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黒柳徹子【その2】

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若かりし頃の黒柳徹子

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 1953年(昭和28年)、東洋音楽学校(現:東京音楽大学)声楽科在学中(当時19歳)、「子どもに人形劇や絵本の読み聞かせを上手にできるお母さんになりたい」と思い立って、「ひょっとしたら絵本の読み方も教えてくれるかもしれない」と新聞で見かけたNHK放送劇団の俳優募集の広告に応募、
テレビ女優第一号の一人としてNHK放送劇団の一員となる。(当時の写真)
■ヤン坊ニン坊トン坊

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 1954年、NHKラジオ第1で放送され、自身初の主演となったラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』(1954年 - 1957年)が開始した。

 同番組は日本のラジオドラマ史上初めて大人の女性が子供の声を演じた番組である。

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 しかし、彼女は当時からちょっと変わった話し方や、日本語がおかしいなどの理由で降板させられてしまうことが相次ぎ、自信を無くしかけていたところ、劇作家・飯沢匡(いいざわただす、1994年、85歳で没、写真)に「あなたの個性が必要なんです。そのままでいて下さい」と励まされ、NHK始まって以来のオーディションを経て、三男・トン坊役を演じて一気に有名となる。

 以後彼女は劇作家・飯沢匡を師と慕い、飯沢没後も飯沢のことを話す際には必ず先生付けで話している。


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 ところで、日本のタレントの「初代三人娘」は、「ヤン坊ニン坊トン坊」で声優として主演し、一躍人気を集めたユニットのことを指す。

 ヤン坊は里見京子(現在82歳、写真右ニン坊は、横山道代(現在は、横山通乃、81歳、写真右から二番目)、トン坊は黒柳徹子(現在84歳、写真左から二番目)。番組当初、みんな10代後半の若さだった。なお、里見京子に代わって、水谷良重(現在は2代目水谷八重子、78歳、写真左)とする場合もある。

 自分はこの番組が放送されたときまだ5歳から8歳までだったが、特徴のあるテーマソングはよく覚えている。ただし、子どもの声がみんな10代後半の若さの女性だったのを知っていたかどうかは定かでない。

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 ちなみに、歌謡界の「元祖三人娘(ジャンケン娘)」は、ほとんど同時期の昭和30年代初めに活躍した、美空ひばり(1989年、52歳で没、写真中央)、江利チエミ(1982年、45歳で没、写真右)、雪村いづみ(現在80歳、写真左)である。1955年の東宝製作の映画「ジャンケン娘」で共演。それがきっかけとなって「三人娘」と呼ばれるようになり、その後も、3人共演の映画も作られた。 

 黒柳徹子がNHK専属のテレビ女優になった1954年(昭和29年)のメディアの中心はまだラジオだった。

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 テレビはまだ日本に866台しかなかった。もちろん白黒だ。(写真)月給が9,000円だった時代にテレビは一台25万円だった。

 当時、アメリカの偉い人が来て「テレビは、世の中を変える力を持っている。永久的な平和を手に入れるカギもテレビが握っている」という言葉を信じてずっとやってきたという。
■テレビ創世期の番組
 
 創成期のテレビ番組では、1953年の「ジェスチャー」、1955年の「日真名氏飛び出す」「私の秘密」、1956年の「お笑い三人組」、1958年の「バス通り裏」などを思い出す。(「日真名氏飛び出す」のみラジオ東京テレビ(KRT、現在:TBS)、他はNHK番組)

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■黒柳徹子が出演したテレビ番組は以下の通り。

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 1955年製作の「やがて蒼空」は、作:北條誠/音楽:中田喜直/出演:内田研吉、黒柳徹子、太宰久雄、名古屋章/映画化された初のテレビ連続ドラマ。初めて主題歌を放送した。



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1958年にはテレビドラマ「お父さんの季節」で、コックを演じた渥美清の妻役に。

 この頃睡眠時間3時間という日々が続き、本番に耳鳴り、めまいがしたため医者に行くと「過労」と診断され、1ヶ月入院し途中で交代した。
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 同年12月「第9回紅白歌合戦」で初司会。当時では史上最年少(25歳)の司会者だった。

 それから22年の月日が経った1980年の『第31回NHK紅白歌合戦』で紅組司会に復帰し、1983年の『第34回NHK紅白歌合戦』まで4年連続、通算5回紅組司会を務めた。4年連続、通算5回の紅組司会という記録は、いずれも佐良直美に並び史上最多である。その32年後である2015年の『第66回NHK紅白歌合戦』では、総合司会として再度紅白の司会に復帰した。

 子ども番組では「チロリン村とくるみの木」(1956年 - 1964年)、「ブーフーウー」(1960年 - 1967年)、そして、「魔法のじゅうたん」(1961年 - 1963年)。

