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安井かずみⅡ

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 2年前(2015年)の6月30日から導入された、YAHOO!ブログ「アクセス解析」(図)をいつも楽しみにしている。

 アクセス解析では常連のブログと、直近に作成したブログが日々のベスト10を占めているが、ときどきオヤと思う題材が加わることがある。

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 9月20日のアクセス解析は左表の通りだが、赤丸で囲っているのは、いつも訪問が多いブログだ。

 オヤッと思ったのは8位の、第854話:日本の女流作詞家 その2 安井かずみである。

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 今、図書館で借りて読んでいるのが、たまたま、安井かずみ(写真)に関する次の本だったからである。



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 安井かずみ本人は、1994年、肺がんのため55歳で逝去したが、その17年後の2011年に、文筆家の近代(こだい)ナリコ氏(写真左)が、彼女の過去の著作を編集した「たとえば好き たとえば嫌い 安井かずみ アンソロジー(河出書房新社、写真右)である。

アンソロジー(anthology)とは、通例、特定のジャンル(文学分野)から複数の作品をひとつの作品集としてまとめたものを指す。多くの場合、主題や時代など特定の基準に沿ったものが複数の作家の作品から集められる。俳句・短歌・詩を集めた句集や歌集・詩集のみならず、小説や漫画などの同人による作品を収めた同人誌、更には卒業文集もアンソロジーである。また、同一著者個人の作品集を指すこともある。
 2011年の10月に、次の日本の女流作詞家の特集を行ったことがあった。

 第一回は岩谷時子(当時95歳)、第二回は安井かずみ、第三回は有馬三恵子(当時年齢不詳)、第四回は山口洋子(当時74歳)、第五回は阿木燿子(当時66歳)、第六回は竜真知子(当時59歳)、第七回は三浦徳子(当時年齢不詳)だった。(写真)

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 あれから6年、岩谷時子は2013年10月25日 97歳で没、山口洋子は2014年9月6日 77歳で没と、その中の2人を失った。三浦徳子は今でも年齢不詳だが、残る阿木燿子72歳、竜真知子65歳、有馬三恵子は82歳になった。
 今回はせっかく本を読んだので、それを参考に 第854話:日本の女流作詞家 その2 安井かずみのリニューアル版、安井かずみⅡを作成し、投稿することにした。過去のブログと重なる部分があるのはお許しいただきたい。

 まずは、彼女の年表を作ってみた。

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作詞家になるまでの安井かずみ

 安井かずみは愛称をズズ(ZUZU)、初期のペンネームはみナみカズといった。

 彼女の幼いころはひ弱で内向的な性格の上、友達もいなく、いつも家で油絵を描いていたおとなしい子供だった。

 そして、戦中の生まれなのに戦争の混乱をほとんど知らない、食糧の不足も経験しない。

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横浜の郊外の裕福な家庭のもとに生れ、大人たちに守られ、中学から日本で一番古い(1870年創立)ミッション系の女子校であるフェリス女学院(写真)に入学した。

 そのエキゾチックで自由な土地柄と、フェリス女学院で勉強した語学力が後の人生に大きく影響した。文化学院で油絵を学び女流画家を目指していたことも作詞活動に役立った。

 油絵と作詞のどちらも「自己表現」の場であることに変わりはなかった。

 横浜育ちのおくての彼女が東京の文化学院に入学すると、都会の学生たちの華やかな様子に目を見はった。やがておしゃれに目覚め、油絵に没頭し、恋に熱中し、女性としての自覚を持つようになる。

恋の経験が作詞家としての安井かずみのスタート

 彼女が19歳、女子大生になったとき、初めて生身の男性に恋された。それも当時21歳か22歳の学院のプリンスと言われる人に。そのときは恋される困惑感の方が強く、いつか恋に関わりあうなら、自分が恋をする恋でありたいと思った。

