランペットの音色が活躍している。
 
西田佐知子/初めての街で(1979年)


園まり/逢いたくて逢いたくて

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 「逢いたくて逢いたくて」は、岩谷時子作詞・宮川泰作曲。園まり(74歳、写真)の代表曲のひとつ。
 
 1966年にリリースされ、空前の大ヒットとなり、同年、6月には彼女自身も歌手役で出演する同名タイトルの日活制作の映画が上映された。
 

 原曲はザ・ピーナッツの7枚目のシングル「手編みの靴下」(1962年)で、作詞者の岩谷時子が新しい歌詞をつけたリメイク版であるが、その曲は平野愛子「港が見える丘」がベースとなっている。

 その後「夢は夜ひらく」「何んでもないわ」「愛は惜しみなく」と、たて続けに大ヒットを飛ばし、園まり節と呼ばれる甘く囁くように歌う独特の歌唱法で、一世を風靡した。 

 1966年~1967年、マルベル堂のブロマイド売り上げ女性歌手第1位にもなったことがある。

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 スパーク3人娘(写真)は、中尾ミエ(72歳、写真左)、伊東ゆかり(71歳、写真中央)、園まり(写真右)の渡辺プロ所属の3人組。

  1990年代に一時、芸能界を退いていて、伊東ゆかりによると、園まりは再結成には難色を示していた。渋る彼女にメールやファクスで、6年がかりでくどき、40年ぶりの2004年に再結成。2005年より「3人娘 Again Dream Concert Tour 」と称して全国ツアーを展開している。
 
 2017年8月5日放送の第49回「思い出のメロディー」で3人娘としては最後のTV出演で見納めになると発表されていたが、放送当日のステージ内のトークでリーダの中尾が『直ぐに撤回(TV出演)するかも(笑)』と語っていたという。 (Wikipedia参照)

園まり/逢いたくて逢いたくて(1966年)


西郷輝彦/星のフラメンコ

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 「星のフラメンコ」は、西郷輝彦(71歳、写真)の代表曲。1966年にシングルが発売された。

 西郷は1966年2月にヨーロッパを旅行した際、スペインの首都マドリードで鑑賞したフラメンコに感動し、本人曰く「猛烈なリズムにシビレてしまった」。洋行から帰国した西郷が、挨拶で訪れたソングライターの浜口庫之助邸にて、本場のフラメンコを観た感動をそのまま話すと、浜口はちょうどそのころ西郷の新曲を制作する準備に入っていたことを明かし、両人とも新曲をフラメンコのリズムで制作することで意見が一致し、浜口の作詞・作曲により曲が完成。西郷の代名詞ともいうべき曲となった。

 同年、日活が西郷を主演に本曲をモチーフにした映画『遙かなる慕情 星のフラメンコ』(監督・森永健次郎、脚本・倉本聰、1966年)を製作し、全国ロードショー公開している。

西郷輝彦/星のフラメンコ(1966年)


テレサ・テン/空港

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 「アジアの歌姫」テレサ・テン(Teresa Teng、1995年、42歳で没、写真
)という名前は、1974年に日本でデビューした時名乗ったアメリカ風の芸名である。本名は麗筠(デン・リーユン)というが、中国語の芸名は麗君である。 北京語の発音では「デン・リーチュン」、広東語発音で「ダン・ライグァン」という。台湾の出身だが、両親は大陸出身のいわゆる「外省人」である。父親は国民党軍の陸軍中尉だった。

 彼女自身生前軍隊への慰問活動を熱心に行っていたこともあり、台湾では「軍人の恋人」というニックネームがついていた。

 文化大革命(1966年-1976年)や天安門事件(1989年)にも出会い、民主化運動のシンボルとして奉られる一方、中国共産党からも利用され、「二つの中国」のはざまに翻弄された人生だった。

 日本での活動は、1979年、日本入国の際に違法の手続きで取得したインドネシアのパスポートを使用したことが発覚、国外退去処分になったときを挟んで、前半と後半に分かれる。

 前半は1974年、既に台湾や香港で成功をおさめていたので交渉は難航したが、当時の日本ポリドールレコード制作部長の舟木稔の熱意が実り、「今夜かしら、明日かしら」という曲でデビューを果たした。

 次作、「空港」が大ヒット、日本レコード大賞新人賞を獲得、このヒットにより彼女の名前は日本全国に知れ渡った。

 後半は、国外退去から5年後の1984年再来日から、1987年に住居を香港に移すまでの3年間。

 レコード会社をトーラスレコードに移籍、日本でリリースした「つぐない」「愛人」がそれぞれ150万枚、「時の流れに身をまかせ」が200万枚を売る大ヒットとなる。

テレサ・テン/空港(1974年)


「指差し」は失礼に当たるか

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 11月7日(水)のことだから、もう2週間近く前の国会(参議院予算委員会)の出来事である。

 「人に指を指す行為」が無礼であるかどうかについては、例えば、野党議員に指差しするなと言う人間が指差し常習者と言う笑えない話(まるこ姫の独り言)など、既に多くの議論がなされているので、今更参戦することもないかと躊躇していた。

 先に言っておくが、自分は「人に指を指す行為」はあまり好ましいことではないと思っている。

 実はすぐにブログに投稿しようと思ったのだが、なかなか重い腰が挙がらない。その内、あれよあれよという間に、多くの人が自分と重なる思いを述べておられていたので、発言の機会を失っていた。

 改めてそのときの記事を振り返ってみよう。


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 麻生太郎副総理兼財務相(78歳、写真右)が7日の参院予算委員会で、同氏を指さしながら質問した共産党の小池晃書記局長(58歳、写真左)に対し「人を指さすのはやめた方がいい。無礼だから」と怒りをあらわにする一幕があった。

 小池氏は「その言い方の方が無礼」と応戦。麻生氏は引き下がらず「そうかね。指さす方が無礼なんじゃないの」と言い返した。

 激しい応酬は、小池氏が、富裕層に対する金融課税の強化が必要とただした際に起きた。

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 この日の予算委では安倍晋三首相(64歳)も、拉致問題を質問した立憲民主党の有田芳生氏(66歳、写真)に「いちいち指をさされなくても分かっている」といら立つ場面があった。

 このやりとりをテレビで見ていて、すぐに二つのことが目に浮かんだ。

いつか見てきた構図

 一つは、待てよ、これって何度も見たことがある構図だ。自分たちの指差しは良くって、野党はダメだと言っている。「人のフリ見て我がフリ直せ!」と言うことではないの。どこまでも厚顔無恥な人たちだ。

 その証拠は、他の方のブログで同じ写真が何度も紹介されている。

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 よく覚えているのは、安倍首相が、「日教組!日教組!」と叫んで指を差したこと。もう一つは東京・秋葉原での選挙応援で、抗議する聴衆に向かって「こんな人たち」と指を差して誹謗したことだ。

 首相の自席からのヤジは前代未聞だと思うが、あろうことか、「日教組!日教組!」と叫んだ不規則発言を、マスコミは忖度して、「自席発言」という新語を使った。
海援隊/母に捧げるバラード

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 もう一つは、武田鉄矢(69歳、写真の中央)率いる、海援隊の楽曲で、武田が母・イクに向けた詫び状を歌にした『母に捧げるバラード』(1973年)の中のセリフだ。

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 武田鉄矢の母・イク(1998年、78歳で没、写真の左)は生活苦を乗り越え、進駐軍兵士のハウスメイド、タバコ屋、クリーニングの取次ぎなどのかたわら、二男三女を育て上げた名物肝っ玉母さんだ。

 その歌の中のセリフはこうだ。この映像では4分17秒のところ。

 ~待て!待て、鉄矢、また人ば指差して笑ろうて。人ば指差して笑ろうたらつまらん。人ば指差して笑う指のかたちば、よーと見てみろ。二本はその人差しとるが 、あとの三本は自分差して笑いよるとぞ、そげな事もわからんのか。はよ、学校行ってこんか、このバカチンが !~


 ここで、「二本」というのは、親指人差し指だ。

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 人を指し示す際に使われる指だから「人差し指」(写真)と呼ばれているはずなのに、何故「人差し指」で人を指す行為が無礼とされるのか、不思議な気もするが、こんな記事があった。


 冒頭の文章に「人に指を指す行為は無礼とされていますが、なぜそう思われるのか、明確な理由はあまり知れ渡っていないようです。自分は魔女が悪い魔法を掛けるために云々、という説を信じ込んでいたのですが、諸説あるようなので調べてまとめてみました」とある。

 結論的に言うと、「ワンアップポジションの形成」と呼ばれ、指をさされた相手は、本能的に自分が見下されていると感じ、イヤな印象をもってしまう』ということにあるようだ。
失言王「麻生節」

 それにしても麻生氏の失言は後を絶たない。それを「麻生節」と容認する向きもあるようだが、麻生氏のヒトラー発言が影響か、開かれない日米経済対話(11/9、朝日新聞デジタル)と、重大な国際問題になることもあり、笑ってばかりでは済まされない。

 森友・加計問題で責任を取らない麻生氏に対して、「麻生氏は辞任を」 市民団体が署名1万699人分提出(11/9、朝日新聞デジタル)があり、11日には日比谷公園で麻生太郎辞任呼びかけのデモ行進が行われた。

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 最近では、17日の福岡市長選挙のため同市内で街頭演説した際、自分は私大の学習院大学卒という理由からか、東大卒の北橋健治北九州市長(65歳、写真)を「人の税金を使って学校に行った」と批判したことについて非難が集まっている。

 上西小百合、麻生財務相に「失言レベルじゃない」(11/19、日刊スポーツ)の「失言レベルじゃない。国の将来設計ができてない」という記事もあった。

 その麻生氏は副総理として最長記録を更新中だ。兼任の財務相も戦後1位である。

イメージ 10 現在、国会では片山氏桜田氏などの閣僚としての資質が問われ紛糾しているが、いまだに辞任する気配がない。

 それも、麻生氏の果たした役割(!)が大きい。

 今は、政治家がどんなことを言っても、どんなに低レベルでも許される由々しき状況にある。

 世の中に与える悪影響はとても大きいと思う。



「打楽器」と「弦楽器」をイントロで使っている日本の曲

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楽器の分類

 これまで下記の通り、日本の曲のイントロで使ってきた楽器を6回紹介してきた。

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 楽器の種類は「管楽器」「打楽器」「弦楽器」に分けられると思っていたが、Wikipediaによると、どうもそれは正確ではないらしい。
 

 管楽器の「管」は楽器の形態による分類、弦楽器の「弦」は音を出す振動体による分類、打楽器の「打」は音を出す方法による分類である。つまりこの楽器分類法は、一貫した分類基準に基づくものではないのだ。

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 だから、例えば、ピアノ(写真)は、打楽器でもあり、弦楽器でもある。それで「打弦楽器」だとか、「鍵盤楽器」という。

 現在は、ザックス=ホルンボステル分類をもとに、体鳴楽器・膜鳴楽器・弦鳴楽器・気鳴楽器・電鳴楽器の5つに分類するのが一般的とあるが、名前からしてとても分かりにくい。

 それで、「管楽器」「打楽器」「弦楽器」「鍵盤楽器」という分類でこれまで紹介した楽器を分類してみたい。

■「管楽器」…クラリネット、サックス、ホルン、トランペット、オカリナ、フルート、リコーダー、ハーモニカ、ケーナ、オーボエ
「打楽器」…ドラムス
「弦楽器」…オートハープ
■「鍵盤楽器」…マリンバ、ピアノ、チェンバロ、パイプオルガン、ヴィブラフォン

 これを見ると、明らかに「打楽器」「弦楽器」が少ないことが分かる。

 楽器の紹介も疲れてきたので、そろそろシリーズも終わりにしようと思っていたが、最後に、その「打楽器」と「弦楽器」をイントロで使っている日本の曲を紹介していきたい。

打楽器

 ポピュラー音楽では、ドラムセットに組み込まれるドラムスティックを使用する「打楽器」以外をパーカッション(Percussion)と呼ぶ。。そして、ドラマーと分けて、パーカッションの演奏家をパーカッショニストと呼ぶが、ドラマーと兼ねている者も多い。

パーカッション一覧

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ボンゴ・コンガ

西郷輝彦/願い星叶い星(1967年)


坂本スミ子/夜が明けて(1971年)


 <和楽器から>

鼓(つづみ)

細川たかし/浪花節だよ人生は(1984年)


石川さゆり/天城越え (1986年)


