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アメリカの歌姫(追加)

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 これまで、世界の歌姫について、特集をしてきた。これが独断であることは十分承知している。好みの問題もあるし、世代間で見方が違うこともあるだろう。

 Webで「歌姫」と、例えば「アメリカ」とか、いろんな国を加えて検索すると、多くの国で「歌姫」と呼ばれている女性歌手が多数存在していることが分かる。この人が唯一絶対的な「歌姫」ということは無いのだ。

 ここで、その人たちを羅列してみようと思ったが、膨大な数になるのであきらめた。

 アメリカだけはこんな記事があったので載せてみたい。


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 アメリカの歌姫といえば? という調査に対し、総合ランキング 1位は「マドンナ」で39.7%、2位は「マライア・キャリー」で36.7%、3位は「ホイットニー・ヒューストン」で35.8%、4位は「ダイアナ・ロス」で31.8%、5位は「レディー・ガガ」で23.5%という結果だった。

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 写真左より、マドンナ(59歳)、マライア・キャリー(48歳)、ホイットニー・ヒューストン(2012年、48歳で没)、ダイアナ・ロス(74歳)、レディー・ガガ(32歳)

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 写真左より、シンディ・ローパー(65歳)、ビヨンセ(36歳)、ティナ・ターナー(79歳)、ジャネット・ジャクソン(52歳)、バーブラ・ストライサンド(76歳)
 
紙面の都合もあるので、この中から年長者(失礼!)だけを選んで代表的な歌を聴いてみよう。

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マドンナ

 ビルボード誌による、「チャート史上最も成功したトップ100のアーティスト」の中ではビートルズに続いて第2位

 シングルとアルバムの全世界での総セールスは、女性アーティスト最高の3億枚以上を記録し、『ギネス・ワールド・レコーズ』では「全世界で最も売れた女性レコーディング・アーティスト」、そして「史上最も成功した女性アーティスト」と認定されているマドンナ。

 一方で恋多き女性としても知られている愛称は代表曲から来た「マテリアル・ガール (Material Girl)」、または「ポップスの女王」とも言われる。

マドンナ/ラ・イスラ・ボニータ(1986年)


マライヤ・キャリー

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 日本では特に人気が高いと言われるマライヤ・キャリー(写真)だが、あまり彼女の音楽は知らない。どうしてそうなのかは分からない。

 彼女の持つ18曲全米No.1シングル(Billboard Hot 100)はビートルズに次いで歴代2位で、女性アーティストとしては1位であり、ソロ歌手としてはエルヴィス・プレスリーと並ぶ歴代1位である。

 シングルとアルバムの全世界での総セールスは、2億枚以上2009年12月に米のビルボードが発表した、2000年代(過去10年)アメリカでの最大ヒット曲と最もラジオで流れた曲で 「We Belong Together」(2005年)が1位になった。

 その他にも俳優(女優)としての受賞を含め、グラミー賞、American Music Awards、Billboard Music Awards、などの4大音楽賞を含め数々の受賞歴がある。 

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 「ワン・スウィート・デイ」(1995年)は、 マライア・キャリーとボーイズIIメン(写真)により作られたアルバム『デイドリーム』のセカンド・シングルとしてリリースされ、全米総合シングルチャートBillboard Hot 100にて初登場1位、更に16週連続で1位を記録し、ロングランヒットとなった。このHot 100 16週連続1位は、ルイス・フォンシ&ダディー・ヤンキーの「Despacito」(2017年)と並び、ビルボード史上歴代最長タイ記録となっている。 また90年代の音楽界を代表する曲であり、米ビルボードが発表した90年代に最もヒットした楽曲の1位に選ばれている。

マライヤ・キャリー&ボーイズⅡメン/ワン・スウィート・デイ(1995年)
 

ホイットニー・ヒューストン

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 ホイットニー・ヒューストン(写真)累計セールスはアルバムが1億4,000万枚以上、シングルは5,000万枚以上で、アメリカ合衆国のRIAA(レコード協会)より「アメリカ合衆国で(女性アーティスト史上)、バーブラ・ストライサンド、マドンナ、マライヤ・キャリーに続いて4番目に売れている歌手」と評価されている。

