加山雄三特集の最終回。
●エレキサウンド・ブームの先駆け
■少年時代
加山雄三が、初めて楽器に出会ったのは8歳(1945年)のときであったというから驚かされる。8歳になったある日、加山邸を訪問した親戚がオルガンを弾くのに興味をもち、それを弾く指使いだけをみてバイエルをこなすようになったという。
赤ん坊の時に、デキシーランド・ジャズやジョー・ダ二オルスのドラム・ソ口を子守唄に眠ったというエピソードも、戦前の日本の家庭では奇跡的な出来事だった。
父は俳優の上原謙(1909-1991年、82歳で没)、母は女優の小桜葉子(1918-1970年、52歳で没)で、しかも母方の高祖父は明治の元勲・岩倉具視というサラブレッドの家庭環境に育ったことが、彼のオ能を豊かなものにさせた。
大学に進学した加山は、同じ学校の仲間達と小遣い稼ぎのために1957年、20歳の時に6人編成の「カントリー・クロッブス」(写真)という学生バンドを結成。彼は、サイド・ギターとボーカルを担当した。
バンドの練習場所は加山の自宅が多かったようだが、たまたま加山邸を訪間した、後に「ザ・ワイルドワンズ」のリーダー・加瀬邦彦(当時高校2年、2015年、74歳で自死、写真)が、その練習を見て音楽に興味を覚え、加山にギターの弾き方を教わることになった。加瀬とは加山が『野生児』という意味を込め、ワイルドワンズの名付け親になったりと、60年にも及ぶ親交があった。【加瀬邦彦逝く(2015/4/27)】
1960年3月、慶応義塾大学法学部卒業。同年5月1日、東宝と専属契約を結ぶ。8月14日、三船敏郎他出演映画「男対男」にてデビュー。1961年7月、映画「大学の若大将」出演。レコード「大学の若大将/夜の太陽」にて東芝レコードより歌手デビュー。
■ランチャーズ結成
加山のバンド「ランチャーズ」が結成されたのは1962年のこと。加山雄三主演の「若大将シリーズ」が始まったころ、東宝の藤本真澄プロデューサーからの声がかりで、当初は二瓶正也や津田彰ら、俳優仲間や撮影所のスタッフを集めて活動を始める。加山が好きな船が進水する(Lunch)という意味で命名した。
第一期(結成当初)のメンバーは、加山雄三、二瓶正也、津田彰、佐竹弘行、三木敏彦、速水洸の6人。東宝の俳優らを中心メンバーにしてスタートしたが、それぞれの本業が忙しくなり、活動が困難になったため、一旦活動を停止する。
1964年、加山雄三は従弟の喜多嶋瑛(現在70歳)、喜多嶋修(現在69歳、妻:内藤洋子、娘:喜多嶋舞)の兄弟と、大矢茂(現在69歳)の4人で、第二期ザ・ランチャーズを再結成した。ランチャーズ初のレコードは『エレキの若大将』の挿入歌として「君といつまでも」と同時に発売されたシングル「ブラック・サンド・ビーチ」(1965年)だった。
1967年、GSブームのさなか、多忙な加山雄三の代わりに渡辺有三(2014年、64歳で没)が加入、第三期ザ・ランチャーズを再結成。同年「真冬の帰り道」をリリース。独立デビューを果たし、ランチャーズはグループサウンズ(GS)として生まれ変わっていった。
ランチャーズ/真冬の帰り道(1967年)
1969年暮れには喜多嶋瑛が当初からの希望である大学卒業を控えて現役を退き、彼の後釜として元「ホワイト・キックス」の河手政次(2003年、55歳で没)を迎え入れた。ランチャーズとして6曲のシングル、2枚のアルバムをリリースしたが「真冬の帰り道」以上のヒットには恵まれず、1970年3月にリリースしたシングル「マドレーヌ」を最後に活動を停止した。
後にランチャーズは、1994年7月、島英二を始めとするザ・ワイルドワンズのメンバーらによりランチャーズの名を冠する「加山雄三&ハイパーランチャーズ」が結成された。
■ベンチャーズ
1965年、ベンチャーズの再来日とともにエレキ・サウンドは大ブレイク、加山雄三の主演映画「若大将シリーズ」の「エレキの若大将」もヒットする。
1965年は、カヴァーポップスの時代が終わり、加山雄三の若大将シリーズが始まり、フォークルが結成され、そして青春歌謡が真っ盛りのときだった。GSブームが到来したのは、翌年の1966年からだった。
得意の英語で、ギター・テクニックの話、作曲の話、音楽の話、映画の話と話題はつきることなく、すっかり意気投合した。時間は無情に過ぎ、別れの時が来た。