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 「魔法のじゅうたん」は、
当時、最新の特殊撮影技術を駆使して話題を呼んだ子ども向けバラエティ番組で、自分もよく見ていた。黒柳徹子と子どもたちが「魔法のじゅうたん」に乗って、日本各地を空から観察する。「アブラカダブラ!」の掛け声と共に、「魔法のじゅうたん」が子どもたちを乗せて空を飛び回るなど、クロマキー技術とヘリコプター撮影の映像が組み合わさり、夢あふれる映像の連続に子どもたちは夢中になったものだ。作:飯沢匡 音楽:宇野誠一郎、小森昭宏 。
 上記の
子ども番組に加えて『若い季節』(1961年 - 1964年)、『夢であいましょう』(1961年 - 1966年)などの人気番組にも出演し、週6、7本のレギュラー番組を抱えるなど多忙を極めるようになる。

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 50年以上前の音楽バラエティ番組「夢であいましょう」は、毎週火曜日(のち土曜日)夜10時台に生放送され、司会の中嶋弘子さん(写真)が番組冒頭で上半身を右に傾けてお辞儀をおこなう挨拶は、話題になったものである。なお、彼女は途中から産休のため降板し、黒柳徹子に司会を譲っている。


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 作詞:永六輔、作曲:中村八大のいわゆる「六・八コンビ」
「今月の歌」を中心に、この番組から「上を向いて歩こう」(坂本九、1961年)、「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾、1962年)、「故郷のように」(西田佐知子、1962年)、「おさななじみ」(デューク・エイセス、1963年)、「ウエディング・ドレス」(九重佑三子、1963年)など、たくさんのヒット曲が世に生まれた。

 もう番組が古いのでやむを得ないのだろうが、出演者の多くが鬼籍に入った。

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 越路吹雪(1980年、56歳のとき胃がんで没)、坂本九(1985年、43歳のときあの日航の墜落事故に巻き込まれ没)、中村八大(1992年、61歳のとき肝不全により没)、渥美清(1996年、68歳のとき肺がんで没)、フランキー・堺(1996年、67歳のとき肝不全で没)、三木のり平(1999年、74歳のとき肝腫瘍で没)、E・H・エリック(2000年、71歳のときパーキンソン病で没)、谷幹一(2007年、72歳のとき脳出血で没)、永六輔(2016年、83歳のとき肺炎で没)。レギュラーだったデューク・エイセス(写真)もついに昨年の12月をもって解散してしまった。


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 この番組の嚆矢(こうし)は日本テレビの『光子の窓』(1958年-1960年)である。草笛光子(現在84歳、写真)を主役に起用し、歌と踊りと笑いの全てを集約させた音楽バラエティ番組であった。
 
このあと『夢であいましょう』がスタートしたが、
草笛と黒柳は女性バラエティタレントの先駆者である

■舞台俳優への挑戦

1961年、舞台出身の俳優との間に演技力の差を感じていたことから、劇団に入りたいと杉村春子文学座への入団を相談し、1961年に開設された文学座附属演劇研究所に3期生として入所し演技を学ぶ。さらに1970年に出演した東宝のミュージカル『スカーレット』(帝国劇場)でブロードウェイのスタッフとともに仕事をしたことで、もっと勉強したいとニューヨークへの留学を決意。1971年の1年間ニューヨークへ留学し、メアリーターサイ演劇学校およびルイジ・ダンススクールにて演技とダンスを学ぶ。

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 1989年より「海外コメディ・シリーズ」の上演を開始(写真)。劇作家・演出家の飯沢匡の発案により黒柳の主演で毎年秋に海外の喜劇を紹介する企画で、1994年に飯沢が死去した後は主に高橋昌也が演出を手掛けて、2016年秋で30回目を数える。1997年には『幸せの背くらべ(英語: Three Tall Women)』および『マスタークラス(英語: Master Class)』での演技により第38回毎日芸術賞ならびに第4回読売演劇大賞の大賞・最優秀女優賞を受賞。2013年には「永年の翻訳劇に対する情熱と功績に対して」の受賞理由により第38回菊田一夫演劇賞特別賞を受賞している。


熟年の黒柳徹子

 1972年、『徹子の部屋』の前身番組となる『13時ショー』(NETテレビ)の司会就任が決まり、アメリカより帰国。

1970年代には『音楽の広場』『おしゃべりオーケストラ』などのNHKクラシック音楽番組の司会も大きな比重を占めた。ユーモラスな早口は同種番組としては異色だったが、芥川也寸志、尾高忠明らソフトな語り口の専門家たちとのコンビネーションも好評で、賑々しいが訊き上手でもあるというのお茶の間イメージを定着させている。

『徹子の部屋』の放送開始を機に、「役を演じながら司会もやると混乱を招く」「悪女役をしていたら、悪い人が話を聞いているみたいに思われる」との考えから、本人役などで出演した一部作品を除いてテレビでの女優活動を控えるようになる。

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 1976年にはテレビ朝日で自身の冠番組『徹子の部屋』が開始。長寿番組となっている。2011年4月27日放送分(35周年記念SP第2弾『出張!徹子の部屋』)を以って放送8961回を迎え、「同一の司会者による番組の最多放送回数記録」としてギネス世界記録に認定された。2015年5月27日には放送回数が通算1万回となり、上記の「同一の司会者による番組の最多放送回数記録」を自ら更新し、再びギネス世界記録を受賞した。