 それでもすぐにそのときはやってきた。20歳、油絵の個展を開こうとしていたころ、女友達の誕生パーティに招かれ、ある学生にひとめ惚れした。それが「初恋」だった。

 彼は多くの特技と趣味を持っていた。スキー、ゴルフ、テニス、自動車の運転、ナイトクラブ、ギター、ロマンチックなレストラン、パーティ、射撃等。たくさんの友人がいて、その輪を広げ、角度を変え彼女は彼の横にくっついてすべての楽しみを習った。シティ・ライフを教わり、恋愛を味わった。

 ギターと歌がうまかった。雨の日は家で一日中音楽と遊んだ。それが彼女に一つの世界をひらめかせてくれた。

 ある日、ヤマハ楽器店にラフマニノフピアノの楽譜を買いに行った。そこでは、何人かの男たちがアメリカン・ポップスの訳詞に苦しんでいた。

 英語にも堪能だったので、翻訳のためのアイデアを口にしたところ、アルバイトで訳詞をやってみないかと言われ、引き受けたのが彼女の「アルバイト第一号」だった。

 譜面は読めるし、その位の英語は得意、そして彼氏の影響で、歌詞という言葉群に心魅かれている時期だった。こうして、最初の仕事となったのは、坂本九が歌って大ヒットすることになるエルヴィス・プレスリーのヒット曲「GIブルース」の日本語版だった。

 彼女が訳詞した英語の主な曲は、花はどこへ行った」、「ヘイ・ポーラ」、「レモンのキッス」、「ドナドナ」など。訳詞の代金は1曲3千円だった。

 こうして21歳で訳詞家としての仕事を始めた彼女に次なるチャンスが巡って来る。訳詞のセンスの良さに気付いたNHK「きょうのうた」のディレクター・林叡作が、番組で使う曲の作詞を依頼。こうして、1964年、初の作詞曲「おんなのこだもん」が誕生することになり、中尾ミエが歌いヒットすることになる。それが文字通り「作詞家への第一歩」だった。

 こうして作詞家として仕事を始めた彼女は、後の述べるキャンティ」で親しくなった渡辺美佐を通じて、渡辺音楽出版にマネージメントを任せ、渡辺プロ所属の歌手を中心に詞を書いて行くようになり、作詞家としての量産体制に入る。伊東ゆかり「歌をおしえて」ザ・ピーナッツ「キャンディー・ムーン園まり「何も云わないで」などが大ヒットする。

 1965年、伊東ゆかり「おしゃべりな真珠」第7回日本レコード大賞・作詞賞を受賞し、一気に大物作詞家の仲間入りを果たすことになる。

安井かずみ訳詞/ドナ・ドナ(1966年)


 ちょっと脇道にそれそうだが、「自分は恋愛が出来ない」とみなす人間が世の中に4割ぐらいいるという。

 そんな人にとってはうらやましいほどの恋をした安井かずみにとって「恋」は、切っても切り離せないもののようだ。 

 それが本当の恋なのか、自己確認や、自己愛、アイデンティティーのための物語を自分で作っているだけで、寂しさを紛らわすための「ロマンス中毒」に罹っているのかは分からない。

 しかし、感受性が高いことはそれだけ多くの苦悩を抱えることになる。一見華やかに見える人生は多くの出会いと失恋を繰り返す挫折の連続だったが、皮肉にもその経験が作詞家の扉を大きく開いてくれたのだ。ー幸福感に満ちた人はいい仕事は出来ない。
岩谷時子との比較

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 当時は少なかった女性作詞家の先輩である
岩谷時子(写真)とは、歳の差こそ23歳も違うものの、活躍するフィールドが極めて近かったこともあり、何かと比べられることが多いが、恋愛観の違いが歌詞に表れているようだ。

 時として少女の様な無邪気な目線で美しい情景を描く岩谷の詞に対して、彼女の詞には男女の恋愛における心理がよりリアルに表されている。郷ひろみでいえば、少年時代は「男の子女の子」のように岩谷が、大人になりかけの青年期には「よろしく哀愁」のように、彼女が郷の魅力を存分に引き出すことに成功した。