帰り際、加山雄三はベンチャーズに一本のテープを渡した。すべてオリジナルで、自らの演奏によるものだった。その数曲の中で、ベンチャーズをビックリさせる曲があった。
「ブラック・サンド・ビーチ」(1965年)である。
加山が「急がば廻れ(ウォークドントラン)」のコード進行を逆にして作曲した「ブラックサンドビーチ」は日本のエレキサウンドの名曲である。
「ベンチャーズ・サウンド」で、当時このようなエレキ・サウンズで特にインストゥルメンタル・レコードを日本人が作曲、発売するとは思ってもいなかったようだ。
それが、後に【ベンチャーズ歌謡(2013/4/28)】を生む要因になった。
Black Sand Beach The Ventures with Kayama Yuzo
●若大将シリーズ
1.大学の若大将(1961年、監督:杉江敏男)
2.銀座の若大将(1962年、監督:杉江敏男)
3.日本一の若大将(1962年、監督:福田純)
4.ハワイの若大将(1963年、監督:福田純)
5.海の若大将(1965年、監督:古澤憲吾)
5.海の若大将(1965年、監督:古澤憲吾)
この作品で歌われた弾厚作作曲、岩谷時子作詞、森岡賢一郎編曲の「恋は紅いバラ」「君が好きだから」もレコードがヒットし、ここに至って若大将シリーズは確固たる地位を築いた。
加山雄三/恋は紅いバラ(1965年)
6.エレキの若大将(1965年、監督:岩内克己)
若大将シリーズを代表する作品のひとつで、「エレキの神様」寺内タケシがそば店員役で(若大将のバンドで共演)、のちの加山夫人松本めぐみが別のバンドで、内田裕也がエレキ合戦の司会者で出演。
加山雄三&寺内タケシ エレキの若大将(1965年)より
加山の代表作である「君といつまでも」が挿入歌として歌われたが、このレコードが300万枚を売り上げるミリオンセラーとなり、加山雄三ブームといえる現象を生みだした。
7.アルプスの若大将(1966年、監督:古澤憲吾)
イーデス・ハンソン、トニー・ザイラー、デビッド・ジョーンズが出演した。
8.日劇「加山雄三ショー」より歌う若大将(1966年、監督:長野卓)
8.日劇「加山雄三ショー」より歌う若大将(1966年、監督:長野卓)
「大学の若大将」から「ハワイの若大将」までの名場面集&タヒチで遊ぶ加山のプライベートショットで構成される。
9.レッツゴー!若大将(1967年、監督:岩内克己)日劇で開催された「加山雄三ショー」& 「お嫁においで」が、若大将シリーズで歌われるのはこの作品だけである。
10.南太平洋の若大将(1967年、監督:古澤憲吾)
11.ゴー!ゴー!若大将(1967年、監督:岩内克己)
12.リオの若大将(1968年、監督:岩内克己)
13.フレッシュマン若大将(1969年、監督:福田純)
14.ニュージーランドの若大将(1969年、監督:福田純)
15.ブラボー!若大将(1970年、監督:岩内克己)
16.俺の空だぜ!若大将(1970年、監督:小谷承靖)
9.レッツゴー!若大将(1967年、監督:岩内克己)日劇で開催された「加山雄三ショー」& 「お嫁においで」が、若大将シリーズで歌われるのはこの作品だけである。
10.南太平洋の若大将(1967年、監督:古澤憲吾)
11.ゴー!ゴー!若大将(1967年、監督:岩内克己)
12.リオの若大将(1968年、監督:岩内克己)
13.フレッシュマン若大将(1969年、監督:福田純)
14.ニュージーランドの若大将(1969年、監督:福田純)
15.ブラボー!若大将(1970年、監督:岩内克己)
16.俺の空だぜ!若大将(1970年、監督:小谷承靖)
有島一郎はじめ伴淳三郎、左卜全、上田吉二郎、北竜二ら昭和の名脇役たちが多数登場した(特に最後の若大将シリーズ出演となった左卜全は、銭湯でオールヌードを披露し、『老人と子供のポルカ』を口ずさむ)。
17.若大将対青大将 (1971年、監督:岩内克己)
17.若大将対青大将 (1971年、監督:岩内克己)
18.帰ってきた若大将 (1981年、監督:小谷承靖)
「若大将になるために生まれてきたのかな」としみじみ語る“現代の若大将”は、平成の世でも色褪せることなく人々を魅了してやまない。
●最近のコンサート
●最近のコンサート
幸せだなぁ。若大将一夜限りの”全箇所”スペシャルライブ~BIGなスペシャルゲストが駆けつける!?~
1月から始まった全国ツアーの最終日だった。