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音楽大学(音楽学校)出身の歌手【その3】

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大学別の著名な歌手(続)

武蔵野音楽大学(旧:武蔵野音楽学校
 
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渡辺はま子(武蔵野音楽学校出身、1999年、88歳で没、写真
 

 渡辺はま子は戦前から戦後にかけて活躍した日本の流行歌手。生涯横浜で過ごした。愛称は「おはまさん」。

 1933年、武蔵野音楽学校(後の武蔵野音楽大学)卒業後は、横浜高等女学校(後の横浜学園高等学校)で音楽教師をしていたが、同年にレコードデビュー。

 1937年頃から、戦時下の上海など戦地への慰問も積極的に行うようになり、「支那の夜」「広東ブルース」などの大陸を題材にした曲目が徐々に増え、人々からは『チャイナ・メロディーの女王』『チャイナソングのおハマさん』と呼ばれ支持された。

 さらに、当時はテイチクの専属であった満州の大陸女優、李香蘭主演の大ヒット映画の主題歌をコロムビアから国内で日本語で発売する際には、渡辺がレコーディングした。「いとしあの星」「蘇州夜曲」といった曲は渡辺、李両者の持ち歌として大ヒットを記録している。 戦地への慰問として訪れていた大陸の天津で終戦を迎え、捕虜として1年間の収容所生活を余儀なくされる。

 戦後は、歌手活動の傍ら横浜で花屋を営みながら、「雨のオランダ坂」「東京の夜」といったヒット曲を飛ばし続けた。 

 1952年(昭和27年)、NHKラジオ「陽気な喫茶店」を司会していた松井翠声の元に送られてきた、フィリピンの日本人戦犯が作詞作曲した曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」を渡辺がレコード化。日本国政府の厚生省復員局と渡辺の奔走で、モンテンルパ市のニューピリビット刑務所へ慰問コンサートが実現。フィリピン政府当局に減刑、釈放を嘆願し、当時のフィリピンの首長であったキリノ大統領に日本人戦犯の釈放を決断させ、全員の日本への帰国が実現したことは、渡辺の歌手人生におけるハイライトといえる。

渡辺はま子/桑港のチャイナタウン(1950年)


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近江俊郎(武蔵野音楽学校出身、1992年、73歳で没、写真
 
 近江俊郎は、武蔵野音楽学校に在学中、教授と進級試験の方法を巡って対立。1936年に退学し、同年デビューしたが、その間レコード会社を転々とした。

 デビューから10年目の戦後の1946年に「悲しき竹笛」が大ヒット。その後、「湯の町エレジー」などがヒットし、岡晴夫田端義夫とともに戦後三羽烏と言われるスターダムにのし上がる。 

近江俊郎/湯の町エレジー(1948年)



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岡本敦郎(武蔵野音楽学校出身、2012年、88歳で没、写真

 岡本敦郎は小樽市出身の歌手。武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)声楽科卒業。

 1946年にラジオ歌謡のホームソング「朝はどこから」でデビューした。この曲は当時、敗戦直後の日本を励ますため朝日新聞が企画した懸賞応募曲である。明るいその曲調から、広く親しまれ愛唱された曲である。抜群の伸びのある美声と正統派の歌唱で、戦後の歌謡界で活躍した。1949年の「街の艶歌師」の小ヒットを皮切りに流行歌のヒットが増えて行った。ちなみにこの作曲は八洲秀章で岡本敦郎にしては珍しい演歌である。
 
 そして、「白い花の咲く頃」の大ヒットや「チャペルの鐘」「あこがれの郵便馬車」などのヒットを経て、1954年にリリースした「高原列車は行く」は爆発的ヒットとなり現在までの岡本敦郎の代表曲となった。その後も「ピレニエの山の男」「自転車旅行」「若人スキーヤー」などヒットを飛ばした。多くのラジオ歌謡を吹き込んだことから、ミスターラジオ歌謡の異名を持つ。

岡本敦郎/高原列車は行く(1954年)



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川田正子(武蔵野音楽大学出身、2006年、71歳で没、写真

 川田正子は、日本の童謡歌手。幼少期より日本で最も伝統のある児童合唱団音羽ゆりかご会に所属し、作曲家海沼實に師事して才能を開花すると童謡や唱歌を数多く歌唱。甥にあたる現音羽ゆりかご会会長の作曲家三代目海沼実らによって顕彰され、没後も童謡界のカリスマとして根強い人気を誇る。

川田正子/鐘の鳴る丘主題曲「とんがり帽子」(1947年)


東京音楽大学(旧:東洋音楽学校
 
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霧島昇東洋音楽学校出身、1984年、69歳で没、写真

 霧島昇は、戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。福島県双葉郡大久村(現・いわき市)出身。1970年(昭和45年)、紫綬褒章受章。 小学校を卒業後上京し、中学に通いながらボクサーを目指すが断念、テノールの藤原義江のレコードを聴き、日本の歌曲を流行歌として歌いたいと思い、苦学しながら東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)を卒業。 

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 浅草のレビュー小屋でアルバイトをする傍ら吹き込んだエヂソン・レコード『僕の思い出』がコロムビア文芸部長・松村重武(俳優の松村達雄の実父)の目にとまり、1936年にコロムビアに入社。当時のコロムビアは松平晃(東京音楽学校中退、1961年、49歳で没、写真)が看板スターだった。

