(相変わらずブログの調子がおかしい 。書いた記事が途中までしか反映しない。それでまたしても前作「歌って踊れる歌手・グループ【その4】」の続編を)
●エルヴィス・プレスリー
初期のプレスリーのスタイルは黒人の音楽であるリズムアンドブルースと白人の音楽であるカントリー・アンド・ウェスタンを掛け合わせたような音楽といわれている。それは深刻な人種問題を抱えていた当時のアメリカではありえないことであり、画期的なことであった。
1950年代のアメリカでは音楽も人種隔離的な扱いを受けている部分が多く残っており、当時のロックンロールのヒットソングも黒人の曲を白人がカバーし、そのカバー版が白人向けの商品として宣伝され、チャートに掲載され、またラジオなどで流れる傾向にあった。たとえ同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人が歌えばリズム・アンド・ブルースに、白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタンに分類されることが常識だった。プレスリーは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として発掘された。
1970年代、プレスリーがツアーをはじめた時、ツアー先の白人プロモーターから「黒人娘(コーラスを務めた“ザ・スウィート・インスピレーションズ”のことを言ったものだが、実際にはもっとひどい差別的な言い方をされた)は連れてこないでくれ」と連絡を受けたことが度々あった。プレスリーは「彼女たちを来させないなら僕も行かない」と言い張り、向こうが謝罪し、多額のお金を積んだが、絶対に行かなかった。
「エルヴィス・プレスリー ロックンロール伝説」(フロム・ビー、河出書房新社)(写真)によると、プレスリーは4つの時代に分けられるという。
1.あらゆる音楽を吸収しながら成長した少年時代:1935年~1953年(18歳)
2.時代を駆け抜けたキング・オブ・ロックンロール:1954年(19歳)~1957年(22歳)
1.あらゆる音楽を吸収しながら成長した少年時代:1935年~1953年(18歳)
2.時代を駆け抜けたキング・オブ・ロックンロール:1954年(19歳)~1957年(22歳)
3.銀幕のスターを演じながら進むべき道を模索:1958年(23歳)~1967年(32歳)
4.歌に人生を掲げた円熟のステージ:1968年(33歳)~1977年(42歳)
作詞・作曲は、「ハウンド・ドッグ」と同じくジェリー・リーバーとマイク・ストーラーのコンビ。歌詞の内容はラヴ・ソングではなく、州立刑務所のバンドをテーマにしたパーティー・ソング。全米チャートでは7週間に渡って1位、全英チャートでは3週間1位となり、イギリス史上初のシングル・チャート初登場で1位を獲得した曲となった。
Elvis Presley/Jailhouse Rock(1957年)
プレスリーは、32本の映画出演作(ドキュメンタリーは除いて)全てが主役という驚異的な記録を残している。上記の期間では、4作を除いてNo.3に属する。
歌手として有名になっていくにつれて、映画配給会社数社から出演の依頼がプレスリーのもとに届いた。プレスリーは大変喜んで、劇場に通いつめ、演技を独学で勉強した。
陸軍入隊前までの1958年までに4作の映画が製作されたが、いずれも挿入歌ありの主演映画に終始し、おまけに映画挿入歌を収めたアルバムが好評だったため、当時のショウビジネスの世界に新たなビジネスの形態を作り出した。1960年に陸軍除隊するとプロデューサーのパーカー大佐は配給会社数社と長期に渡り出演契約を結んだ為、1969年まで1年に3本のペースで27本もの映画の製作が行われ、活動の拠点をハリウッドに移さざるをえなかった。
おおよその映画は制作費を抑えた挿入歌アルバム付きのものが多かったが、G.I. Blues、Blue Hawaii、Viva LasVegas(ラスヴェガス万才)等、話題になったものもある。結局、プレスリーが望んだ(主題歌以外の)歌のない映画は、1969年公開の Charro!(殺し屋の烙印)のみであった。
「ラスベガス万才」(1964年)は、allcinemaの評によると、「1960年以降、つまり兵役に就いて丸くなってしまってからのエルヴィスの映画の中では群を抜く一作で、J・カミングス製作=G・シドニー監督のMGMミュージカルのよきセンスが発揮された感じだ。
Elvis Presley/Viva Las Vegas(1964年)
Ann Margret/Viva Las Vegas - Hottest Dance Scene
(Wikipedia 参照)