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江戸に学ぶ・江戸の三ない主義【その3】

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 いよいよ本題だが、依然として下書きが途中で切れて投稿できない状況が続いている。このブログも、今回が【その3】最終回だが、本当は一つの原稿だった。

 全部書き終わって「やったー」と思って確認ボタンを押すと、相変わらず途中から文字が消えている。その切れたところから2作目にしたのだが、2作目がまた途中から切れているのを確認せず、それが、原稿を保存していなかったので、切れた先の文章が消えて無くなってしまった。

 それで、内容を思い出しながら改めて3作目を作ったという「とほほ」の状態で作成した次第です。疲れた~

江戸っ子の生き方の基本は 三ない主義
 
  杉浦日向子さんがテレビでの解説や、著書で愛情を込めて紹介した庶民の生きざまが、「粋」であり、「三ない主義」だった。

実用外の贅沢、すなわち「無用の贅」こそが、の本質
江戸っ子の基本は、持たない出世しない悩まないの三無い主義

 については、以前、江戸ことばと江戸しぐさ【その1】江戸ことばと江戸しぐさ【その2】江戸ことばと江戸しぐさ【その3】を投稿したことがあるので、今回は「三ない主義」についてのみ紹介したい

 なお、彼女は、今の日本人は、この「三ない主義」の三つを、全部持とうとしている』と言っている。

 モノをいっぱい持とうとし、出世しようとし、悩もうとしている」ということだ。

 それが、返って重圧を与え、ストレスを生んでいるのだろう。

 ついでながら、先の自民党総裁選挙など一連の国会議員の行動を指して、「議論なし、批判なし、思想なし」「現代版三ない主義」と呼ぶらしい。(注:一般的な言葉ではありません)

  どうやら、「選良」という言葉はどこかに吹っ飛んでいったようだ。

1.持たない

 江戸っ子は「宵越しの銭を持たない」と言うが、正確に言うと、泥棒も入らないほど貧乏で持てない。つまり、物は持とうにも持てない生活だった。

 「火事と喧嘩は江戸の華」と呼ばれるほど、火事になることも多かったが、質素な住環境については、何もないだけに、いつ焼けて無くなってもいいように心の準備が出来ていた。

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 江戸の庶民のほとんどは長屋住まい(写真)だった。

 路地裏にある10軒ほどの長屋は、戸を開けるとすぐに台所で、6畳一間の座敷には押し入れが無い。

 食卓もなかった。あったのは、「箱膳」(下写真左)と呼ばれるもので、椀や箸など、食事に必要な一式がおさまる小さな箱型の膳を、使っていた。食事時には中から椀など必要な物を取り出し、ふたを逆さにして箱に乗せる。これが、食卓代わりになり、食事が終わると、食器を箱に戻してふたをし、台所に片付ける。

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 ちなみに、漫画「巨人の星」の主人公・星飛雄馬の父親のちゃぶ台返しで有名な「ちゃぶ台」(写真)の普及は、ずっと後のことだ。

 1887年(明治20年)ごろより使用されるようになり、1920年代後半に全国的な普及を見たという。

 風呂は湯屋銭湯風呂屋写真左から二番目)。便所写真右から二番目)、井戸(写真右)は共同で、井戸の形はしていても、使う水は神田川からの上水道だった。

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 しかし、貧乏でも職人や商人の子供は寺子屋(写真)に通って読み書きを習い、当時いわゆる識字率が世界一だったと言われる。

 しかも、寺子屋というのは幕府が教育制度として定めたものではなく、庶民たちが自主的につくったものである。もちろん、武士たちには藩校という藩の教育機関があって、そこで武士道や儒教を学んでいたが、庶民たちは自分たちで寺子屋をつくって、先生を呼んできて子どもたちに学ばせていた。読み書きそろばん、それから仏教の基礎的な教え、そういったことはみんな寺子屋で学んだというのが大きな特長だ。

2.出世しない

 江戸では、頑張るは我を張る、無理を通すという否定的な意味合いで、ではなかった。
持って生まれた資質を見極め、浮き沈みしながらも、日々を積み重ねていくことが人生だと思っていた。

 また、長屋住まいの多くは職人で、働けば貰える日当でその日暮らをしていた。

 なまじ偉くなっても気苦労が多くてかなわない武家社会ではなく、職人の大部分は序列などには目もくれず、「腕を磨く」ことに精力を注いでいたのだ。

3.悩まない

 江戸の庶民には、気軽・気楽さが何よりという考え方があったようだ。「出世しない」は気軽さの一番の敵だというのもそうだ。

 開国後、日本を訪れた外国人は、日本人の教養や礼儀正しさだけでなく、こうした自由奔放さにも、驚いたようだ。そして毎日を楽しみながら生きているその姿を、皆、羨ましがったという。

 起こってしまったことでくよくよしても、仕方ない。「寝ちまえ、寝ちまえ。寝て起きれば別の日だ」という考え方である。

 「明日は明日の風が吹く」という言葉があるが、これは、「江戸の常識」から始まり、その人生哲学は脈々と受け継がれ、次の、青島幸男作詞の植木等坂本九の歌を生んでいる。

                      植木等/だまって俺について来い(1964年)


坂本九/明日があるさ(1963年)



江戸時代の総括

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 中谷巌「日本の復元力~歴史を学ぶことは未来をつくること~」(ダイヤモンド社、2010年、写真)の記事から引用してみよう。

 【日本の復元力~経済的にも文化的にも庶民階層が主人公だった江戸時代】

明治の近代化は江戸庶民社会の賜物?

