相変わらず作成途中で文章が切れてしまったので、アメリカの歌姫追加の続編を。
今回は、4位のダイアナ・ロスと、10位のバーブラ・ストライサンドを紹介したい。
●ダイアナ・ロス
プリメッツは3人組となって1961年にモータウンと契約、ザ・スプリームス(写真右)としてデビュー。
当時、アメリカで吹き荒れていた「モータウン旋風」の中でも、最先端を行っていたザ・スプリームス。
その後、1969年のダイアナ脱退前の最後のシングルとなった「Someday We'll Be Together (邦題:またいつの日にか)」まで、合計12作の全米No.1ヒットを生み出した。
その解散までの悲劇を脚色して描いたのがミュージカル「ドリームガールズ」である。ザ・スプリームスのメンバーだったメアリー・ウィルソンの自伝「Dreamgirl: My Life As a Supreme」がベストセラーになり、1981年にドリームガールズとしてブロードウェイで上演された。
マイケル・ベネット演出によるブロードウェイ・ミュージカルは毎夜、スタンディング・オベーションによる喝采を浴び、4年間に渡り1,522回の公演を記録、その後、全米各地や日本を含む世界各国で上演され、1982年にはトニー賞の13部門ノミネート、6部門受賞となる快挙を成し遂げた。
そして2006年、この傑作ミュージカルがスクリーンに甦えった。
写真中央の、ダイアナ・ロスに相当する、ディーナ・ジョーンズ役にビヨンセ(現在37歳)、写真左の、メアリー・ウィルソンに相当する、ローレル・ロビンソン役にアニカ・ノニ・ローズ(現在46歳)、写真右のフローレンス・バラードに相当する、エフィ・ホワイト役に、ジェニファー・ハドソン(現在37歳)。
ジェニファー・ハドソンは、オーディションで782名の参加者の中から審査員の満場一致で選ばれ、エフィー・ホワイト役を獲得した。その演技は「主演のビヨンセを食った」と絶賛され、第64回ゴールデングローブ賞助演女優賞を受賞。他、アカデミー賞の前哨戦といわれる映画賞を総なめにし、大方の予想通り、第79回アカデミー賞の助演女優賞を受賞した。
ところでダイアナは、スプリームスの人気が一段落した1970年にグループを脱退。ソロ歌手として活動を始める。
ソロ転向後も、同年リリースの『エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ』を皮切りに、『タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング』『マホガニーのテーマ(Theme From 'Mahogany'(Do You Know Where You're Going To))』などの全米1位ヒットを放ち、スーパースターとしての地位を確立した。
日本では、1990年に今井美樹主演のドラマ『想い出にかわるまで』の主題歌に起用されシングルカットされた。
オリコン総合シングルチャートで最高4位、1990年度年間オリコンチャートで総合10位を記録した。オリコン洋楽シングルチャートでは1990年2月26日付から19週連続1位を獲得し、1990年の年間チャートで1位となった。
洋楽シングルのオリコン総合チャートでの年間TOP10入りは、1983年のアイリーン・キャラ「フラッシュダンス…ホワット・ア・フィーリング」以来7年ぶりであり、本作以降、達成例は現れていない。
ダイアナ・ロス/イフ・ウィ・ホールド・オン・トゥゲザー(1988年)
●バーブラ・ストライサンド
ニューヨークのブルックリンで育つ。1962年に歌手としてデビュー。代表曲は「ピープル」(1964年)、「追憶」(1973年)等。女優としても活躍し、自身の映画出演作の主題歌を歌ったり、楽曲の提供などもしている。
アカデミー賞は、『ファニー・ガール』(1968年)で主演女優賞を、『スター誕生』(1976年)で作曲家としてアカデミー歌曲賞と2度受賞している。また、複数のエミー賞、グラミー賞、ゴールデングローブ賞、およびトニー賞を受賞している。