 語学力、特にフランス語の語学力を生かしたシャンソンの訳詞でも切磋琢磨した。サルバトーレ・アダモ「雪が降る」などは訳詞が重なった。

 岩谷は、「愛の讃歌」、「ラストダンスは私に」、「ろくでなし」、「サン・トワ・マミー」など、越路吹雪に提供した曲が多い。

 フランス語では「アイドルを探せ」、「オー・シャンゼリゼ」など。フランス語ではないが、「サマー・ホリデー」、「ヘイ・ポーラ」、「レモンのキッス」、「リリー・マルレーン」も彼女が訳詞した。
安井かずみの曲黄色の網掛けは今回紹介の曲)

 安井かずみが作詞した曲は、次の通り作曲家も多彩で、彼女の広い交友関係を物語っている。1994年3月17日、一年に及ぶ闘病生活の後、約4,000曲の詞と33冊のエッセイ集を残しこの世を去った。

宮川泰スクールメイツ 若いってすばらしい、園まり 何も云わないで
平尾昌晃伊東ゆかり 恋のしずく、朝を返して、アグネス・チャン 草原の輝き、小柳ルミ子 わたしの城下町、お祭りの夜)
村井邦彦辺見マリ 経験
筒美京平(浅田美代子 赤い風船、幸せの一番星、郷ひろみ よろしく哀愁、The Three Degrees にがい涙)
加瀬邦彦沢田研二 危険な二人
馬飼野康二西城秀樹 激しい恋ちぎれた愛、和田アキ子 古い日記)
小林亜星(シモンズ 明治チェルシーの歌)
加藤和彦(竹内まりや 不思議なピーチパイ、飯島真理 愛・おぼえていますか、広田玲央名  だいじょうぶマイ・フレンド
浜圭介千葉紘子 折鶴

http://music-calendar.jp/2016031701、Wikipedia参照)
園まり/何も云わないで(1964年)You Tube


伊東ゆかり/恋のしずく(1968年)


辺見マリ/経験(1970年)


小柳ルミ子/わたしの城下町(1971年)


千葉紘子/折り鶴(1972年)You Tube


沢田研二/危険なふたり(1973年)


西城秀樹/激しい恋(1974年)


安井かずみが巡り逢った人

加賀まりこ

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 後に親友になった加賀まりこ(現在73歳、写真)と最初に会ったのは初夏の軽井沢の林の道。木漏れ陽の万平ホテルへ続く道で、彼女のクルマ、オレンジ色のロータス・エラン写真*彼女の車と同一ではない)と加賀の乗っている馬がすれ違うとき、お互いの目が合った。

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 目が合って、笑顔ともつかない表情をお互いにした。同い年ぐらいの女の子同士は、似たようなパリ好みのTシャツを着て、きれいな軽井沢の光を浴びて、出会った。

 映像でも紹介した「わたしの城下町」(1971年、歌:小柳ルミ子)は、安井かずみ:作詞、平尾昌晃:作曲の大ヒット曲だが、実はこの「城下町」についてはどこなのか特定されていない。これについては面白い逸話がある。

 担当者として小柳ルミ子のデビューを狙っていた、当時ワーナー・パイオニアの駆け出しディレクターだった塩崎喬は、自分が少年時代に過ごした「飛騨の小京都」飛騨高山のイメージを作詞家の安井めぐみに伝えた。

 しかし、彼女は街並みが好きで足しげく通っていた京都・先斗町を想定していた。歌詞は親友の加賀まりこの前で、20分程度で書き上げたという。

 なお、作曲の平尾昌晃は1968年12月から1年間結核療養で諏訪湖を望む長野県・岡谷市の病院に入院していた。2度の手術を経た69年春から外出を許されるようになり、諏訪で温泉につかって、食事をしたあと、何度か復興中の高島城に立ち寄った。東京から遠い信州で病気療養の日々を送るうちに、信州の美しい四季に囲まれて、日本の自然や故郷の温かみを初めて意識した。退院直後に手がけた小柳ルミ子のデビュー曲はこの特別な場所をメロディーにしたいと思っていた。