弦楽器

 弦楽器はオーケストラの花形。一番中心の位置で活躍する。

弦楽器一覧

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ヴァイオリン

さだまさし/精霊流し(1974年)


ギター

かぐや姫/赤ちょうちん(1974年)


石原裕次郎/北の旅人(1987年)


 <和楽器から>

箏(琴)

デュークエイセス/女ひとり(カラオケ、1965年)


渚ゆう子/京都慕情(1970年)


津軽三味線

細川たかし/望郷じょんから(1985年)


長山洋子/じょんから女節(2003年)



ブラックフライデー

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 今日の朝刊のチラシ普段より厚かった。

 イオンイトーヨーカドーしまむらAvailRight-onバースデイAOKIと、7社「ブラックフライデー」と銘打ったチラシだった。(画像は昨年のチラシ)

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 ブラックフライデーセールは、大体11月23日(金)~25日(日)のようで、主な開催企業はの通り。


 実は、昨日までこの言葉すら知らなかった。

 ブラックフライデー(英語: Black Friday)とは、小売店などで大規模な安売りが実施される11月の第4金曜日のこと。 今年は本日(23日)だ。

 Wikipediaによると、『アメリカ合衆国では感謝祭(11月の第4木曜日)の翌日にあたり、正式の休暇日ではないが休暇になることが多く、ブラックフライデー当日は感謝祭プレゼントの売れ残り一掃セール日にもなっている。買い物客が殺到して小売店が繁盛することで知られ、特にアメリカの小売業界では1年で最も売り上げを見込める日とされている。また、年末商戦の幕開けを告げるイベントでもある』そうだ。  

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 昨日仕事の帰りがけ、イオンに買い物に寄ると「ブラックフライデー」(写真)という看板を見つけ、ギョッとした。

 「ブラックマンデー」(暗黒の月曜日、1987年10月19日の世界的株価大暴落の開始日)という悪いイメージが重なったからだ。

 「ブラック・サーズデー」(暗黒の木曜日、1929年)というのもあった。

ブラックマンデー(暗黒の月曜日)

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 ブラックマンデーの当日は、ニューヨーク証券取引所のダウ30種平均の終値が前週末より508ドルも下がった。(図)

 この時の下落率22.6%は、世界恐慌の引き金となった、1929年の暗黒の木曜日ブラック・サーズデー、下落率12.8%)を上回った。

 これが翌日アジアの各市場に連鎖。日経平均株価は3,836.48円安(14.90%)の21,910.08円と過去最大の暴落を起こした。欧州の各市場でも機関投資家の売り注文が殺到、世界同時株安となった。イギリス連邦は経済的に解体された。

 しかし、日本はすでに1986年頃に始まっていたバブル景気が更なる膨張を続け、1989年(平成元年)12月29日には史上最高値(38957円44銭)を付けることになり、海外の機関投資家にとって日本株は売り対象ではなく、買収の対象だった。

  日経平均株価は翌日2037.32円高(9.30%)となり、これは上昇幅で当時の歴代1位、上昇率で当時の歴代2位の記録である。金融緩和を続けた日本では、日経平均株価は半年後の1988年(昭和63年)4月には下落分を回復した。(Wikipedia 参照)
ブラック(黒)のイメージ

 以前、「ブラック企業」「ブラック企業・続編」「ブラック研修」という題名のブログを投稿したことがあるが、特に政治経済の分野ではブラックという文字を使った言葉がよくやり玉にあげられ、可哀そうな気がする。

 例えば、「ブラックボックス」「ブラックリスト」「ブラックサイト」…。

 最近では北海道地震で「ブラックアウト」という現象も起きた。

 悪い噂のことを「黒い噂」ともいう。

 ところが、この「ブラックフライデー」は日本語に訳すと、「黒字の金曜日」ということのようだ。

 一方で、黒は、その「黒字」とか「黒帯」「漆黒」など、いい意味に使われることもあり、名誉挽回のため「良い黒(ブラック)【その1】」良い黒(ブラック)【その2】」と特集を組んだこともある。

 「黒」の付いた苗字の有名人も多い。

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ブラックフライデー(黒字の金曜日)

 本題の「ブラックフライデー」に戻ると、Wikipediaによると、この言葉は、『1961年ごろからアメリカ・フィラデルフィアで始まり、1975年にはかなり広まった比較的新しい言葉で、当日は買い物客で道路が混むことからそう呼ばれている。

 名付けたのはフィラデルフィアの警察で、人が外に溢れて仕事が増えるために「真っ暗な金曜日」と呼んだことがきっかけとされる。当初、小売店などはこの言葉に不快感を示して「ビッグフライデー」という言葉を作ったが、一般には「ブラックフライデー」で広まった。その後、フィラデルフィアの新聞が「小売業者が儲かり黒字になる」という解釈を発表してからは、良い意味で使われるようになった』

 そして、『日本でも11月は年末商戦を控えて売り上げが伸び悩むため、消費喚起を狙って、ブラックフライデーのセールが開催されるようになった。2016年には、ノジマイオングループが初めて本格的なブラックフライデーのセールを開催した』 
とある。 

 自分もどこかのお店に顔を出してみたい。

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「黒」が付いた苗字の歌手の歌

沢年男/時には娼婦のように(1977年)

 黒沢年男(74歳、写真)は俳優・歌手。

 1992年に大腸癌が発覚し、それまでアイパーをかけていた頭髪を短く刈り込み(現在はそれに加えて白く染めている)、2008年に膀胱癌の内視鏡手術を行い、その後は無精髭(長さは2mmにそろえている)を生やし、ニット帽を被るようになった。2010年、著書『二流芸能人が、何度がんになっても笑って生きている理由』(講談社刊)を上梓した。 

 「時には娼婦のように」作詞・作曲はなかにし礼なかにしが全曲作詞・作曲・歌唱したアルバム『マッチ箱の火事』がフォーライフから発売され、本曲はこのアルバムからのシングル・カット。

 性的な歌詞できわどい内容であるが、男女間の感情をうまく表現した歌としてヒットし、黒沢盤の累計売上は70万枚に達し、黒沢の歌謡曲における代表作となった。 

黒沢年男/時には娼婦のように(1977年)


摩季/ら・ら・ら(1995年)
 
 大黒摩季(48歳、写真)も大病を患い、休業していた。

 2010年8月24日に13枚目のアルバム「すっぴん」の発表とともに1996年には発覚していた子宮疾患の治療のため、2010年10月末で無期限活動休止を発表した。彼女が闘っていた病気は、重度の「子宮腺筋症」、「左卵巣嚢腫(子宮内膜症性のチョコレート嚢腫)」、「子宮内膜症」、「子宮筋腫」の4つ。10年近く誰にも相談できず、一人で病気に向きあってきたという彼女は「私がこの現状をお知らせすることで同じ病気を持ち、一人で悩み苦しんでいる女性の皆さんの励みやちょっとした参考になって頂ければとも思い公表いたしました」と、病状を公開した真意も明かしている。

 しかし、2015年11月に子宮全摘出の手術を受け、長年患ってきた子宮疾患を完全克服し現在は復帰している。

 「ら・ら・ら」は、10枚目のシングル。テレビ朝日 (ANB)系ドラマ『味いちもんめ』の主題歌となるとともに、ミリオンセラーかつ彼女にとって最大の売上を記録した。

大黒摩季/ら・ら・ら(1995年)
 

歌姫(ディ-ヴァ)【その1】サラ・ブライトマン、セリーヌ・ディオン

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 歌の上手い女性歌手を崇める場合、「女王」(クイーン、Queen)と共に、「歌姫」(ディーヴァ、DIVA)という言葉を使う。

~の女王」

 「~の女王」(2015/9/27)については、拙ブログで紹介したことがある。

 音楽だけに絞っても、こんなにブログで使っていた。それでも、まだまだあるだろう。

 <日本>
・スキャットの女王…伊集加代 
・元祖CMの女王…楠トシエ 
・CMの女王…松田聖子 
・フォークの女王…森山良子 
・バラードの女王…高橋真梨子  
・ムード歌謡の女王…松尾和子  
・ポップスの女王…弘田三枝子   
・タンゴの女王…藤沢嵐子 
・冬の女王…広瀬香美 
・エレジー(悲歌)の女王…菅原都々子 
・ブギの女王…笠置シヅ子 
・ニューミュージックの女王、恋愛歌の女王…松任谷由美 
・失恋歌の女王…中島みゆき  
・海外ご当地ソングの女王…庄野真代 
・歌謡界の女王…美空ひばり  
・チャイナ・メロディーの女王…渡辺はまこ  
・ご当地ソングの女王…水森かおり  
・学園祭の女王第一号…太田裕美 
・ブルースの女王…淡谷のり子
・二代目ブルースの女王…青江三奈 
 
 <海外>

・ユーロの女王…シニータ 
・カントリー&ウェスタンの女王…ロレッタ・リン 
・フォークソングの女王…ジョーン・バエズ  
・癒し系音楽の女王…エンヤ 
・ハスキー・ボイスの女王…ボニー・タイラー  
・スキャットの女王…ダニエル・リカーリ 
・ワルツの女王…パティ・ペイジ 
・ポップスの女王…カイリー・ミノーグ  
・ディスコの女王…ドナ・サマー 
・イエ・イエの女王…シルヴィ・バルタン 
・カンツォーネの女王…ミルバ 
・ポップの女王…マドンナ  

・カスタネットの女王…ルセロ・テナ 
 
 <韓国>
・韓国歌謡界の女王…バティ・キム 
・韓国演歌「トロット」の女王…チュ・ヒョンミ(周美)
・トロット・クイーン…チャン・ユンジョン(張允瀞) 
・エレジーの女王…イ・ミジャ(李美子) 

世界の歌姫

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 「世界の歌姫」については、「第989話:サラ・ブライトマン」(2011/11/3)で、9年前の、古い情報ではあるが2009年の9月にライブドアがネット調査したもの(図)を載せた。

 これによると、世界の歌姫のNo.1は、ソプラノ・ディーヴァ、サラ・ブライトマン(現在58歳、写真)だった。 

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 もちろん、彼女も大好きで素晴らしい「歌姫」だが、自分は当時から一貫して、このグラフでは5位に甘んじているセリーヌ・ディオン(現在50歳、写真)が、No.1「世界の歌姫」だと思っている。

 どちらも何度も、拙ブログで紹介してきた。それでは、ここで二人の歌を聴いてみよう。

サラ・ブライトマン

 彼女の歌をはじめて聴いたのは実は代表曲の「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」(1997年)ではなく、「アヴェ・マリア」(2001年)だった。早速CDを購入し、あの透き通った声に聴き惚れたものである。

サラ・ブライトマン/アヴェ・マリア(2001年)


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 イングランド・ブライトマンハートフォードシャー州バーカムステッド(地図)出身。

 全世界でのトータルセールスは3千万枚を超え、クラシックとポップスを融合した独自の音楽スタイルはクラシカル・クロスオーバーのを先導する存在として、大きな支持を得ている。

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 1981年(21歳)に新作ミュージカルの『キャッツ』のオーディションを受け、ジェミマ役を射止めた。サラはその後もアンドルー・ロイド・ウェバー(現在70歳、写真)のミュージカルに数多く出演した。1984年(24歳)にはウェバーと結婚し、ウェバー作「レクイエム」の初演でもソプラノ・パートを務めた。 

 特に1986年(26歳)に『オペラ座の怪人』にオリジナルキャストとして出演したクリスティーヌ・ダーエ役での成功は彼女の名を一躍世界に知らしめることとなった。

 ソロアーティストとしてデビューしたのは1987年のこと。1990年(30歳)にはウェバーと離婚し、その後はソロ歌手としての活動に専念するようになった。

 1991年のNHK紅白歌合戦に出演し『オペラ座の怪人』のナンバー「ミュージック・オブ・ザ・ナイト」を歌い、日本の音楽ファンにもおなじみの存在となった。

サラ・ブライトマン&アントニオ・バンデラス
オペラ座の怪人より「ミュージック・オブ・ザ・ナイト」(1991年)


 また1992年のバルセロナオリンピックの閉会式ではスペインのオペラ歌手ホセ・カレーラス(現在71歳)とのデュエットで大会の公式テーマ曲『アミーゴス・パラ・シエンプレ』を歌った。

バルセロナオリンピックテーマ曲「アミーゴス・パラ・シエンプレ」(1992年)


