2回に分け、イントロが印象的な日本の歌謡曲と題して、鍵盤楽器と管楽器で始まる曲を紹介した。
●トランペット
特に日本のムード歌謡には、トランペットの前奏が流れる曲が多い。
■ムード歌謡
ムード歌謡とは、昭和30年代~昭和40年代(西暦でいうと、1955年~1974年)に全盛を誇った、歌謡曲の1ジャンルで、曲調からは演歌ともいえず、むしろラテン、ハワイアン、ジャズなどの洋楽的要素を取り入れて、大人の雰囲気を漂わせたような作品を指す。コーラスを主体としたものをムードコーラスと呼ぶことがある。
ムード歌謡にはいくつかのパターンがある。
(1)コーラス・グループ(2)石原裕次郎、フランク永井など、特定の歌手
(3)いわゆる「ご当地ソング」(4)「~ブルース」「~の夜」 (3)と(4)が重なっていればほぼ「鉄板」(5)男女デュエット曲
上記の(3)と(4)にあるように、ご当地ソングに多い「~ブルース」とか、「~の夜」という曲のほぼ全てはムード歌謡だ。
ここでの「ブルース」は、本来のブルースとは違い、「憂鬱(Blue)な気持ちを歌った曲」という意味合いが強い音楽である。
ちなみに、「ブルース」という名のつくご当地ソングは、下図の通り。
北から稚内、旭川、札幌、中の島(札幌)、すすきの(札幌)、函館、秋田(川反)、盛岡、新潟、香林坊(金沢)、前橋、北埼玉、東京、新宿(東京)、歌舞伎町(東京)、山谷(東京)、銀座(東京)、渋谷(東京)、三鷹(東京)、横浜、伊勢佐木町(横浜)、長者町(横浜)、釜利谷(横浜)、本牧(横浜)、熱海、糸川(熱海)、城ヶ崎(静岡)、柳ヶ瀬(岐阜)、名古屋、東新町(名古屋)、京都、加茂川(京都)、大阪、宗右衛門町(大阪)、道頓堀(大阪)、三ノ宮(神戸)、広島、芦田川(広島)、博多、玄海(福岡)、長崎、思案橋(長崎)、西海(佐世保)、奄美大島、沖縄など。
「~の夜」は、釧路(美川憲一)、帯広(山本ひろし)、池袋(青江三奈)、熱海(箱崎晋一郎」)金沢(都はるみ)、長崎(瀬川瑛子)などだ。
■森進一/港町ブルース
「港町ブルース」の作詞は、雑誌『平凡』により募集された歌詞になかにし礼が補作、猪俣公章(1993年、55歳で没、写真)が作曲した。
歌詞中には北海道函館市を皮切りとして、鹿児島県枕崎市まで日本列島を南下するように多くの港町が登場している。(下図)
またその町々に港湾があるのみでなく、函館、宮古、釜石、気仙沼、八幡浜、枕崎には「港町」と名の付く町名が実在する。
発売されて2週間余りでオリコンチャートのベストテンに初登場し、5週間にわたり第1位にランクされるなど、森進一(71歳、写真)のシングル盤では最高の売上を記録。250万枚と言われるミリオンセラーとなった。(Wikipedia参照)
*奇しくも本日、11月18日が森進一さんの誕生日。おめでとうございます。![]()

伍代夏子他/港町ブルース(1969年)
平和勝次とダークホース/宗右衛門町ブルース(1972年)
秋庭豊とアローナイツ/中の島ブルース(1973年)
■西田佐知子/アカシアの雨がやむとき
1960年1月の「日米安保条約」調印を発端とした安保闘争後、反対運動の成果ゼロという結果に疲れた若者たちが西田佐知子の乾いたボーカルと廃頽的な詞に共鳴し、歌われたことで広まっていった、というものである。
そのため、テレビ番組では当時の世相を反映する楽曲として、安保闘争(とりわけ樺美智子死亡による抗議デモ)の映像のバックで流れることがある。
そのため、テレビ番組では当時の世相を反映する楽曲として、安保闘争(とりわけ樺美智子死亡による抗議デモ)の映像のバックで流れることがある。
西田佐知子/アカシアの雨がやむとき(1960年)
■西田佐知子と関口宏
