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日野原重明氏が最期に残した言葉

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 言い方を変えれば「辞世の句」というのだろうが、偉人の最後の言葉には印象が残るものが多い。

 例えば、

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べー卜ーヴェンドイツの音楽家、1827年、56歳で没、画像

彼は1815年、45歳の時に、完全に聴覚を失った。1826年秋頃から腹水がたまり始め、12月20日に最初の腹水穿刺が行なわれた。翌3月23日、医者は彼に死が近付いていることを告げた。彼の顔は変り、やがて周囲の友人に言った。「友よ拍手を。喜劇は終った」そのあと彼はつぶやいた。「残念だ、全く。遅すぎたよ」

3月26日の午後、ウィーンの街に雷雨が襲った。彼は雷にむかって右手を上げたが、やがて倒れた。死因はアルコール嗜好による肝硬変であるという。

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ゲーテ(ドイツの小説家、劇作家、1832年、82歳で没、画像

 1832年3月16日、ゲーテは風邪をひき、床についた。22日午後11時30分、椅子の隅に身を寄せかけたままで亡くなった。窓を開けてくれ。明りがもっと入るように」と言ったのが最後の言葉である。「もっと明りを」という印象的な言葉はこれに基づいている。

 などだ。
イメージ 1 最近は、2012年のノーベル賞生理学・医学賞受賞者・山中伸弥氏(55歳、写真)が10月15日のテレビ朝日のバラエティ番組・金スマで紹介した、金スマ山中伸弥教授が勇気を貰えた日野原先生105歳の言葉だ。

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 「生きていくあなたへ」(幻冬舎、2017年、写真)は、今年の7月18日に亡くなった105歳の医師、日野原重明氏が、その半年前に語った最期の一冊だが、山中教授が感銘を受けた三つの言葉があるという。

1.迷った時は、遠くを見つめる

 人生苦しいことあり、山あり谷あり、辛いとき判断を失ったときは、冷静に遠くを見ること。それにより明日が開けるという意味。

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 当時34歳の新進の医者だった日野原氏は、東京大空襲第二次世界大戦、1945年)で、多くの被災者を救えなかった苦い経験がある。

 その想いが、過大な設備と揶揄された1992年の大災害に備えた新病棟の建設で、50年後の無差別テロ・地下鉄サリン事件(1995年)の患者の収容・治療に役立った。(写真)

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 山中教授もiPS細胞を研究するとき、多くの批判を浴びた経験がある。

 日野原氏の「新しいことを始めるとき、そしてまわりの人がそのことを理解せず反対されたとき、『遠くを見つめる』ことを思い出してください」という言葉は胸に響いたという。
2.人生を人々に捧げる

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 日本初のハイジャック事件だった、よど号ハイジャック事件(1970年)の人質になった日野原氏はその時に死を覚悟した。

 4日後に韓国・金浦空港で解放された(写真)が、「僕はあのとき一度死んだのだと思っています」「それからの命は与えられたもの」とし、その事件以来、自分のためではなく、人のために命を捧げようとした。
3.人生最期の言葉は「前に進んでいこう」

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 北海道開拓時代、クラーク博士(1886年、59歳で没、写真)は「ボーイズビーアンビシャス(少年よ、大志を抱け)」という言葉を残し北海道を去って行ったが、日野原氏が残したい言葉は、感謝に満ちた気持ちで、「キープオンゴーイング」だという。人生どんなにつらくても、明日がある。前に向いて進もうというのだ。
 この本は1,000円(税別)と手ごろである。まだ買っていないが、座右の書にしたいほどだ。

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 それにしても、日野原氏はもちろんだが、
「友情 平尾誠二と山中伸弥「最後の一年」(山中伸弥、平尾誠二・惠子共著、文春新書、2017年、写真)の著者・山中教授も凄い人物だ。




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