 実は彼女はオリンピック公式テーマ曲を2度に渡って歌った初めてのアーティストである。2度目はバルセロナ五輪から16年後の2008年、北京五輪での開会式だ。 

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 代表曲「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」は、元は「コン・テ・パルティロ」(Con Te Partirò)(君と旅立とう)という題名で、イタリアの盲目のテノール歌手、アンドレア・ボチェッリ(現在60歳)が、1995年のサンレモ音楽祭で歌い、4位に入賞。同年春発売のセカンドアルバム「Bocelli」の1曲目に収録されたが、その時点では必ずしも大ヒットしたわけではなかった。

 
 この曲を聴いたサラ・ブライトマンがボチェッリにデュエットを申し込み、歌詞の一部とタイトルをイタリア語から英語に変更し、「Time To Say Goodbye」とした。
 
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 そして、彼女の友人で、ドイツの国民的英雄でもあるボクサー、ヘンリー・マスケ(現在54歳、写真)の引退試合(1996年)のリング上のステージで初めて2人によって歌った。
 
 その直後の12月に発売されたシングルは大ヒットし、ドイツのヒットチャートで14週連続1位となったという。この曲はクラシカル・クロスオーヴァーというジャンルを確立した曲としても知られている。
 

<歌詞>
 
 一人きりでいるとき 私は水平線を夢見る そして何も言えなくなってしまう 部屋の中は暗い 太陽の光がないから あなたがそばにいないと 太陽も消えたまま 窓から私の心が広がっていく あなたのものになった心が あなたはそんな私に 光を降り注いでくれる あなたが道ばたで見つけた光を タイム・トゥ・セイ・グッバイ
 

 今までに見たことも 訪れたこともない場所を 私はこれから あなたとともに航海していく 船に乗って海を越えて もうどこにもなくなってしまった海を越えて イッツ・タイム・トゥ・セイ・グッバイ 

サラ・ブライトマン&アンドレア・ボチェッリ/タイム・トゥ・セイ・グッバイ(1996年)


セリーヌ・ディオン

 自分はセリーヌ・ディオンのファンである。故・島倉千代子坂本冬美と同じく、偶然自分と誕生日が同じ日(3月30日)というのも親近感を深めている。

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 以前、レンタル・ショップで「セリーヌ・ディオン・ストーリー 愛を歌にのせて」(2008年4月16日発売、写真)というDVDを借りたことがある。
 
 セリーヌ・ディオンの半生を描いた作品だが、その大半は夫で、12歳からのマネージャーである、レネ・アンジェリル(2016年、73歳で没、写真左)との出会いと結婚のことに話題を割いている。
 
イメージ 10 1994年、2回の結婚と3人の子供があるレネ・アンジェリルとセリーヌ・ディオンは、周囲の反対を押し切って結婚する。彼女が26歳、彼が52歳のときで、26歳もの年の差婚だった。(写真)
 
 そして、1999年から夫の病気の看護と出産のため、2年間休業する。さらに2010年には人工授精で双子の赤ちゃんを産んでいる。夫が68歳のときである。
 
 彼は、喉頭がんとの長い闘病生活の末に2016年1月14日、米ラスベガスの自宅で死去した。現在、彼女には連れ子の3人に、彼との間に生まれた3人の兄弟を合わせ、6人の子供がいる。

 下図が彼女の年表だ。

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 セリーヌ・ディオンの歌う好きな曲はたくさんあるが、いくつかを聴いてみよう。

Power Of Love(1993年)


To Love You More(&葉加瀬太郎)(1995年)


Immortality(&Bee Gees)(1998年)
 

I Believe in You(&Ill divo)(2006年)


 「洋楽の歌姫といえば?」(2015/2/6)によれば、集計した24,976票の内、ベストテンは次の通り。多分ここでは、サラ・ブライトマンはポップスの歌手と思われていないのだろう。

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 次回は、いろんな「歌姫」の特集を。

歌姫(ディーヴァ)【その2】各国の歌姫(1)

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 前作は、「世界の歌姫」のテーマだったが、今回は「各国の歌姫」を話題に。
 
 「各国」というより、もっとスケールの大きい「世界の歌姫」の条件は、「歌のジャンルの広さ」と、「外国語の堪能さ」があると思う。

 前作で紹介したサラ・ブライトマンの母国語は英語だが、イタリア語、スペイン語も話せるし、セリーヌ・ディオンは、カナダ・ケベック州出身なので、当然フランス語と英語が喋れる。

 後ほど紹介する、ギリシャの歌姫・ナナ・ムスクーリは、15言語(ギリシア語、フランス語、英語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、ポルトガル語、日本語など)の歌を歌っているし、ドイツの歌姫・カテリーナ・ヴァレンテは広範なレパートリーを持ち、6か国語を操り、”歌う通訳”とまで呼ばれていた。共に幅広いジャンルの歌を歌っている。

 この人の歌うジャンルは幅広い。日本ではどちらかというと演歌歌手のイメージが強いが、驚くほど幅広いジャンルのレパートリーを持っている。

 そして、外国語にも堪能であり、北京語に加えて台湾語、広東語、日本語、英語と5カ国の言葉に堪能で、山東語、マレー語、フランス語などの言葉も話せたと言われている。

 その人とはテレサ・テンのことである。

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「アジアの歌姫」といえば、これはもうテレサ・テン(1995年、42歳で没、写真)で決まりだ。

 日本でリリースされた曲は約260曲ほどだが、中国語でリリースした曲は1,000曲を越し、作品の累計売上は、控えめに見積もっても、1億枚を超えるという。

イメージ 1 音楽評論家・中村とうよう(2011年、79歳没、写真)は、その著「ポピュラー音楽の世紀」(岩波新書)で、彼女のことをこう言っている。

 「繊細な節回しがかもしだすナイーブな叙情は、聞き手をやさしく歌で包み込む。アメリカの歌手たちの押し付けがましさの対極に位置するこういう歌こそ、アジア歌謡ならではの境地だ」

 当ブログでは何度も彼女の歌を紹介しているが、題名としては次の3回掲載している。

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 一曲だけを選ぶとすれば、テレサ・テンの代表曲で、彼女が生涯一番たくさん歌ったとされる、「何日君再來」(ホーリー・ジュン・ザイライ)になるだろうか。
 
 この曲は、1937年に上海で製作された映画「三星伴月」の挿入歌で、当時の人気歌手周璇が歌い、空前のヒットとなった。また1939年に香港で製作された映画「孤島天堂」の挿入歌にもなり、黎莉莉が歌いヒットした。日本語での曲名は「いつの日君帰る」、英語は「When Will You Return?」である。
 
 ひとりの抗日愛国青年に思いを寄せる酒場の踊り子が、敵である日本軍のスパイから情報を探り出し、青年たちは次々に行動を起こす。何日君再來は踊り子が、去りゆく恋人を想って歌う曲だそうだ。
 
 何日君再來は、その時々の時代の政情に弄ばれてきた。
そのときどきの為政者が、何日君再來に出てくる「君」をそれぞれの都合に合わせて解釈し、迫害してきたのだ。

 1980年に中国で麗君が歌い爆発的なヒットをした後、1982年、同歌は中国共産党政府当局の手により「エロな歌曲で、半封建、半植民地の奇形的産物」である「黄色歌曲」とされ、革命的精神に反し、民衆の精神汚染を防ぐという理由から一時輸入、販売、放送などが禁じられた。その名誉が回復されたのは、1986年だった。 
 
 一方この親しみやすいメロディーは国境を越え、時代やイデオロギーを越えて民衆の間に愛唱されてきた。
 
テレサ・テン/何日君再


「アメリカの歌姫」という
言葉は聞いたことが無い。候補者が多いからだろうか。

 候補者としては、マライヤ・キャリーバーブラ・ストライサンドホイットニー・ヒューストンビヨンセレディ・ガガあたりか。

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 当ブログでは、
1950年代代表として、パティ・ペイジ(2013年、85歳で没、写真左)と、1960年代代表として、コニー・フランシス(現在79歳、写真右)を「アメリカの歌姫」としたことがある。

「ワルツの女王」と呼ばれるパティ・ペイジは、アメリカオクラホマ州出身。大家族の貧しい家に生まれた。父親は線路工夫として働き、母親と姉妹は綿花摘みをして生計を立てていた。後年彼女がテレビで語ったところによると一家は電気もなく暮らし、日が暮れると本を読むこともできなかったという。

 彼女の最大のヒット曲は、何と言っても1950年にリリースされた「テネシーワルツ」である。この曲は同年に13週間にわたって1位の座にあり、累計売上げ枚数は600万枚に達しビルボード誌のヒット・チャートで1950年代最大のヒットを記録し、1956年にテネシー州4番目の州歌にもなった。

 日本でも江利チエミが1952年、14歳でこの曲でデビュー。27万枚のヒットになった。

パティ・ペイジ/テネシーワルツ(Tennessee waltz)(1950年)
  

コニー・フランシスは、11歳の頃からショーに出演し、同年の1955年に「Freddy」で歌手デビューした。1958年(19歳)にリリースされた「Who's Sorry Now?」が大ヒットしてからは、1960年代前半にかけてヒット曲を連発。

 彼女の曲は世界各国でカバーされており、日本ではカラーに口紅(1959年、森山加代子)、大人になりたい(1961年、伊東ゆかり後藤久美子の競作)、ヴァケーション(1962年、弘田三枝子青山ミチ伊東ゆかり金井克子安村昌子の競作)、夢のデイト(1961年、中尾ミエ伊東ゆかりの競作)可愛いベイビー(1962年、中尾ミエ森山加代子沢リリ子後藤久美子の競作)、渚のデイト(1963年、伊東ゆかりなどが「カバー・ポップス」と呼ばれヒットした。

 中で一番好きな曲が「大人になりたいトゥー・メニー・ルール トゥー・メニー・ルールと歌いまくり、反抗期の時代にぴったりの曲だった。

コニー・フランシス/大人になりたい(Too Many Rules) (1961年)



 続く。

歌姫(ディーヴァ)【その2】各国の歌姫(2)ドイツ、フランス、イタリア

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 前作・歌姫(ディーヴァ)【その2】各国の歌姫(1)の続きを。相変わらず、ブログが不調で、作成の途中で文章が切れるので、続きとしている。

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「ドイツの歌姫」は、古くは カテリーナ・ヴァレンテ(現在87歳、写真左)と、現在はヘレーネ・フィッシャー(現在34歳、写真右)だろうか。

カテリーナ・ヴァレンテ(Caterina Valente)は、1950年代末から70年代前半にかけて、ドイツを中心にヨーロッパ、そして世界で活躍した歌手。ポップス、ジャズ、シャンソン、カンツォーネ、ボサノバなど広範なレパートリーを持ち、6か国語を操り、”歌う通訳”と呼ばれた。

 スペイン系の父とイタリア人の母の間に、パリで生まれ、母親の音楽的素養を受け継ぎ、10代のころからステージに立ち、ドイツのバンドリーダー、クルト・エーデルハーゲンに認められ、専属歌手になったのをきっかけに、世界的名声を得るようになった。

 代表作の「情熱の花」は、日本ではザ・ピーナッツが日本語にカバーし、ヒットした曲として有名だが、ベートーヴェンの「エリーゼのために」のメロディをアレンジしたもので、が1959年にフランス語盤「Tout L'Amour」及びドイツ語盤「Rote Rosen werden bluh'n」としてカバーしたもの。日本ではフランス語盤の方が知られている。
 
 彼女は、こんなクラシックをアレンジした曲も歌っている

カテリーナ・ヴァレンテ/チャイコフスキー・ピアノ協奏曲(1875年)
 

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ドイツの歌姫、ヘレーネ・フィッシャー(Helene Fischer)は、ロシア・クラスノヤルスク(地図)生れの現在34歳。

 クラスノヤルスクはエニセイ川沿いにある100万人のシベリアの中心都市。

 ドイツの歌姫ヘレーネ・フィッシャー(2017/10/7)を投稿したことがある。

Helene Fischer Und morgen früh küss ich dich Wach(2006年)
(明日の朝目を覚ましキスをする)
 

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「フランスの歌姫」は、エディット・ピアフ(1963年、47歳で没、写真)と、ミレーユ・マチュー(現在72歳、写真右)だろうか。

 奇しくも、二人とも欧米人としては背が低い。公表されているもので、前者は142cm、後者は153cmである。

 ミレーユ・マチューが16才のとき、テレビののど自慢番組に出場し、「愛の讃歌」を歌い優勝した。そのとき背恰好も似ていることもあり「ピアフの再来」と騒がれたという。

エディット・ピアフ(Édith Piaf)は、フランスで最も愛されている歌手の一人であり、国民的象徴であった。彼女の音楽は傷心的な声を伴った痛切なバラードであり、その悲劇的な生涯を反映していたのが特徴であった。