 また、音楽雑誌「ローリング・ストーン」によりその声を「強力で鋭いポップ・ゴスペル」といわれ、オール・タイムの素晴らしい歌手100人の内の1人であると評価された。

  しかしアルコール・薬物依存や、2012年1月には破産寸前であると報じられる など、さまざまな問題が続いていた。

  2012年2月11日に、カリフォルニア州ビバリーヒルズにあるビバリーヒルトン・ホテル4階客室の浴槽の中に倒れていたところを発見され、心臓発作のため死亡した。48歳没。

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 ホイットニーは、グラミー賞の授賞式を翌日に控え、これまでに彼女やアリシア・キーズ、アース・ウィンド&ファイアー、ブルース・スプリングスティーン、パティ・スミス、シカゴ、ジャニス・ジョプリンなど錚々たるアーティストのキャリア育成に携わり、数え切れぬほどのヒット曲を全世界へ送り込んできているプロデューサーのクライヴ・デイヴィス(86歳、写真)が主催する恒例の前夜パーティに参加するために、同ホテルに滞在していた。 

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 「オールウェイズ・ラヴ・ユー」は、ドリー・バートン(72歳、写真)が1974年に発表したカントリー・ナンバーで、ホイットニーが1992年に主演した映画「ボデイガード」の主題曲として歌い、全米第1位、1993年のグラミー賞2部門受賞に輝いた。

ホイットニー・ヒューストン/オールウェイズ・ラヴ・ユー(1992年)
  

シンディ・ローパー

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 シンディ・ローパー(写真)は、デビューから現在まで変わらないパワフルなアーティスト活動や独自のファッションから「永遠のガール」と称されている。ハイトーンで、高い肺活量を持つ。地声もハイトーンで子供のような可愛らしい声をしている。

 奇抜な髪型や髪色が特徴で、黄色に赤色を指した髪色が有名であり、しばらく黄色に染めたり、黄色のボブカットのカツラを使用していた。曲によっては赤色にも染めていた。現在はシルバーや白に近い色に染めている。このヘアスタイルは後に女性アーティストに多大なる影響を与えている。

 ところで、音楽ファンだとご存知の方も多いかもしれないが、彼女は親日家で、片ことの日本語も喋れる。

 それは、彼女が高校を退学し、定職もなくブラブラしていた時、ニューヨークの「ミホ」というジャパニーズレストランを経営している鈴木サクエさんという日本人女性と出会い、「それじゃ駄目だから自分の店で働きなさい」と誘われ、そこで働いたことがあったからである。
 
 鈴木さんは常にシンディに「いつか売れる日が来るから頑張りなさい」と激励をしていたという。この鈴木との出会いがシンディを超親日家とも言えるほどの日本贔屓にさせるきっかけとなったそうである。 

 1989年、 「夜のヒットスタジオ」に出演した際、番組では内緒で鈴木を探し出し、シンディの来日とは関係なくたまたま偶然に諸事情で日本に帰ってきていた鈴木とシンディはスタジオで再会を果たした。シンディは感激のあまり歌う前に涙ぐんでしまった。

  そして、東日本大震災2011年3月11日)の直後、日本でのコンサートツアーのために来日(彼女の乗った飛行機は地震による閉鎖のため成田空港に降りられず、米軍横田基地に着陸した)。空港からホテルまで10時間もかかったそうだ。

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 他の海外ミュージシャンが日本での公演を中止して帰国ないし、来日をキャンセルし、レコード会社からも帰国するように勧めら­れていた中、「私を迎えている日本に背を向けて帰るなんて考えられなかった」とし、予定通り東京と大阪でコンサートを行った。(写真)
 
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 16日~18日、東京・渋谷Bunkamuraオーチャードホールで予定通り3日間の公演を果たした。「日本人は強い人たち。この困難に向かい合い、乗り越えるでしょう」と客席にエールを送り、本人の希望でロビーには募金箱も設けられた。(写真)
 
 初日の16日は午後7時に開演。数曲歌うと「ツライ1週間を少しの間忘れて欲しい」と語りかけた。「日本からインスピレーションを貰ってきた。ファッション、音楽、おもちゃへの愛、ユーモア、寛容さ…。アリガトウゴザイマス」
 