  江戸時代の「身分制度」とヨーロッパの「階級社会」は何が違ったのか。なぜ日本は短期間での近代化や制度改革を実現出来たのかについて言及している。

 江戸時代、身分制度は確かにあった。だから、不平等がまったくなかったわけではない。

 しかし、実態的に見ると、武士は志を高く持って困窮に耐え、商人は身分は低いが経済的には裕福であるというある種のバランスの取れた社会構造だったので、庶民が支配階級である武士階級にとてつもなく痛めつけられて悲惨な生活を強いられたという「階級社会論」は当てはまらない。ここが、一部の特権階級と大多数の下層階級から或るヨーロッパの階級社会との大きな違いである。

 これでもか、これでもかと搾取される社会であれば、搾取される側は「いくら働いてもみんな取られてしまうんだったら、さぼっていたほうがいい」と開き直ってしまうだろう。あるいは、心がすさんで当事者意識をなくし、「隙あらば悪いことでも何でもやってやろう」という気持ちになるかもしれない。

  しかし、日本の江戸時代はそういう構造ではなかった。支配階級の武士たちが威張り散らし、庶民から無理やり奪い取るということもあまりなく、むしろ庶民のほうが元気だった。庶民たちは、自分たちこそ社会の主人公だという意識すら持っていたのではないだろうか。現に、歌舞伎浄瑠璃浮世絵落語など、いろいろな文化が生まれているが、これらはすべて庶民がつくり出したものである。

 庶民が自分でつくり、自分で楽しむ。室町時代の文化、武家中心の「詫び」「寂び」という文化を土台にしながら、自分たちに合うエンターテイメント性の強い文化を江戸庶民たちがつくっていった。それが江戸という時代の大きな特徴である。

 日本以外の先進国でこのような文化・芸術活動の中心部分が庶民層によって担われる社会を読者はご存じだろうか。(中略)日本の江戸時代のように、庶民が大きなパワーを発揮して文化を築き上げたという話など、寡聞にして聞いたことがない。

 そういう意味で、経済的にも文化的にも庶民階層が主人公になったという、極めて特異な社会ができ上がった。これが江戸という時代の大きな特徴であるのだが、さらに、江戸の庶民を語るときには寺子屋の存在を忘れるわけにはいかない。江戸時代も後期になると、庶民たちも少しばかり余裕が出てきたのだろう、自分の子どもを寺子屋に通わせるような親が増えてきたからである。(中略)

 こうやって江戸時代を眺めてみると、江戸時代は巷間言われているような暗黒時代などでは決してなかったことがわかる。もちろん、一部には理不尽なこともあったろう。しかし、全体として見た場合、庶民階級が実質的に文化創造者の役割を担うという、極めてユニークな歴史を刻んだのが江戸時代であった。 (中略)

  思うに、こういった庶民中心の社会こそがまさに日本であり、それが日本の近代化や経済発展の原動力になったのである。一般庶民はエリートではない。けれど、基礎的なことはきちんと理解している。しかも、何と言ってもやる気がある。自分たちが何とかするんだという当事者意識もある。それは江戸時代までの歴史の中でつくり上げられてきたものであって、維新後の近代化のスピードが異様なほどに速かった理由はここにある。つまり、それだけのベースがすでに築かれていたわけだ。

 もし、日本の江戸時代がヨーロッパの階級社会のように、庶民がしいたげられているだけでやる気のない、ただふてくされているような存在だったら、あんな急速な近代化なんてとてもできる相談ではなかっただろう。明治維新から30年足らずで日清戦争、40年足らずで日露戦争を戦い、幸運も幸いしたことは間違いないが、何とか2つとも勝つことができた。それもやはり江戸という文化蓄積の時代があったからこそであろう。

 そしてこれは現代社会にも繋がっている。

 今、日本では富が一部に集中して、ぶ厚かった中産階級が消滅しかけている。

 近代の政治・経済システムとそれらを支えてきた近代思想がその限界を露呈した今こそ、こうした江戸期の諸制度、諸文化の見直し、市民の主体性と、そこに宿る精神や可能性を再評価する事で、将来の突破口が見いだせるのではないだろうか。

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