 有名な曲としては「ばら色の人生(La vie en rose)」(1946年)、「愛の讃歌(Hymne à l'amour)」 (1949年)、「ミロール(Milord)」 (1959年)、「水に流して(Non, je ne regrette rien)」 (1960年)などがある。

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 彼女の47歳という若さで亡くなるまでの波乱の生涯は、『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』(画像)として2007年に映画化され、主演のマリオン・コティヤール(現在43歳、写真)はその年のアカデミー賞主演女優賞を受賞した。

 この映像で最初に流れる曲は、「ミロール」、「水に流して」である。「水に流して」の意味は、「私は決して後悔しない」だ。

エディット・ピアフ/水に流して(Non, Je ne regrette rien、1960年)


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ミレーユ・マチュー(Mireille Mathieu)は、フランスのアビニョン(地図)の貧しい墓石工の家に生まれ、工場で働いて13人の弟妹を面倒を見ながら、大好きなエディット・ピアフの歌をいつも歌っていた。
 
 彼女のテレビ・デビューは1965年(19歳)、ポール・モーリア作曲の「愛の信条(Mon credo et Ensemble)」だった。
 
 それ以来フランスを代表する歌姫として、特に60年代と70年代には絶大な人気を博した。ヨーロッパではエリザベス女王に次いで人気のある女性と呼ばれた時期もあったという。
 
 これまでのディスク売り上げ数は1億5千万枚、歌った歌は11カ国語で1200に及んでいる。

 以前、拙ブログ「ミレーユ・マチュー」(2012/6/17)で紹介したことがある。彼女の「いかにもフランス語ですよ」というような巻き舌の歌い方がたまらなく好きだ。

ミレーユ・マチュー/パリは燃えているか(Paris en colere)


イメージ 9「イタリアの歌姫」は、「カンツォーネの女王」と呼ばれていた、ミルバ(現在79歳、写真)。

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 「月影のナポリ」(1960年)のミーナ・マッツィーニ(現在78歳、写真左)、「逢引き」(1970年)のオルネラ・ヴァノーニ(現在84歳、写真右)と共に、3大プリマドンナと称される。



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ミルバ(Milva)
イタリア・フェラーラ近郊ゴーロ出身の歌手。(地図)
 
 1959年(20歳)にRAI(イタリア国営放送)の新人コンテスト優勝。1961年から、9年連続でサンレモ音楽祭に出場。その後も4回出場している。
 

 日本への初来日は1964年だった。

 ザ・ピーナッツのオリジナル曲「ウナ・セラ・ディ東京」を、初来日した際歌い一気にブームとなった。ミルバの正確な日本語での歌唱も評判となった。
 

 そして、1968年の来日記念に作られたのが、なかにし礼作詞/宮川泰作曲の「愛のフィナーレ」。ドラマを感じさせる、サビの盛り上がりが圧巻の曲である。

 以前拙ブロ「ミルバ」(2015/9/22)で紹介したことがある。彼女の「まるで、オペラのアリアを聴いているよう迫力」に圧倒される。
 
 ミルバでは、何と言っても次の曲が一番好きだ。
 
 「リコルダ」(RICORDA、邦名:思い出して)は、1963年にデビュー3年目のミルバとベテラン歌手ルチアーノ・タヨーリによってサンレモ音楽祭で歌われ5位入賞した名曲。
 
 ところが実際には音楽祭当日にタヨーリが病気で欠場するというハプニングが起きた。この年の優勝曲はエミリコ・ぺリコーリとトニー・レニスの「UNO PER TUTTE」だったという。

ミルバ/リコルダ(1963年)
 

 続く。





歌姫(ディーヴァ)【その2】各国の歌姫(3)豪州の歌姫

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オーストラリアが生んだ二人の歌姫は、カイリー・ミノーグ(現在50歳、写真左と、オリビア・ニュートン・ジョン(現在70歳、写真右)だ。

 拙ブログ・第63話:オーストラリアが生んだ歌姫(2009/6/9)で二人を紹介しているが、同じメルボルン出身であると共に、乳がんを患い苦しんだ末克服し、社会運動に取り組んでいる。

 ただし、オリビア・ニュートン・ジョンは、今年、前年2017年に3度目の癌となる脊髄の癌を患っていることを告白している。 また、自身が鬱病との闘病生活を送っている事を告白。 大変な人生を送っているようだ。

カイリー・ミノーグ(Kylie Ann Minogue)は、1987年(19歳)に歌手デビューし、母国オーストラリアやイギリスを中心に大ヒットを数多く飛ばす。

 彼女のCDはデビュー当時のベストアルバム、「KYLIE’S REMIXES」(画像)1枚しか持っていないが、リトル・エヴァが1962年にリリースした「ロコモ ーション」をカバーしたデビュー曲や「ラッキー ・ラヴ」 Should Be So Lucky)など、何度聴いても飽きない曲のオン・パレードだった。
 
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1.ラッキー・ラブ

2.恋は急がず
3.ロコモーション
4.涙色の雨~ジュ・ヌ・セ・パ・プークワ
5.愛が止まらない
6.ノー・シークレット
7.涙色の雨~ジュ・ヌ・セ・パ・プークワ
8.ラッキー・ラブ
9.メイド・イン・ヘブン 

 拙ブログでは、第481話:カイリー・ミノーグ2010/6/22)で紹介したことがある。

  一時は「低迷期」と呼ばれる時期もあったが2000年代に入って復活。2001年に発表した「フィーヴァー」が大成功して以降はその歌唱力と美術センスのコラボレーションや、コンサートでのカイリーの「腰振り」にも話題が集まるようになった。また、歌手活動と平行して女優活動や香水などのプロデュースも行っている。

 音楽作品の総売上枚数は7,000万枚以上ダンス・ミュージック専門レーベル『Deconstruction Records』所属時の1994年には、音楽業界から「ポップスの女王」という栄誉まで受けている。 

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 2018年には新アルバム「ゴールデン」(画像)を4月に発売。同時に新曲「ダンシング」も公開され、「ゴールデン」は全英アルバムチャートで8年ぶりの1位を獲得したのみならず、オーストラリアでも1位を記録した。

 カイリーのアルバムがイギリスとオーストラリア両方の国で同時に1位を獲得するのは自身としては2001年の「フィーヴァー」以来約17年ぶりの快挙であった。

 

カイリー・ミノーグ/愛が止まらない(1988年)
 

オリビア・ニュートン・ジョン(Olivia Newton-John)は、過去3度拙ブログで紹介した。

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 1948年、英国ケンブリッジ生まれ。53年にオーストラリア・メルボルンに移住。14歳で曲作りを始め、ソル・フォーというグループを結成。その後英国に渡り、ポップ・アイドル・グループ"トゥモロウ"を結成、66年にレコード・デビュー。さらに、71年にソロ・シンガーとしてデビュー。美しいハイ・トーン・ヴォイスとポップ・カントリー風な作品でヒットを連発。以後80年代半ばまで女性ポップス歌手の王座に君臨した。代表曲「愛の告白」「そよ風の誘惑」「プリーズ・MR.プリーズ」「フィジカル」など。 

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女優としては1978年ミュージカル映画『グリース』、1980年『ザナドゥ』に主演し大ヒット。
 
 『グリース』は、ジム・ジェイコブスとウォーレン・ケイシーの同名ミュージカルを原作とした学園ミュージカル映画。
 
 夏休みの避暑地で知り合った高校生のダニー(ジョン・トラボルタ)とサンディ(オリビア・ニュートン・ジョン)。ひと夏の恋で終わったはずだったがサンディは父の転勤でダニーと同じ高校に転校してくることに。…
 
 主演のジョン・トラボルタは当時24歳だったが、オリビア・ニュートン・ジョンは既に30歳。高校生を演じるには相当苦労したようだ。

 なお、2012年、約35年ぶりに、ジョン・トラボルタと共演したデュエットアルバム『The Christmas』をリリースした。

 『ザナドゥ』は、「地上に最高の音楽の殿堂を作るために」と集まる人々を描くミュージカル・ファンタジー映画。オリビア・ニュートン・ジョンと、往年のミュージカル・スター、ジーン・ケリー(当時68歳)の競演だった。
 
 興行成績は不発に終わったものの、音楽は大ヒットした

オリビア・ニュートン・ジョン/ザナドゥ(XANADU)(1980年)



 これで「各国の歌姫」を終わります。

アメリカの歌姫(追加)

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 これまで、世界の歌姫について、特集をしてきた。これが独断であることは十分承知している。好みの問題もあるし、世代間で見方が違うこともあるだろう。

 Webで「歌姫」と、例えば「アメリカ」とか、いろんな国を加えて検索すると、多くの国で「歌姫」と呼ばれている女性歌手が多数存在していることが分かる。この人が唯一絶対的な「歌姫」ということは無いのだ。

 ここで、その人たちを羅列してみようと思ったが、膨大な数になるのであきらめた。

 アメリカだけはこんな記事があったので載せてみたい。


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 アメリカの歌姫といえば? という調査に対し、総合ランキング 1位は「マドンナ」で39.7%、2位は「マライア・キャリー」で36.7%、3位は「ホイットニー・ヒューストン」で35.8%、4位は「ダイアナ・ロス」で31.8%、5位は「レディー・ガガ」で23.5%という結果だった。

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 写真左より、マドンナ(59歳)、マライア・キャリー(48歳)、ホイットニー・ヒューストン(2012年、48歳で没)、ダイアナ・ロス(74歳)、レディー・ガガ(32歳)

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 写真左より、シンディ・ローパー(65歳)、ビヨンセ(36歳)、ティナ・ターナー(79歳)、ジャネット・ジャクソン(52歳)、バーブラ・ストライサンド(76歳)
 
紙面の都合もあるので、この中から年長者(失礼!)だけを選んで代表的な歌を聴いてみよう。

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マドンナ

 ビルボード誌による、「チャート史上最も成功したトップ100のアーティスト」の中ではビートルズに続いて第2位

 シングルとアルバムの全世界での総セールスは、女性アーティスト最高の3億枚以上を記録し、『ギネス・ワールド・レコーズ』では「全世界で最も売れた女性レコーディング・アーティスト」、そして「史上最も成功した女性アーティスト」と認定されているマドンナ。

 一方で恋多き女性としても知られている愛称は代表曲から来た「マテリアル・ガール (Material Girl)」、または「ポップスの女王」とも言われる。

マドンナ/ラ・イスラ・ボニータ(1986年)


マライヤ・キャリー

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 日本では特に人気が高いと言われるマライヤ・キャリー(写真)だが、あまり彼女の音楽は知らない。どうしてそうなのかは分からない。

 彼女の持つ18曲全米No.1シングル(Billboard Hot 100)はビートルズに次いで歴代2位で、女性アーティストとしては1位であり、ソロ歌手としてはエルヴィス・プレスリーと並ぶ歴代1位である。

 シングルとアルバムの全世界での総セールスは、2億枚以上2009年12月に米のビルボードが発表した、2000年代(過去10年)アメリカでの最大ヒット曲と最もラジオで流れた曲で 「We Belong Together」(2005年)が1位になった。

 その他にも俳優(女優)としての受賞を含め、グラミー賞、American Music Awards、Billboard Music Awards、などの4大音楽賞を含め数々の受賞歴がある。 

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 「ワン・スウィート・デイ」(1995年)は、 マライア・キャリーとボーイズIIメン(写真)により作られたアルバム『デイドリーム』のセカンド・シングルとしてリリースされ、全米総合シングルチャートBillboard Hot 100にて初登場1位、更に16週連続で1位を記録し、ロングランヒットとなった。このHot 100 16週連続1位は、ルイス・フォンシ&ダディー・ヤンキーの「Despacito」(2017年)と並び、ビルボード史上歴代最長タイ記録となっている。 また90年代の音楽界を代表する曲であり、米ビルボードが発表した90年代に最もヒットした楽曲の1位に選ばれている。

マライヤ・キャリー&ボーイズⅡメン/ワン・スウィート・デイ(1995年)
 

ホイットニー・ヒューストン

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 ホイットニー・ヒューストン(写真)累計セールスはアルバムが1億4,000万枚以上、シングルは5,000万枚以上で、アメリカ合衆国のRIAA(レコード協会)より「アメリカ合衆国で(女性アーティスト史上)、バーブラ・ストライサンド、マドンナ、マライヤ・キャリーに続いて4番目に売れている歌手」と評価されている。