そして、1982年発売の「テレビを見ている女」を最後に、専業主婦になった。
ところで、彼女が歌手として活躍していた頃から30年以上経っているので、もう若い人は知らないだろうが、この曲だけは聴いたことがあるのではなかろうか。
「やっぱり俺は菊正宗」(作詞:永六輔・作曲:中村八大)は正式タイトルが「初めての街で」という曲だが、1975年にCMで使って以来、長い間西田佐知子の歌で親しまれてきた。これもイントロでトランペットの音色が活躍している。
西田佐知子/初めての街で(1979年)
■園まり/逢いたくて逢いたくて
1966年にリリースされ、空前の大ヒットとなり、同年、6月には彼女自身も歌手役で出演する同名タイトルの日活制作の映画が上映された。
原曲はザ・ピーナッツの7枚目のシングル「手編みの靴下」(1962年)で、作詞者の岩谷時子が新しい歌詞をつけたリメイク版であるが、その曲は平野愛子の「港が見える丘」がベースとなっている。
その後「夢は夜ひらく」「何んでもないわ」「愛は惜しみなく」と、たて続けに大ヒットを飛ばし、園まり節と呼ばれる甘く囁くように歌う独特の歌唱法で、一世を風靡した。
1966年~1967年、マルベル堂のブロマイド売り上げ女性歌手第1位にもなったことがある。
1990年代に一時、芸能界を退いていて、伊東ゆかりによると、園まりは再結成には難色を示していた。渋る彼女にメールやファクスで、6年がかりでくどき、40年ぶりの2004年に再結成。2005年より「3人娘 Again Dream Concert Tour 」と称して全国ツアーを展開している。
園まり/逢いたくて逢いたくて(1966年)
■西郷輝彦/星のフラメンコ
西郷は1966年2月にヨーロッパを旅行した際、スペインの首都マドリードで鑑賞したフラメンコに感動し、本人曰く「猛烈なリズムにシビレてしまった」。洋行から帰国した西郷が、挨拶で訪れたソングライターの浜口庫之助邸にて、本場のフラメンコを観た感動をそのまま話すと、浜口はちょうどそのころ西郷の新曲を制作する準備に入っていたことを明かし、両人とも新曲をフラメンコのリズムで制作することで意見が一致し、浜口の作詞・作曲により曲が完成。西郷の代名詞ともいうべき曲となった。
同年、日活が西郷を主演に本曲をモチーフにした映画『遙かなる慕情 星のフラメンコ』(監督・森永健次郎、脚本・倉本聰、1966年)を製作し、全国ロードショー公開している。
西郷輝彦/星のフラメンコ(1966年)
■テレサ・テン/空港
彼女自身生前軍隊への慰問活動を熱心に行っていたこともあり、台湾では「軍人の恋人」というニックネームがついていた。
文化大革命(1966年-1976年)や天安門事件(1989年)にも出会い、民主化運動のシンボルとして奉られる一方、中国共産党からも利用され、「二つの中国」のはざまに翻弄された人生だった。
日本での活動は、1979年、日本入国の際に違法の手続きで取得したインドネシアのパスポートを使用したことが発覚、国外退去処分になったときを挟んで、前半と後半に分かれる。
前半は1974年、既に台湾や香港で成功をおさめていたので交渉は難航したが、当時の日本ポリドールレコード制作部長の舟木稔の熱意が実り、「今夜かしら、明日かしら」という曲でデビューを果たした。
次作、「空港」が大ヒット、日本レコード大賞新人賞を獲得、このヒットにより彼女の名前は日本全国に知れ渡った。
後半は、国外退去から5年後の1984年再来日から、1987年に住居を香港に移すまでの3年間。
レコード会社をトーラスレコードに移籍、日本でリリースした「つぐない」「愛人」がそれぞれ150万枚、「時の流れに身をまかせ」が200万枚を売る大ヒットとなる。
テレサ・テン/空港(1974年)