 霧島は松平を目標に歌唱技術を磨き、松平にはないテノールの甘い音色と邦楽的技巧表現を生かした。 

 翌1937年に『赤城しぐれ』でデビュー。1938年に松竹映画『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』を当時大スターだったミス・コロムビア(本名・松原操=後に本名を芸名とする)と共に吹き込み大ヒット。1939年にミス・コロムビアと結婚。前年に吹き込んだ『旅の夜風』が縁結びとなった。その後も『一杯のコーヒーから』、『誰か故郷を想わざる』などの大ヒットを飛ばし「コロムビアのドル箱」と呼ばれた。 戦後は並木路子と吹き込んだ『リンゴの唄』を皮切りに『三百六十五夜』、『胸の振子』などのヒットを放った。生涯に吹き込んだ数は3千曲を超えた。

霧島昇&ミス・コロンビア/映画愛染かつら主題曲「旅の夜風」 (1935年)


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春日八郎東洋音楽学校出身、1991年、67歳で没、写真

 春日八郎は、福島県河沼郡会津坂下町塔寺出身の演歌歌手。『赤いランプの終列車』『お富さん』『別れの一本杉』などが有名である。実家は麺類製造業。浅草でクラシックの正統派・藤山一郎のステージを見て歌手に憧れる。旧制会津中学校を中退し、エンジニアを志して13歳で上京。しかし、歌手の夢を捨てきれずに東洋音楽学校へ入学。卒業後は会津若松陸軍第29連隊に入隊し、終戦後に台湾より復員。

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 赤貧を洗うような下積みが3年続き、妻・恵子に紹介してもらった作曲家・江口夜詩(えぐちよし、東京音楽学校出身、1978年、75歳で没、写真)の家に毎日のように通い、掃除をしたり肩を揉んだりしながら、曲を作ってもらえるよう願い続けた。江口に「低音が出ないし、声が細い」と指摘されると、河原に出て土砂降りの中で発声練習をしたりと必死の努力が実り、ようやく新曲『赤いランプの終列車』(1952年発売)を作曲してもらうことになり、50万枚の大ヒットとなる。

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 1954年に歌舞伎の「与話情浮名横櫛」に登場する、お富さんと切られの与三郎の掛け合いを歌にした『お富さん』が125万枚の大ヒット、また1955年には『別れの一本杉』(60万枚の大ヒット、まだ売り出し中の船村徹(東洋音楽学校出身、2017年、84歳で没、写真)を有名にさせた作品でもある)とそれまでの流行歌とは質の異なる望郷歌謡をたて続けにヒットさせ、流行歌の衰退期において「演歌」という新天地を築いた。

春日八郎/長崎の女(1963年)


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織井茂子東洋音楽学校出身、1996年、70歳で没、写真

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 織井茂子は、10代の頃は、童謡歌手として、リーガル(コロムビアの廉価盤)の専属として活躍。(写真)

 東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を卒業後、歌謡曲歌手となるべく当時有名であった大村能章歌謡学院の門下となり、大村の紹介により「都能子(みやこよしこ)」の芸名で1947年にキングレコードからデビュー。 
 
 1949年、芸名を本名の旧姓である織井茂子に戻して、コロムビアに移籍し、『安南夜船』で再デビュー。1952年にようやく、松竹映画『カルメン純情す』(監督:木下惠介)の同名の主題歌で脚光を浴びることとなる。

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 正統派歌手が敬遠されはじめていた時代、織井茂子の名を不動のものとしたのは、やはり同年に開始された連続放送劇『君の名は』の主題歌をレコーディングしたことによる。翌1953年に発売されたレコードは番組の人気に支えられ順調に売り上げを伸ばした。さらに同年に岸惠子・佐田啓二主演で松竹により映画化され、主題歌として使われると、この曲は空前の大ヒットとなり、総計110万枚の売り上げを記録した。(写真)続く、映画『君の名は』の第2部主題歌『黒百合の歌』、佐田啓二とのデュエットである第3部主題歌『君は遥かな』もヒットし、織井茂子は全国的なヒット歌手としてスターダムにのし上がった

 昭和30年代は、船村徹作品に新境地を見出し『東京無情』『夜がわらっている』などのヒットを飛ばすが、結婚したこともあり、徐々に一線から退いていった。しかし、昭和40年代半ばごろからの懐メロブームで復活。「なつかしの歌声」などのテレビの歌謡番組でも往年のヒット曲を多数披露した。 

織井茂子/君の名は(1953年)



三浦洸一東洋音楽学校出身、現在91歳、写真

 三浦洸一は、神奈川県三浦市三崎地区出身。芸名は出身地の神奈川県三浦市にちなんで命名された。

 東洋音楽学校(現:東京音楽大学)声楽科卒業後、1952年に日本ビクターレコードに入社。作曲家の吉田正に師事する。大学ではクラシックの声楽を学んでいた。

 持ち歌は文芸を題材にして書かれた曲いわゆる「文芸歌謡」が多い。 歌唱法が実直であり、社歌や自治体制作の音頭など委託制作盤も多数吹き込んでいる。

 「踊り子」は1957年2月に呉羽紡績提供の朝日放送ラジオ番組『クレハ・ホームソング』で放送され、同年8月にレコード発売。漫画家&声楽家の池田理代子が「歌は美しかった 思い出の絵ぼんぼり」でカヴァーしている。池田は東京音大の後輩。

三浦洸一/踊子(1957年)


 Wikipedia参照)続く。

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