 また、音楽雑誌「ローリング・ストーン」によりその声を「強力で鋭いポップ・ゴスペル」といわれ、オール・タイムの素晴らしい歌手100人の内の1人であると評価された。

  しかしアルコール・薬物依存や、2012年1月には破産寸前であると報じられる など、さまざまな問題が続いていた。

  2012年2月11日に、カリフォルニア州ビバリーヒルズにあるビバリーヒルトン・ホテル4階客室の浴槽の中に倒れていたところを発見され、心臓発作のため死亡した。48歳没。

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 ホイットニーは、グラミー賞の授賞式を翌日に控え、これまでに彼女やアリシア・キーズ、アース・ウィンド&ファイアー、ブルース・スプリングスティーン、パティ・スミス、シカゴ、ジャニス・ジョプリンなど錚々たるアーティストのキャリア育成に携わり、数え切れぬほどのヒット曲を全世界へ送り込んできているプロデューサーのクライヴ・デイヴィス(86歳、写真)が主催する恒例の前夜パーティに参加するために、同ホテルに滞在していた。 

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 「オールウェイズ・ラヴ・ユー」は、ドリー・バートン(72歳、写真)が1974年に発表したカントリー・ナンバーで、ホイットニーが1992年に主演した映画「ボデイガード」の主題曲として歌い、全米第1位、1993年のグラミー賞2部門受賞に輝いた。

ホイットニー・ヒューストン/オールウェイズ・ラヴ・ユー(1992年)
  

シンディ・ローパー

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 シンディ・ローパー(写真)は、デビューから現在まで変わらないパワフルなアーティスト活動や独自のファッションから「永遠のガール」と称されている。ハイトーンで、高い肺活量を持つ。地声もハイトーンで子供のような可愛らしい声をしている。

 奇抜な髪型や髪色が特徴で、黄色に赤色を指した髪色が有名であり、しばらく黄色に染めたり、黄色のボブカットのカツラを使用していた。曲によっては赤色にも染めていた。現在はシルバーや白に近い色に染めている。このヘアスタイルは後に女性アーティストに多大なる影響を与えている。

 ところで、音楽ファンだとご存知の方も多いかもしれないが、彼女は親日家で、片ことの日本語も喋れる。

 それは、彼女が高校を退学し、定職もなくブラブラしていた時、ニューヨークの「ミホ」というジャパニーズレストランを経営している鈴木サクエさんという日本人女性と出会い、「それじゃ駄目だから自分の店で働きなさい」と誘われ、そこで働いたことがあったからである。
 
 鈴木さんは常にシンディに「いつか売れる日が来るから頑張りなさい」と激励をしていたという。この鈴木との出会いがシンディを超親日家とも言えるほどの日本贔屓にさせるきっかけとなったそうである。 

 1989年、 「夜のヒットスタジオ」に出演した際、番組では内緒で鈴木を探し出し、シンディの来日とは関係なくたまたま偶然に諸事情で日本に帰ってきていた鈴木とシンディはスタジオで再会を果たした。シンディは感激のあまり歌う前に涙ぐんでしまった。

  そして、東日本大震災2011年3月11日)の直後、日本でのコンサートツアーのために来日(彼女の乗った飛行機は地震による閉鎖のため成田空港に降りられず、米軍横田基地に着陸した)。空港からホテルまで10時間もかかったそうだ。

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 他の海外ミュージシャンが日本での公演を中止して帰国ないし、来日をキャンセルし、レコード会社からも帰国するように勧めら­れていた中、「私を迎えている日本に背を向けて帰るなんて考えられなかった」とし、予定通り東京と大阪でコンサートを行った。(写真)
 
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 16日~18日、東京・渋谷Bunkamuraオーチャードホールで予定通り3日間の公演を果たした。「日本人は強い人たち。この困難に向かい合い、乗り越えるでしょう」と客席にエールを送り、本人の希望でロビーには募金箱も設けられた。(写真)
 
 初日の16日は午後7時に開演。数曲歌うと「ツライ1週間を少しの間忘れて欲しい」と語りかけた。「日本からインスピレーションを貰ってきた。ファッション、音楽、おもちゃへの愛、ユーモア、寛容さ…。アリガトウゴザイマス」
 
 終盤では、「タイム・アフター・タイム」(1984年)の最後の歌詞「あなたが倒れたら私が支える、待っている、いつだって(和訳)」を歌い終えると、目頭を押さえたそうである。
 

 計16曲、約2時間のライブ。ラストは「真の力を忘れないで。(胸を指し)ここと、(頭を指し)ここ。考え、語り、聞くために、私たちが与えられた贈り物。私もそれを忘れないように頑張るから」と結んだ。

 大阪滞在時には、
音楽評論家・湯川れい子へ「こういう時こそ、日本にくることが出来て、私の人生の中でも名誉なことでした。ありがとう」と綴ったメールを送っている。
 
 「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」 (Girls Just Want to Have Fun、1983年) は、シンディ・ローパーのソロ歌手としての最初のメジャーシングル曲。世界的なヒット曲になった。日本でのシングル発売時のタイトルは「ハイ・スクールはダンステリア」であったが、後に原題を片仮名表記したタイトルに修正された。
 
 シングルは10ヵ国以上で1位になり、15ヵ国以上でトップ10に入った。1位になったのは、オーストラリア、ブラジル、カナダ、チリ、アイルランド、イスラエル、日本(オリコン洋楽シングルチャートで1984年4月30日付から3週連続1位)、ニュージーランド、そしてノルウェーである。イギリスとアメリカでは2位になった。
 
シンディ・ローパー/ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン(1983年)


ティナ・ターナー

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 ティナ・ターナー(写真)の芸歴は50年以上に及び、幅広い層のファンに認められており、多くの受賞歴を持つ。

 アメリカ南部に生まれ南部で育ち、現在はスイスの市民権を持っている。2018年8月には高血圧性腎不全により透析が必要となったが、夫のErwin Bachがドナーとなり、腎移植を受けた。なお腸にも初期の癌や悪性に近いポリープがあるが治療の詳細は不明。

 世界中で最も人気のある芸能人の一人として、彼女は「ロックンロールの女王」とも呼ばれている 。ティナ・ターナーは、「最も成功した女性ロック・アーティスト」と呼ばれてきた。8度のグラミー賞に輝き、歴史上の他のどのソロ・ミュージシャンよりも多くのコンサート・チケットを売り上げてきた。

 ターナーの全世界でのアルバムとシングルの売り上げ枚数は、総計でおよそ2億枚を数える。ステージ上でのその精力的な演技と力強い歌声、そして彼女の経歴の長さは非常に有名である。1991年にはロックの殿堂入りを果たしている。 

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 後に夫となるアイク・ターナーに見出され、1960年にアイク&ティナ・ターナー(写真)としてデビュー。野性的でパワフルな歌唱と激しいステージングで人気を博したが、夫アイクの暴力や麻薬中毒が深刻になり離婚。契約上の問題からアイク&ティナ・ターナー時代の曲を歌うことができず、1970年代後半は不遇をかこっていたが、1980年代に奇跡的な復活を遂げた。
 

 ほとんどの女性は30代でやり直すのは手遅れだと考えているようだけれど、私はそうは思わないわ。誰もが自分の人生を自分で作るべきなのよ。

 年齢じゃない。大事なのはその人の生きていく姿勢なのよ。

 (ティナ・ターナー著「ティナ・ターナー、愛は傷だらけ」より)


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 その後、ターナーは半ば引退していたが、
2008年2月に、グラミー賞の授賞式でビヨンセと一緒に出演し、正式に復帰し、ティナ・ターナー50周年記念ツアー」を行い、2008年から2009年にかけて、そのツアーは、最もチケットの値段が高いショーのひとつとして知られることになった。(写真)

 「プラウド・メアリー」(Proud Mary)は、CCRのリードギター・リードボーカルを務めていたジョン・フォガティの作曲で、フォガティが1969年に発表したアルバム「Bayou Country」に収録された。

 この曲は多くのアーティストにカバーされているが、1971年の、アイク&ティナ・ターナーによるカバーが最も有名で、ティナ・ターナーの代表曲の一つとなった。
  
 これは69歳(2009年)のときの映像である。とても69歳とは思えない若さ。2013年、彼女が73歳のとき16歳年下の男性と結婚している。

ティナ・ターナー/プラウド・メアリー(1971年) 


アメリカの歌姫(追加)続編

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 相変わらず作成途中で文章が切れてしまったので、アメリカの歌姫追加の続編を。

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 アメリカの歌姫といえば? トップ3はマドンナ、マライア、ホイットニー(nifty編集部、2017/1/20、
から、前作では1位のマドンナ、2位のマライヤ・キャリー、3位のホイットニーヒューストン、6位のシンディ・ローパー、8位のティナ・ターナーを紹介した。

 今回は、4位のダイアナ・ロスと、10位のバーブラ・ストライサンドを紹介したい。

ダイアナ・ロス

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 ダイアナ・ロス(写真左)
は、アメリカ・ミシガン州デトロイト出身。
ハイスクール時代の1959年に、女性4人組のコーラス・グループ、プリメッツを結成。

 プリメッツは3人組となって1961年にモータウンと契約、ザ・スプリームス(写真右)としてデビュー。
 
 当時、アメリカで吹き荒れていた「モータウン旋風」の中でも、最先端を行っていたザ・スプリームス

 その後、1969年のダイアナ脱退前の最後のシングルとなった「Someday We'll Be Together (邦題:またいつの日にか)」まで、合計12作の全米No.1ヒットを生み出した。


 その解散までの悲劇を脚色して描いたのがミュージカル「ドリームガールズ」である。ザ・スプリームスのメンバーだったメアリー・ウィルソンの自伝Dreamgirl: My Life As a Supreme」がベストセラーになり、1981年にドリームガールズとしてブロードウェイで上演された。
 
 マイケル・ベネット演出によるブロードウェイ・ミュージカルは毎夜、スタンディング・オベーションによる喝采を浴び、4年間に渡り1,522回の公演を記録、その後、全米各地や日本を含む世界各国で上演され、1982年にはトニー賞の13部門ノミネート、6部門受賞となる快挙を成し遂げた。

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 そして2006年、この傑作ミュージカルがスクリーンに甦えった。

 写真中央の、ダイアナ・ロスに相当する、ディーナ・ジョーンズ役にビヨンセ(現在37歳)、写真左の、メアリー・ウィルソンに相当する、ローレル・ロビンソン役にアニカ・ノニ・ローズ(現在46歳)、写真右フローレンス・バラード相当する、エフィ・ホワイト役に、ジェニファー・ハドソン(現在37歳)。

 ジェニファー・ハドソンは、オーディションで782名の参加者の中から審査員の満場一致で選ばれ、エフィー・ホワイト役を獲得した。その演技は「主演のビヨンセを食った」と絶賛され、第64回ゴールデングローブ賞助演女優賞を受賞。他、アカデミー賞の前哨戦といわれる映画賞を総なめにし、大方の予想通り、第79回アカデミー賞の助演女優賞を受賞した。

 ところでダイアナは、スプリームスの人気が一段落した1970年にグループを脱退。ソロ歌手として活動を始める。 
  
 
ソロ転向後も、同年リリースの『エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ』を皮切りに、『タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング』『マホガニーのテーマ(Theme From 'Mahogany'(Do You Know Where You're Going To))』などの全米1位ヒットを放ち、スーパースターとしての地位を確立した。 

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 「イフ・ウィ・ホールド・オン・トゥゲザー」(If We Hold On Together、1988年)は、アニメ映画『リトルフット』(The Land Before Time、『リトルフットの大冒険』、画像)の主題歌。
 
 日本では、1990年に今井美樹主演のドラマ『想い出にかわるまで』の主題歌に起用されシングルカットされた。

 オリコン総合シングルチャートで最高4位、1990年度年間オリコンチャートで総合10位を記録した。オリコン洋楽シングルチャートでは1990年2月26日付から19週連続1位を獲得し、1990年の年間チャートで1位となった。
 
 洋楽シングルのオリコン総合チャートでの年間TOP10入りは、1983年のアイリーン・キャラ「フラッシュダンス…ホワット・ア・フィーリング」以来7年ぶりであり、本作以降、達成例は現れていない。
 
ダイアナ・ロス/イフ・ウィ・ホールド・オン・トゥゲザー(1988年)


バーブラ・ストライサンド

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 バーブラ・ストライサンド(写真)は多芸多才だ。歌手以外に、
女優、作曲家、映画プロデューサー、映画監督も。 