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 1978年からは、最高視聴率41.9%を記録する大ヒットになったTBSの音楽番組『ザ・ベストテン』が放送を開始し、黒柳は初回から1989年の最終回まで司会を務めた(なお、初期からコンビを組んでいた久米宏は1985年で降板した)。
(Wikipedia 参照)

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■黒柳徹子の紹介番組

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〇黒柳徹子の母、声楽家でエッセイストの黒柳朝(くろやなぎ・ちょう)の自伝エッセイ『チョッちゃんが行くわよ』(1982年、主婦の友社、写真)は、自らの子育てなどをユーモラスな語り口で綴り、ベストセラーとなった。

 これは、NHK連続テレビ小説第38作目の『チョッちゃん』(1987年)としてのテレビ小説化された。主演は古村比呂(現在52歳)。劇中でたびたび登場した「…っしょ」(…でしょう)という北海道弁が流行語となり、くだけた北海道の方言として全国的に定着している。
トットてれび」(2016年)は、NHK総合の土曜ドラマ。

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 女優・タレントの黒柳徹子著の自伝エッセイ『トットひとり』(写真左)『トットチャンネル』(写真右)を原作に、テレビとともに歩み続けた黒柳の半生とさまざまな人々との交流を、自身を「筋金入りの黒柳徹子ファン」だと語る中園ミホ(現在58歳、写真)が脚本し、満島ひかり(現在32歳)の主演によりテレビドラマ化された。

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 キャッチコピーの「世の中なんだか、徹子さんが足りない」をテーマに、誕生から60年あまりの間に幾多の前例や決まり事によって縛られてしまったテレビの世界にあって何者にも縛られず自由であり続けた黒柳のごとく、かつてテレビが創造性に溢れ自由だった時代の物語を、自由かつ大胆に、様々な挑戦に意欲的に取り組みつつドラマ化しているという。
〇そして、昨年12月22日に終了した「トットちゃん!」。女優・黒柳徹子の半生とその家族の物語を大石静の脚本、清野菜名松下奈緒のダブル主演によりテレビドラマ化した。


 12月22日に放送された帯ドラマ劇場「トットちゃん!」(テレビ朝日系)の最終回が、11月23日の第38話で記録した最高平均視聴率と並ぶ7.4%を記録したことが分かった。瞬間最高視聴率は昼0時44分に記録した8.0%で、有終の美を飾った。(数字は全てビデオリサーチ調べ、関東地区)

 同ドラマでは、40年以上の長きにわたって「徹子の部屋」(毎週月~金曜昼0:00-0:30テレビ朝日系)の司会を務め、常にエンターテインメント界の第一線で活躍を続けてきた黒柳徹子とその家族の激動の昭和史を描いてきた。

 本作に登場する“昭和の大スター”役で、現代の芸能界を代表するタレントたちが続々と出演し、大きな話題を集めた。

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 22日の最終回では、来日した“恋人”カール・祐介・ケルナー(城田優)から連絡を受けた徹子(清野菜名)が、急いで葉山のホテルまで向かい、掛け替えのないひとときを過ごす。そして今度は徹子が祐介の元を訪れると申し出るも、祐介はある決意を胸に秘めていた。(写真)

 祐介の体に何が起きたのか、「離れていても愛し合える」と互いの愛を固く信じ合ってきた2人。その後、徹子があらためて祐介のスイスにある別荘へと向かうと…という物語だった。
そんな、黒柳徹子本人が長年、ひっそりと胸にしまってきた“国境を超えた恋”が描かれた本作も、いよいよ終幕のときを迎えた。

 なお、最終回にはこれまでの名シーンが盛り込まれ、父・守綱(山本耕史)と母・朝(松下奈緒)との恋や、トモエ学園校長・小林宗作(竹中直人)、森繁久彌(近藤真彦)、渥美清(山崎樹範)、沢村貞子(浅野ゆう子)、NHK職員・大岡龍男(里見浩太郎)、NHK講師・河毛博(ディーン・フジオカ)、劇作家・飯沢匡(高橋克典)ら、これまで徹子の人生を支え、導いてきた懐かしい顔ぶれが印象的なシーンと共に復活する場面も。

 黒柳自身、最終回の直前に「私は、ドラマを見ていて『ちょっと、すてき過ぎないかな?』とも思いましたが、皆さんにそう思っていただけたらうれしいです。私の半生をそんなふうにドラマで描いていただいて、本当にありがとうございました。ドラマを作ってくださった関係者の皆さまに、感謝しております」とコメントを寄せていたが、黒柳の半生を通して、若い人たちも日本の芸能界の歴史に触れることができた。

 22日に最終回を迎えると、SNSでは「まだまだ見ていたい!」「3カ月じゃ短いよ~!」といった具合に、“トット助ロス”を叫ぶ声も少なくない。

 個人的にも「あらま」という清野“徹子”の絶妙なリアクションが見られなくなるのは残念だが、他のドラマよりは“ロス”が少なくて済みそうだ。

 だって、これからもずっと平日の昼0時には“お昼の恋人”黒柳徹子に会えるから。

 次回は黒柳徹子の交友関係を。

 

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