 終盤では、「タイム・アフター・タイム」(1984年)の最後の歌詞「あなたが倒れたら私が支える、待っている、いつだって(和訳)」を歌い終えると、目頭を押さえたそうである。
 

 計16曲、約2時間のライブ。ラストは「真の力を忘れないで。(胸を指し)ここと、(頭を指し)ここ。考え、語り、聞くために、私たちが与えられた贈り物。私もそれを忘れないように頑張るから」と結んだ。

 大阪滞在時には、
音楽評論家・湯川れい子へ「こういう時こそ、日本にくることが出来て、私の人生の中でも名誉なことでした。ありがとう」と綴ったメールを送っている。
 
 「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」 (Girls Just Want to Have Fun、1983年) は、シンディ・ローパーのソロ歌手としての最初のメジャーシングル曲。世界的なヒット曲になった。日本でのシングル発売時のタイトルは「ハイ・スクールはダンステリア」であったが、後に原題を片仮名表記したタイトルに修正された。
 
 シングルは10ヵ国以上で1位になり、15ヵ国以上でトップ10に入った。1位になったのは、オーストラリア、ブラジル、カナダ、チリ、アイルランド、イスラエル、日本(オリコン洋楽シングルチャートで1984年4月30日付から3週連続1位)、ニュージーランド、そしてノルウェーである。イギリスとアメリカでは2位になった。
 
シンディ・ローパー/ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン(1983年)


ティナ・ターナー

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 ティナ・ターナー(写真)の芸歴は50年以上に及び、幅広い層のファンに認められており、多くの受賞歴を持つ。

 アメリカ南部に生まれ南部で育ち、現在はスイスの市民権を持っている。2018年8月には高血圧性腎不全により透析が必要となったが、夫のErwin Bachがドナーとなり、腎移植を受けた。なお腸にも初期の癌や悪性に近いポリープがあるが治療の詳細は不明。

 世界中で最も人気のある芸能人の一人として、彼女は「ロックンロールの女王」とも呼ばれている 。ティナ・ターナーは、「最も成功した女性ロック・アーティスト」と呼ばれてきた。8度のグラミー賞に輝き、歴史上の他のどのソロ・ミュージシャンよりも多くのコンサート・チケットを売り上げてきた。

 ターナーの全世界でのアルバムとシングルの売り上げ枚数は、総計でおよそ2億枚を数える。ステージ上でのその精力的な演技と力強い歌声、そして彼女の経歴の長さは非常に有名である。1991年にはロックの殿堂入りを果たしている。 

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 後に夫となるアイク・ターナーに見出され、1960年にアイク&ティナ・ターナー(写真)としてデビュー。野性的でパワフルな歌唱と激しいステージングで人気を博したが、夫アイクの暴力や麻薬中毒が深刻になり離婚。契約上の問題からアイク&ティナ・ターナー時代の曲を歌うことができず、1970年代後半は不遇をかこっていたが、1980年代に奇跡的な復活を遂げた。
 

 ほとんどの女性は30代でやり直すのは手遅れだと考えているようだけれど、私はそうは思わないわ。誰もが自分の人生を自分で作るべきなのよ。

 年齢じゃない。大事なのはその人の生きていく姿勢なのよ。

 (ティナ・ターナー著「ティナ・ターナー、愛は傷だらけ」より)


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 その後、ターナーは半ば引退していたが、
2008年2月に、グラミー賞の授賞式でビヨンセと一緒に出演し、正式に復帰し、ティナ・ターナー50周年記念ツアー」を行い、2008年から2009年にかけて、そのツアーは、最もチケットの値段が高いショーのひとつとして知られることになった。(写真)

 「プラウド・メアリー」(Proud Mary)は、CCRのリードギター・リードボーカルを務めていたジョン・フォガティの作曲で、フォガティが1969年に発表したアルバム「Bayou Country」に収録された。

 この曲は多くのアーティストにカバーされているが、1971年の、アイク&ティナ・ターナーによるカバーが最も有名で、ティナ・ターナーの代表曲の一つとなった。
  
 これは69歳(2009年)のときの映像である。とても69歳とは思えない若さ。2013年、彼女が73歳のとき16歳年下の男性と結婚している。

ティナ・ターナー/プラウド・メアリー(1971年) 



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