 ニューヨークのブルックリンで育つ。1962年に歌手としてデビュー。代表曲は「ピープル」(1964年)、「追憶」(1973年)等。女優としても活躍し、自身の映画出演作の主題歌を歌ったり、楽曲の提供などもしている。 

 アカデミー賞は、『ファニー・ガール』(1968年)で主演女優賞を、『スター誕生』(1976年)で作曲家としてアカデミー歌曲賞と2度受賞している。また、複数のエミー賞、グラミー賞、ゴールデングローブ賞、およびトニー賞を受賞している。
 
 映画監督としては『愛のイエントル』(1983年)でデビュー。主演・脚本・製作、そして主題歌と5役を務めた。『サウス・キャロライナ/愛と追憶の彼方』(1991年)はアカデミー賞の作品賞で候補にあがったが、彼女は監督賞候補にならなかった。

 ストライサンドは1967年以降舞台には出演せず、1970年代から1990年代前半にかけてはコンサート活動からも遠ざかった。これはユダヤ系アメリカ人として政治的な姿勢を明確に表明していた彼女への脅迫行為が多発していたためで、以降彼女はレコードと映画を活動の中心とした。 

 1970年代のあいだ、ストライサンドは「追憶」「スター誕生/愛のテーマ」「ノー・モア・ティアーズ」「ウーマン・イン・ラヴ」など、主に彼女の映画のサウンドトラックに使用された楽曲でチャートの首位に輝き、ポップチャート上でも際立った存在だった。
 
 1970年代の終わりには、米国で最も成功した女性歌手として認識された。彼女のアルバムのセールスは凄まじく、当時彼女より多くのアルバムを売り上げていたのはエルヴィス・プレスリービートルズだけであった。

 1982年に、音楽評論家のスティーヴン・ホールデンは彼女を「フランク・シナトラ以来最も影響力のある米国ポップ歌手」と評している。
 
 1980年、ビー・ジーズのバリー・ギブによるプロデュース作「ギルティ」を発売、彼女自身最大のヒットアルバムとなった。グラミー賞も受賞した。

 2014年9月、デュエット・アルバム『パートナーズ』を発表。Billboard 200チャートで初登場を首位で飾り、自身が持つ女性アーティスト最多記録を10作に更新。さらに、1960年代・1970年代・1980年代・1990年代・2000年代・2010年代の6つの年代で首位を獲得する前人未到の偉業を達成した。

バーブラ・ストライサンド/追憶(1973年)


 バーブラ・ストライサンド/ウーマン・イン・ラヴ(1981年)


 5位のレディ・ガガ、7位のビヨンセ、9位のジャネット・ジャクソンはまたの機会に。

ウィー・アー・ザ・ワールド

 余談だが、ハリー・ベラフォンテの構想をもとに、イギリスで活躍するミュージシャン、ボブ・ゲルドフが提唱したバンド・エイドの成功に触発されてアフリカの飢餓と貧困層を解消する目的で作られたUSAフォー・アフリカ(United Support of Artists for Africa)キャンペーンソングウィ・アー・ザ・ワールド(We Are The World)』

 作詞・作曲はマイケル・ジャクソンライオネル・リッチーが共作で行い、プロデュースはクインシー・ジョーンズが担当した。

 1985年当時、アメリカ国内だけでシングル400万枚、アルバム300万枚を売り上げた。最終的にはアメリカだけで750万枚のシングル(7インチと12インチ版が用意された)が売れ、シングルとアルバム、ビデオの合計で6300万ドルの収入となり、すべての印税はチャリティとして寄付された。

 ビルボード(Billboard)誌では、1985年4月13日より4週連続で1位を獲得。1985年ビルボード誌年間ランキングでは、第20位だった。

  歌っている歌手の順は、ライオネル・リッチー、スティーヴィー・ワンダー、ポール・サイモン、ケニー・ロジャース、ジェームス・イングラム、ティナ・ターナー、ビリー・ジョエル、マイケル・ジャクソン、ダイアナ・ロス、ディオンヌ・ワーウィック、ウイリー・ネルソン、アル・ジャロウ、ブルース・スプリングスティーン、ケニー・ロギンス、スティーブ・ペリー、ダリル・ホール、マイケル・ジャクソン、ヒューイ・ルイス、シンディ・ローパー、キム・カーンズ、コーラスの後ボブ・ディラン、レイ・チャールズ、スティーヴィー・ワンダー、ブルース・スプリングスティーン、ジェームス・イングラム、レイ・チャールズという凄いメンバー。

 このアメリカの歌姫の10人の中でティナ・ターナーダイアナ・ロスシンディ・ローパー4人が歌いジャネット・ジャクソンがコーラスで参加している。
 
  中でもとても印象深い熱唱を披露しているのは、シンディ・ローパーだ。(映像では2分55秒のところ)

 音楽監督のクインシー・ジョーンズ「アドリブ入れてもいい?」と尋ね、彼を喜ばせたという有名なエピソードも残している。 

ウィー・アー・ザ・ワールド(1985年)


(Wikipedia参照)

ポケベルの終了

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 今年の5月4日、今から50年前の「1968年」について、【その1】【その2】と、2回に渡ってブログを投稿したことがある。

ポケットベル(ポケベル)の登場

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 その50年前の1968年7月1日、日本電信電話公社(現=NTTグループ)が東京23区でポケットベル(ポケベル)のサービスを開始。

 電話でポケベルの番号をダイヤルすると、端末に呼び出し音が鳴る。最初の端末はたばこの箱より大きいものだった。 (写真左は松下通信工業、写真右は東芝製)

 「ポケベルの歴史」によると、下表の通り。

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当初は呼び出し機能のみだった

 当初のポケベルは、一般の電話からポケベルへ一方向に呼び出し信号を送るだけであり、受信者は、それを見て、近くの公衆電話から送信者へ電話をかけるという利用方法であった。

 すなわち、電話の着信ベル機能だけをモバイルにしたようなものである。そのため、利用者は外出の多い営業部員や経営者、医療関係者に限られていた。

回線のデジタル化と通信自由化による急激な普及

 回線のデジタル化は、1978年、一般電話、携帯電話に先だってポケベルで行われた。 

 1985年の通信自由化によりIDO(日本移動通信)、DDI(第二電電)(いずれも現KDDI)が参入。1986年から87年にかけて、各地域に新規参入しサービスを開始。ポケベルは、1986年頃から急速に普及した。

 そして、1990年代には一般電話(プッシュホン)から10文字程度の数字列を送りポケベルに表示できるようになった。これはその後、カナや漢字まで使えるようになった。

 ポケベルにデータを送ることにより、送信者の電話番号や用件分類を伝えることができる。すなわち、不特定多数の電話とポケベルの間のネットワークが出現したのである。

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 これに飛びついたのが女子高生である。彼女らは、数字しか利用できない環境でも、「0840=おはよう」のような語呂合わせや、仲間内での略語を作り出して、かなり複雑な会話を行っていた。

 携帯電話での「メル友」に相当する、「ベル友」ブームが出現した。

 1996年にピークに達し契約者数は1,078万人(うちNTTドコモ649万人)になった。
ポケベルの衰退と終焉

 1995年からPHSサービスが開始された。PHSは、携帯電話に比べて料金が安いこと、ポケベルに比べて双方向の通話やメールができることから、急速にポケベル利用者がPHSに移動するようになった。女子高生はPHSを「ピッチ」と呼び愛用するようになった。

 携帯電話のサービス開始はPHSより早く、1987年だったが、普及も急速で、1996年にはポケベル加入者のピーク数を超え1,240万人に達した。そして、1997年には、メールサービスも開始された。

 ポケベルが競争力を失った最大の弱点は、双方向ではない(ポケベルから発信できない)ことにあった。1995年に米国で「ReFLEX方式」による簡易双方向通信サービスが開始されたが、この双方向ポケベルは、日本では実用化されなかった。

 ポケベルの加入者数は急激に減少し、2007年に最大の事業者であるNTTドコモはサービスを終了した。これにより、商用ポケベルは事実上消滅したことになり、防災分野や無線LAN環境での特殊用途に限られるようになった。なお、PHSも2008年にサービスを終了した。

イメージ 1 ポケベルのサービスを展開するのは現在、東京テレメッセージのみとなった。

 利用者は約1,500人で、収益が見込めなくなったため来年9月末で終了することになったという。

 自分はポケベルがまだ使われていることを知らなかった。

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 しかし、当の「東京テレメッセージ」の清野英俊社長(64歳、写真)は意外に意気軒昂のようだ。

 「文字通信はあっという間に音声通信に駆逐されてしまいました。(中略)しかし、文字は音声に比べて、圧倒的に電波で受信しやすいです。防災無線は途中で切れたり聞こえなかったりしたら困りますが、文字は文字のまま届きます」

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   同社ではすでに、衛星通信とポケベル波を利用した「防災ラジオ」(写真)を販売している。販売数は約15万台で、防災無線とラジオ放送、どちらも聴くことができるという。防災無線は文字と音声、両方で受信できるといい、複数の自治体と提携している。なにか不具合が起きた時には清野社長が対処に当たっており、1人で対応できるほどトラブルは少ないとのことだ。
 
 「多くの人を救うのに必要だと思います」。今後は「地方自治体向け情報配信サービス」、なかでも「防災無線」に注力するという。

 ポケベル終了! でも運営会社社長が「ここからがスタート」と前向きな理由(2018/12/3)より。
ポケベルと自分

 自分が営業職に就いた1974年当時は、もちろん携帯電話の無い時代。

 会社に得意先から急用の電話がかかっていた場合、営業所の事務員が、寄るであろう得意先に片っ端から電話をかけまくっていた。

 とても不便だったが、見方を変えれば、ストレスの少ない、のんびりとした古き良き時代だったようにも思う。

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 多分1989年、40歳の頃、そのときは営業所長になっていたが、営業マン全員にポケットベル(ポケベル、写真)が貸与された。後に短い用件を送ることができるようになったが、当初はピーと音が鳴るだけだった。

 そのときは、大体行き先の販売店に断りを入れて電話を借り、用件を聞いていた。

 その後、会社が携帯電話に参入することになり、仕事用に持たされたことがあった。

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 当時の携帯電話はとても重く大きいので、ポケットが破れそうだった。

 最初に個人で持ったのは、携帯電話ではなくてPHS(写真)。今から約20年前のことだ。

 あれから何度携帯電話を買い替えたことだろう。

 今はスマホ。今や、スマホが携帯電話+PHSの保有を大きく上回ったどころか、固定電話やパソコンの保有までも上回る時代になった。(図)

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 珍答弁・迷答弁で話題になった桜田義孝五輪担当相(68歳、写真)は11月22日の衆院内閣委員会で、所管するサイバーセキュリティー基本法改正案の審議では「自分でパソコンを打つことはない」と発言したことに絡み、「スマホは極めて便利なので一日何回も使っている」といきがってみたが、彼とは同年輩。

イメージ 12 ハズキルーペのCMではないが、「スマホは難しくて分からない!」「字が小さくて目に見えない!」「ボタンが小さくて、文字が打てない!」など、息巻いてみたい気にもなる。(写真)

 ポケットベルの時代が懐かしい。
 
国武万里/ポケベルが鳴らなくて(1993年)



日本の歌姫【その1】ちあきなおみ、倍賞千恵子

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 これまで右表の通り6回「歌姫シリーズ」を続けてきた。

 その最後から10日経ち、少し間が空いたが、締めくくりに「日本の歌姫」に触れてみたい。

 なぜこんなに遅れたかと言うと、選考が難しいからだ。世代により、また好みにより随分見方が違うはずだ。
常識的な線の日本の歌姫

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 こんな記事があった。世代別アンケート!日本の歌姫といえば誰? (テレビ朝日系「中居正広のジェネレーションギャップ」にて放送されたアンケート結果、2017/1/30) 

 はこの結果を表にまとめたものだ。

 自分はかろうじて60代に属するが、これを見ると妥当な評価だと思う。
自分が選んだ日本の歌姫

歌謡曲:美空ひばり、島倉千代子、ちあきなおみ、八代亜紀、西田佐知子、倍賞千恵子。
フォーク:森山良子、本田路津子。
ニューミュージック:中島みゆき、松任谷由実、五輪真弓。
アイドル:松田聖子、中森明菜、山口百恵、天地真理。