ストライサンドは1967年以降舞台には出演せず、1970年代から1990年代前半にかけてはコンサート活動からも遠ざかった。これはユダヤ系アメリカ人として政治的な姿勢を明確に表明していた彼女への脅迫行為が多発していたためで、以降彼女はレコードと映画を活動の中心とした。
1970年代のあいだ、ストライサンドは「追憶」「スター誕生/愛のテーマ」「ノー・モア・ティアーズ」や「ウーマン・イン・ラヴ」など、主に彼女の映画のサウンドトラックに使用された楽曲でチャートの首位に輝き、ポップチャート上でも際立った存在だった。
1970年代の終わりには、米国で最も成功した女性歌手として認識された。彼女のアルバムのセールスは凄まじく、当時彼女より多くのアルバムを売り上げていたのはエルヴィス・プレスリーとビートルズだけであった。
1982年に、音楽評論家のスティーヴン・ホールデンは彼女を「フランク・シナトラ以来最も影響力のある米国ポップ歌手」と評している。
1980年、ビー・ジーズのバリー・ギブによるプロデュース作「ギルティ」を発売、彼女自身最大のヒットアルバムとなった。グラミー賞も受賞した。
2014年9月、デュエット・アルバム『パートナーズ』を発表。Billboard 200チャートで初登場を首位で飾り、自身が持つ女性アーティスト最多記録を10作に更新。さらに、1960年代・1970年代・1980年代・1990年代・2000年代・2010年代の6つの年代で首位を獲得する前人未到の偉業を達成した。
バーブラ・ストライサンド/追憶(1973年)
バーブラ・ストライサンド/ウーマン・イン・ラヴ(1981年)
5位のレディ・ガガ、7位のビヨンセ、9位のジャネット・ジャクソンはまたの機会に。
●ウィー・アー・ザ・ワールド
余談だが、ハリー・ベラフォンテの構想をもとに、イギリスで活躍するミュージシャン、ボブ・ゲルドフが提唱したバンド・エイドの成功に触発されてアフリカの飢餓と貧困層を解消する目的で作られたUSAフォー・アフリカ(United Support of Artists for Africa)のキャンペーンソング『ウィ・アー・ザ・ワールド(We Are The World)』。
作詞・作曲はマイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーが共作で行い、プロデュースはクインシー・ジョーンズが担当した。
1985年当時、アメリカ国内だけでシングル400万枚、アルバム300万枚を売り上げた。最終的にはアメリカだけで750万枚のシングル(7インチと12インチ版が用意された)が売れ、シングルとアルバム、ビデオの合計で6300万ドルの収入となり、すべての印税はチャリティとして寄付された。
ビルボード(Billboard)誌では、1985年4月13日より4週連続で1位を獲得。1985年ビルボード誌年間ランキングでは、第20位だった。
歌っている歌手の順は、ライオネル・リッチー、スティーヴィー・ワンダー、ポール・サイモン、ケニー・ロジャース、ジェームス・イングラム、ティナ・ターナー、ビリー・ジョエル、マイケル・ジャクソン、ダイアナ・ロス、ディオンヌ・ワーウィック、ウイリー・ネルソン、アル・ジャロウ、ブルース・スプリングスティーン、ケニー・ロギンス、スティーブ・ペリー、ダリル・ホール、マイケル・ジャクソン、ヒューイ・ルイス、シンディ・ローパー、キム・カーンズ、コーラスの後ボブ・ディラン、レイ・チャールズ、スティーヴィー・ワンダー、ブルース・スプリングスティーン、ジェームス・イングラム、レイ・チャールズという凄いメンバー。
このアメリカの歌姫の10人の中でティナ・ターナー、ダイアナ・ロス、シンディ・ローパーと4人が歌い、ジャネット・ジャクソンがコーラスで参加している。
中でもとても印象深い熱唱を披露しているのは、シンディ・ローパーだ。(映像では2分55秒のところ)
音楽監督のクインシー・ジョーンズに「アドリブ入れてもいい?」と尋ね、彼を喜ばせたという有名なエピソードも残している。
ウィー・アー・ザ・ワールド(1985年)
(Wikipedia参照)