 この中からBest5を選ぶ。

 1位:ちあきなおみ 2位:倍賞千恵子 3位:中島みゆき 4位:松任谷由実 5位:松田聖子

 「常識的な線」の上表とは少し違う。これは好みの問題なので致し方ない。

 もうだいぶ前の記事ばかりだが、ブログを調べてみたところ、の通り、その5人ともそれぞれ、複数回紹介している。

1位:ちあきなおみ
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2位:倍賞千恵子
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3位:中島みゆき
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4位:松任谷由実
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5位:松田聖子
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 その中でも、ユーミン(松任谷由実)はダントツで、13回も登場している。

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 それは、ブログネタになり易い彼女のバラエティに富んだ曲作りと、当時東京・八王子の会社に勤めていて、彼女の生家の呉服店の前を通って通勤していたという思い入れも大きく影響している。

 そのときはユーミンの曲を鼻歌で歌っていたものだ。(地図)

 1912年から100年も続いている、地元では有名な老舗の呉服店「荒井呉服店」。彼女は、1954年二男二女の第三子(次女)として生を得た。

 なお、全体的にYouTubeの映像を貼り付けている部分が多く、削除だらけであまりお役に立てないかも知れないのでご容赦を。

 それでは「自分が選んだ日本のディーヴァ」を紹介していこう。

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1位:ちあきなおみ

 以前のブログで、紅白歌合戦に「思い出の歌手」として出演して欲しい、リタイヤした女性歌手の3人を選び紹介したことがあった。

 その3人とは、山口百恵西田佐知子、そして、ちあきなおみ(写真)のことである。

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 これがちあきなおみの年表

 44歳という若さで引退。その後27年経ち、今は71歳。

 「伝説の歌手」となり久しいが、今でもCD全集が出され、人気の衰えることを知らない。

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 ちあきなおみは東京都板橋区出身。作曲家鈴木淳(現在84歳、写真の右)の元でレッスンを受け、1969年(22歳)に「雨に濡れた慕情」で歌手デビュー。

 1970年「四つのお願い」がヒットし、人気歌手となる。1972年、代表曲となる「喝采」が第24回日本レコード大賞を受賞、80万枚の大ヒットとなる。

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 彼女の人生の転機は1978年に宍戸錠の弟で、同じ俳優の郷治(1992年、55歳で没、写真)と結婚したことによる。

 結婚を機にヒットを狙うのではなく、自分が歌いたい歌を歌っていくことに方向転換し、それが伝説の歌手になるきっかけとなったという。

 彼らは、芸能人のお見合い番組「ラブラブショー」(フジテレビ系、1970~1979年)でカップルになったうちの一組である。

 ちなみに、この番組では、三浦友和・山口百恵夫妻、関口宏・西田佐知子夫妻、石坂浩二・浅丘ルリ子夫妻(2000年に離婚)、三條正人・香山美子夫妻(2017年死別)、千昌夫・ジョーン・シェパード夫妻(1988年に離婚)、井上順・青木エミ夫妻(1982年に離婚)、和田浩治・梓みちよ夫妻(1971年に離婚)と、錚々たるメンバーが結婚した。(Wikipedia参照)
 
それが、郷とは1992年に肺ガンで死別。郷が荼毘に付されるとき、柩にしがみつき「私も一緒に焼いて」と号泣したという。郷の死去以降は一切の芸能活動を停止。引退宣言もないまま現在まで、公の場所にも全く姿を現していない。今どうしているのだろうか。

 ところで、今から9年前、入社して初めての年の仕事納めの日、会社の納会を終えて一人でぶらりと入ったスナックで、そこのママと音楽のことで話が弾んだことを思い出した。

 どうせ「美空ひばり」と答えるだろうと思いつつ、「日本で一番歌の上手い歌手はだれだろう」という話に及び、そこでママから期せずして「ちあきなおみ」と言われ驚いたことがある。わたしも同意見だったからである。さらにお酒が弾んだことは言うまでもない。

 スナックに入ったら何か歌わないわけには行かないだろう。

黄昏のビギン(1991年)

 ちあきは、オリジナルの歌手が舌を巻いて逃げだしそうなカバー曲も多い。

 そのときママからそのカバー曲の一つ、「黄昏のビギン」のリクエストがあり、歌った。

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 「黄昏のビギン」永六輔(写真の中央)と、中村八大(写真の左)のいわゆる「六・八コンビ」が作り、水原弘(1978年、42歳で没、写真の右)が1959年に出したレコード「黒い落葉」のB面の曲で、隠れた名曲だったが、ちあきなおみがその約30年後の1991年にカバーした。

 彼の歌とは少しメロディが違う。自分は水原弘のメロディを選んだ。


矢切の渡し(1978年)

 自分の歌える彼女の持ち歌はその他では次に紹介する「矢切の渡し」だけである。

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 私が今でも腑に落ちないのは、細川たかし(現在68歳、写真)ファンには申し訳ないが、「矢切りの渡し」も、ちあきなおみの方がずっとうまいと思っている。それが、片やその後出しにも関わらず、日の当たる『日本レコード大賞』受賞である。

 1978年当時のUSENのチャートではちあき盤が首位を独走していた。それが、細川盤の発売にあたって、細川の所属する日本コロムビアはすぐにちあき盤を生産中止にしている。

 芸能界の黒い霧を垣間見た感じで嫌になったことがある。

 ひょっとすると、ちあきはこのようなレコード業界の体質がいやで、あっさり引退したのかも知れないね。

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 「矢切りの渡し」(図)の場所は、江戸川をはさんで、矢切と帝釈天で有名な東京都葛飾区柴又の間にある。

 実は女友達と一度行って渡し船にも乗ったことがある。何にもないところだったが、今から14年前の55歳、自分が失業時代の懐かしい思い出だ。


ちあきなおみ/紅とんぼ(1988年)



2位:倍賞千恵子

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 倍賞千恵子(写真)は、今年77歳になった。

 彼女は、歌謡曲からポピュラー、スタンダードに童謡・唱歌まで幅広いジャンルを歌いこなせることに加え、日本語の発音の美しさから歌手としての評価も非常に高い。17年前(2001年)に乳がんを患いながら克服し、現在でも精力的に音楽活動を続けている。

 彼女の公式ウェブサイトによると、一昨日(12/9)も横浜みなとみらいでコンサートを行っているそうだ。観た人は幸せ者だね。
 
アクトレスとしてもシンガーとしても、日本に残された数少ない逸材であり、もっと長生きをして欲しいと思うタレントの一人だ。

 彼女はみすず児童合唱団に所属し、幼少時から「のど自慢荒らし」としても知られていたそうだ。

1961年、松竹映画にスカウトされ松竹歌劇団(SKD)を退団し、『斑女』(中村登監督)で映画デビュー。

下町の太陽(歌:1961年、映画:1963年)

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 映画『下町の太陽』(1963年公開、写真)は元々1961年に、題名と同タイトルの歌を歌い大ヒットとなったことから映画化されたもの。

 1961年といえば、22歳。本人はちゃきちゃきの江戸っ子のようだが、これで彼女の清楚で庶民的なイメージが出来上がった。

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 その映画に主演して以来、彼女は、山田洋次監督(現在87歳、写真)作品に欠かせない女優となる。

 国民的人気映画となった『男はつらいよ』シリーズは、全48作の配給収入が464億3千万円、観客動員数は7,957万3千人を記録。

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 倍賞千恵子は、渥美清(1996年、68歳で没)が演じる車寅次郎(写真の左)の妹・さくら(写真の右)を演じ、人気を不動のものにした。

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 なお、山田監督が柴又を知ったのは、『下町の太陽』を監督する際、作家の早乙女勝元(現在86歳、写真)に教授してもらうために早乙女宅を訪問。すぐそばにあった帝釈天を、案内されたのがきっかけだという。(Wikipedia 参照)



 
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地図を見ると、「倍賞千恵子」の生家、「下町の太陽」の舞台、「男はつらいよ」の舞台は、こんなに近い位置関係にある。

 みんな、東京の下町だ。

 本人は、西巣鴨生まれ、近くの東京都北区滝野川(赤印)に育つ。父は都電の運転士だったというから、元々庶民派ではある。
 
「下町の太陽」の舞台は、東京スカイツリーに近い、東京都墨田区の曳舟駅(京成線・東武線)(青印)付近にあった資生堂の石鹸工場などの工場群。

 「男はつらいよ」の舞台の葛飾区柴又も、荒川をはさむが、割と近いところにある(地図の右上)

山田洋次監督作品
 
 『男はつらいよ』シリーズの合間を縫って『家族』(1970年)、『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)『遥かなる山の呼び声』(1980年)をはじめ、山田が発表したオリジナル大作にも出演。

 『キネマの天地』(1986年)まで、延べ60本以上の作品に渡って、倍賞千恵子が全て主役や準主役として出演、海外でも殆ど例のない長期の監督・女優コンビである。

 生涯を通じて「家族」をテーマにした映画を世に出してきた山田洋次監督。

 倍賞千恵子は、「男はつらいよ」の「さくら」、「家族」、「故郷」(1972年)、「遙かなる山の呼び声」に登場するいわゆる「民子」3部作ではその「民子」を演じた。

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 なお、「男はつらいよ」の22年ぶりとなる新作を、誕生50周年を迎える来夏頃にスイス・ジュネーブ在住の後藤久美子(現在44歳)を迎え、公開することが決まったようだ。

 (写真左から、倍賞千恵子、前田吟、浅丘ルリ子、山田洋次監督、夏木マリ、後藤久美子、吉岡秀隆)

倍賞千恵子/さくら貝の歌


倍賞千恵子/忘れな草をあなたに


 続く。

日本の歌姫【その2】中島みゆき、松任谷由実(ユーミン)

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 「自分の選んだ日本の歌姫」前作の歌姫1位:ちあきなおみ、2位:倍賞千恵子に続き、今回は、3位:中島みゆきと、4位:松任谷由実(ユーミン)を。

3位:中島みゆき
4位:松任谷由実(ユーミン)

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 どちらを上位にするかは難しいところだ。

 前作で載せた記事、世代別アンケート!日本の歌姫といえば誰? (テレビ朝日系「中居正広のジェネレーションギャップ」にて放送されたアンケート結果、2017/1/30)では、いずれの世代でも松任谷由実(以下、ユーミンと呼ぶ)の方が中島みゆきより上位だった。 

 ある意味、ライバル同士。年代も近い。中島みゆきはユーミンより2年早い出生だが、デビューは3年遅い。

 今回は、二人の違いと同質性に迫ってみたい。
 
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 1980年代以降、トレンドに合わせた楽曲でヒットを飛ばすユーミン(現在64歳、写真左、以下)と、己の道を行く中島みゆき(現在66歳、写真右、以下)を「月と太陽」、「光と影」とするような対比が多く見られ、ユーミンは「恋愛歌の女王」、中島みゆきは「失恋歌の女王」と呼ばれるなど、対照的な二人だ。
 
 当人同士は、そうした周囲の対比をさほど気にもかけていない様子。

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 同年代で交友もあり(ユーミンの夫・松任谷正隆(現在67歳、写真)が中島の曲のアレンジを担当したこともある)、互いに認め合っている。

 テレビ・ラジオなどでユーミンは中島のことを「みゆき」と呼ぶ。逆に中島は、TOKYO FM「中島みゆき お時間拝借」で「松任谷」と呼んでいたそうだ。

二人の経歴

●出生:
中島みゆきは1952年生まれの札幌出身だが、5歳の時に北海道岩内に引っ越して11歳まで暮らしていた。その後帯広に引っ越している。父親は医師。医師の家庭といえば裕福な家庭だと思われがちだが、中島みゆきの父親は「赤ひげ先生」のようだったので、決して家庭は裕福ではなかったそうだ。
ユーミンの実家は、1912年から100年も続いている、地元では有名な老舗の呉服店「荒井呉服店」。1954年二男二女の第三子(次女)として生を得た。
 
●デビュー曲:
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中島みゆきが「アザミ嬢のララバイ」(1975年、写真左)、ユーミンは「返事はいらない」(1972年、写真右) 

〇中島みゆきの23歳のときのデビュー・シングル 「アザミ嬢のララバイ」は、医師である父親(51歳)が脳溢血で倒れた年。中島みゆきはプロデビューを控えていたが、宣伝活動ができなかった。翌年の1976年1月、父親は天国へと旅立っていったという。「アザミ嬢」とは、歌詞の内容から、どうやら水商売の女性のようだ。

研ナオコ/アザミ嬢のララバイ(1975年)


 1975年5月、財団法人ヤマハ音楽振興会の主催による「第9回ポピュラーソング・コンテストに「傷ついた翼」が入賞した。9月には「アザミ嬢のララバイ」でキャニオン・レコードからレコード・デビューを果たす。1975年10月の「第10回ポピュラーソング・コンテスト」に「傷ついた翼」から急遽差し替えた「時代」によってグランプリを受賞した。11月の第6回世界歌謡祭 でもグランプリを受賞した。「時代」は12月に2作目のシングルとして発売。

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 これをきっかけにミュージシャンとしての実力をヤマハミュージックの川上源一(2002年、90歳で没、写真)に見出される。その後中島は川上を現在に至るまで師父のように仰いでおり、中島のアルバムには、今日に至るまで、スタッフが記載されたクレジットに「DAD 川上源一」と記載されている。ヤマハ育ちでも、ヒットが出ると離れていくミュージシャンが多い中で、中島はヤマハをそのまま自分の拠点としている数少ないミュージシャンである。

□当時は荒井由美だったユーミンの18歳のデビュー・シングル「返事はいらない」はセールス的には苦戦し、本人曰く300枚程度しか売れなかったという。1枚目のオリジナル・アルバム『ひこうき雲』にはアルバム・ヴァージョンが収録された。現在、シングル・ヴァージョンはCD-BOX『Yumi Arai 1972-1976』で聴くことができる。
 
●ファースト・アルバム:
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中島みゆきが「私の声が聞こえますか」(1976年、写真左)(アルバムの中では「時代」が有名)、荒井由美は「ひこうき雲」(1973年、写真右)(アルバムの中では「ひこうき雲」が有名)。
 
●追っかけ:

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中島みゆきは吉田拓郎、ユーミンは伝説のバンド、ザ・フィンガーズ(1962-1969、写真)の「追っかけ」として有名。

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 なお、「吉田拓郎&かぐや姫コンサート in つま恋 2006」で、吉田拓郎が中島みゆきに「遺書のような曲を」と頼み込み作られた「永遠の嘘をついてくれ!」(1996年)でサプライズ共演している。

吉田拓郎/永遠の嘘をついてくれ!(1996年)



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 特に彼女が影響を受けた曲は、イギリスのロック・バンド、プロコル・ハルム(写真)のデビュー曲「青い影」(1967年)。

 このレコードが発売されるや、2週間で40万枚近くを売り上げ、イギリスのヒット・チャートで6週連続1位に輝き、1960年代の英国ロック界で、ビートルズの諸作品を凌ぎ最も大きな商業的成功を収めた楽曲とも言われ、音楽シーンに多大な影響を与えてきた。
  
 ユーミンはこの曲をきっかけに音楽を自作するようになったそうだ。

 ユーミン自身もこの歌を歌っている。そして、彼らの曲に影響され、「翳りゆく部屋」(1976年)を作曲した。

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 そして、フランスのシンガーソングライター、フランソワーズ・アルディ(現在74歳、写真)。
 
 1960年代に独特のフォーキーなスタイルで登場して以来、フランス語圏のアーティストには大きな影響力を及ぼし続けている。
 
 ユーミンのアルバム、MISSLIM(1974年)の中にある「私のフランソワーズ」はアルディを歌ったものであり、ユーミンが作った「まちぶせ」はアルディの「さよならを教えて(Comment te dire adieu)」(1968年)の翻案とも言われる。
 
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●エンディング・テーマ曲:
中島みゆきがNHK「プロジェクトX~挑戦者たち~」より「ヘッドライト・テールライト」(2000年)、ユーミンは映画「魔女の宅配便」より「やさしさに包まれたなら」(1974年)が最も有名。
二人の凄い記録

〇中島みゆきの凄い記録を2つ挙げると、
 
●「4つの年代にわたってシングルチャート1位を獲得した唯一のソロ・アーティスト」
 
 写真左より、1970年代:「わかれうた」(1977年)、1980年代:「悪女」(1981年)、1990年代:「空と君のあいだに/ファイト!」(1994年)、「旅人のうた」(1995年)、2000年代:「地上の星/ヘッドライト・テールライト」(2003年)

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●「他のアーティストへの提供曲が、5つの年代にわたってシングルチャート1位を獲得している」
 
 1970年代:研ナオコ「あばよ」(1976年)、1980年代 :工藤静香「FU-JI-TSU」(1988年)、「MUGO・ん…色っぽい」「黄砂に吹かれて」(1989年)、1990年代 :工藤静香「私について」(1990年)、慟哭(1993年)、2000年代 :TOKIO「宙船 (そらふね)」(2006年)、2010年代:ももいろクローバーZ「泣いてもいいんだよ」(2014年)

□ユーミンは、
 
●「5つの年代にわたってアルバムチャート1位を獲得した唯一のソロ・アーティスト」
 これまで、徳永英明、桑田佳祐、山下達郎(3人とも1980・1990・2000・2010年代)が保持していた記録を塗り替えた。

 また、2012年、40周年記念ベストアルバム『日本の恋と、ユーミンと。』が初週33.6万枚を売り上げ、12/3付週間ランキング首位に初登場。58歳10ヶ月でのアルバム首位は女性最年長記録。竹内まりやが『Expressions』(2008年10/27付)で記録した53歳7ヶ月を更新。2018年の、『ユーミンからの、恋のうた。』で最年長記録をさらに更新した。(62歳10ヶ月)
 写真左より、1970年代:『YUMING BRAND』(1976年)でアルバム初首位を獲得したのを皮切りに、計2作、1980年代:『昨晩お会いしましょう』(1981年)など計10作、1990年代:『THE DANCING SUN』(1994年)など計8作、2000年代:『sweet,bitter sweet YUMING BALLAD BEST』(2001年)、2010年代:『日本の恋と、ユーミンと。』

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●女性最多となるアルバムミリオン「通算10作」、アルバム首位「通算23作目」。

●1981年にスタートし、毎年、新潟・苗場プリンスホテルで開催される冬のコンサート『SURF&SNOW in Naeba』(写真)は、自身が持つ同一会場でコンサートを行う女性アーティスト1位の記録を毎年更新。来年は、39回目を迎える。

 2019年2月4日(月)・5日(火)・8日(金)・9日(土)・12日(火)・13日(水)・16日(土)・18日(月) 時間:21:00

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オールナイトニッポンのパーソナリティ

 ニッポン放送の深夜ラジオ番組「オールナイトニッポン」は、1967年10月1日から放送が始まった半世紀以上のご長寿人気番組。放送時間は月曜日~土曜日25:00 - 29:00(翌日未明1:00 - 5:00)。この番組から数多くの人気ラジオパーソナリティが生まれ、「若手芸能人の登竜門」とも呼ばれている。

 二人ともパーソナリティを務めている。

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中島みゆきは、月曜1部で1979年4月2日~1987年3月30日まで「中島みゆきのオールナイトニッポン」。

 1980年6月9日はゲストに松任谷由実を迎え、『なぜユーミンはハンドマイクで歌うのかと言う話では「デビューした頃は女のシンガーソングライターは顔を隠すように髪が長くて、ピアノやギターを弾き語りするような影の部分を前面に出しているのが多かったが、私は華やかなのが好きなので、ハンドマイクで歌うのに抵抗は無かった」と話し、中島に「あの時歌謡曲って言われてたの?」と言われた時には「当たり前でしょう」と返した。この他話は、ユーミンの北海道公演の時に台風で機材が届かなかったときには「これは中島みゆきの怨念だ」と思ったこと、ユーミンが「バストが形良い」、フランス料理のデザート「アントルメ」の話などに及んだ』という。

 その後も、2013年4月から今年(2018年)9月まで、月に一度、日曜深夜3時から「中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ」。

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 5年半の歴史に幕を下ろした後も、放送終了を惜しむリスナーの声が多数寄せられていたことから、その総集編が12月10日から13日まで、4夜連続で放送。5年半の名場面だけでなく、12月19日にリリースされるライブアルバム『中島みゆき ライブ リクエスト ‐歌旅・縁会・一会‐』から(写真)の楽曲もいち早くオンエアされたそうだ。

 なお、同ライブ・アルバムは、携帯プレイヤーやカーステレオなど、自分の好きなところで作品を楽しみたいというリスナーのリクエストを受け、誰もが知る中島みゆきの名曲「糸」、「時代」などを含む全12曲を、「歌旅」、「縁会」、「一会」の3公演からセレクトして収録。スタジオ音源とはまたひと味もふた味も違う、中島みゆきの魅力を感じる事が出来る作品となっている。また初回盤特典DVDには「ホームにて」他、全3曲の未公開ライブ映像が収録されている。

□ユーミンは、1988年4月16日から1999年3月27日まで、「松任谷由実のオールナイトニッポン」として、毎週土曜25:00 - 27:00(日曜1:00 - 3:00)パーソナリティを担当していた。

 名曲「瞳を閉じて」(1974年)は「オールナイトニッポン」から生まれた。

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 これは、長崎県・五島列島のほぼ中央にある奈留島(当時の人口約4,600人、地図)の長崎県立五島高等学校奈留分校(現在:長崎県立奈留高等学校)の女生徒から、同番組の「あなただけのイメージソングを作ります」のコーナーに、校歌の依頼の投書が来て、荒井由美が作詞・作曲した曲。
現在、長崎県立奈留高等学校の愛唱歌や、島民が島を離れる船の出港の際にも使われている。

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 1988年には、同校の卒業生の寄付で歌碑(写真)が建てられ、除幕式にはユーミンも参加した。

 歌碑の文字はユーミンの直筆という。

瞳を閉じて / 荒井由実


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 その後、2016年4月22日から月一回でソフトバンク「松任谷由実のオールナイトニッポンGOLD」として、毎月第3金曜日もしくは毎月第4金曜日の22:00 - 24:00にレギュラー放送が復活している。 

 次回は12月21日(金)22:00~生放送の予定。

他の歌手に提供した曲

 二人ともシンガーソングライターであり、共通した特徴として挙げられるのは、上述しているので重複するが、他の歌手に提供した曲の多いことだ。

〇中島みゆきは

 研ナオコ「あばよ」(1976年)「かもめはかもめ」(1978年)、桜田淳子「しあわせ芝居」(1977年)「追いかけてヨコハマ」(1978年)、加藤登紀子「この空を飛べたら」(1978年)、増田けい子「すずめ」(1981年)、柏原芳恵「春なのに」(1985年)、工藤静香「FU-JI-TSU」(1988年)、「MUGO・ん…色っぽい」「黄砂に吹かれて」(1989年)、「私について」(1990年)、慟哭(1993年)、小林幸子「幸せ」(1997年)、TOKIO「宙船 (そらふね)」(2006年)、ももいろクローバーZ「泣いてもいいんだよ」(2014年)など。

柏原芳恵/春なのに(1985年)


ももいろクローバーZ/泣いてもいいんだよ(2014年)
 

□ユーミン
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 ユーミンが楽曲を提供したり、曲をカバーした歌手は多いが、中でも目立つ人たちがいる。それは、ハイ・ファイ・セットと松田聖子だ。
 
 ハイ・ファイ・セット「卒業写真」(1975年)、「幸せになるため」 (1976年)、「冷たい雨」、「中央フリーウェイ」(1976年)
 

山本潤子(元ハイ・ファイ・セット)/冷たい雨(1976年)


 松田聖子「赤いスイートピー」、「小麦色のマーメイド」、「渚のバルコニー」(1982年)、「瞳はダイアモンド」(1983年)「Rock'n Rouge」(1984年)など。
 
 特に、松田聖子の曲については、呉田軽穂(くれた かるほ)というペンネームを使っている。

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 呉田軽穂は、スエーデン出身で「永遠の愛の王女」と呼ばれた往年の美人映画女優・グレタ・ガルボ(1990年、84歳で没、写真)の名前をもじっている。

 なお、それ例外にユーミンが提供した楽曲は、原田知世「時をかける少女」、「ダンデライオン~遅咲きのたんぽぽ」 (1983年)、バンバン「「いちご白書」をもう一度」 (1975年)、三木聖子、石川ひとみ「まちぶせ」 (1996年)など。

松田聖子/呉田軽穂メドレー(2001年)




二人とも現役歌

〇中島みゆきは夜会コンサートVOL20.「リトルトーキョー」/東京都・TBS赤坂ACTシアター2019年1月30日(水)~2月27日(水)全20公演。

□ユーミンは、前述の通り、潟・苗場プリンスホテルで開催される冬のコンサート『SURF&SNOW in Naeba』

 正に歌姫の二人だ。
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