 一方、歌手の小柳ルミ子は福岡の実家の近くの大濠公園を勝手に想像して歌っていたという。関係者にはそれぞれ心に思い描いた「町」があり、それが大きく違ったのだ。(朝日新聞土曜版be「歌の旅人」)
キャンティの女主人

 今も残っている、東京・六本木のはずれにある飯倉片町のイタリアン・レストラン「キャンティ」は、1960年代、日本の文化・芸術の最先端をゆくアーティストたちが集まる場所として有名なお店だった。(図)
 
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 資産家で彫刻家でもあった「タンタン」(イタリア語で「おばさん」)と愛称で親しまれた川添梶子(1974年、46歳で没、写真)がオープンさせた伝説の店で店名はキャンティ・ワインにちなむ。(彼女の祖父は明治維新で活躍した後藤象二郎 

 上流階級だけでなく芸術家にも顔が広い彼女の店には、様々な階層、年代の人々が集まっていた。

 黛敏郎、今井俊満(画家)、村田豊(建築家)、三島由紀夫、川端康成、黒澤明、岡本太郎、小澤征爾らの大御所たち。日野皓正、村井邦彦、沢田研二、ムッシュかまやつ、コシノ・ジュンコ、加賀まりこ、内田裕也、伊丹十三から村上龍、松任谷由美などの若手。イヴ・サンローラン、サルバドール・ダリ、フランク・シナトラ、ピエール・カルダン、シャーリー・マクレーン、マーロン・ブランドなど海外の大物たち。

 オープンしたてのキャンティに出入りするようになったのが、安井かずみにとって「初の東京社交体験」であり、東京のイメージの全てだった。

 店全体が日本最先端のライフスタイル提案型のショップだったこの店に、同世代の友人であるコシノ・ジュンコ加賀まりこらと入りびたり、それぞれのジャンルにおける最高峰の人々と付き合うようになって行った。

 当時、六本木に通う若者たちのことは「六本木族」と呼ばれていた。彼らはファッション・音楽など1960年代のサブカルチャーの先端をゆく「キャンティ族」として有名になり、キャンティは背伸びしたい年頃の若者が一度は訪れてみたい「伝説のレストラン」となった。

 安井かずみは女主人のタンタンに心酔していた。

 第一に、彼女の美しさに圧倒されていた。

 イヴ・サンローランの服を着ること、イタリア料理を教え込んだのも彼女だった。

 日仏英伊語を話せるように、努力したのも、彼女がそれら各国語を話せたからだ。

 しかし、彼女は強烈な印象を残したまま、1974年にこの世を去った。
サルバトーレ・アダモ

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 サルバトーレ・アダモ(現在73歳、写真)は1960年代、フランスを始めとしてヨーロッパで一世を風靡していた歌手だ。

 安井が初めてアダモの歌を聴いたのはパリのオランピア劇場だった。

 その歌声に打たれ、以来ファンとなり彼の全てのレコードを買ったほどだ。毎日そのレコードを聴いては、空で歌えるほどだった。

 奇しくもその次の年、アダモが日本公演のため来日した。

 フランス語は日本ではまだ解る人が少ないので、公演の何曲かの詞を日本語にして歌いたいというアダモと主催者の意向があり、その仕事が彼女のところに回ってきた。

 アダモの驚きと喜び、彼女のファン熱とはほぼバランスが取れていた。アダモはそのとき、日本公演の選曲まで任せてくれた。

 彼の膨大な数のオリジナルから数曲を選んで、日本語に訳したが「雪が降る」はその中の一曲だった。日本公演は大成功に終わった。

 翌年、再び公演のために来日したとき、彼にはそっちのけで、同行してきたパリの有名なカメラマンと恋に落ちた。

 1969年からパリに暮らしをしたが、カメラマンの彼と別れ、この生活は孤独との闘いだった。そこで寂しさを紛らわすために電話したのが、アダモだった。
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 彼は優しく、そのとき日本語版のレコーディングを頼まれたのが、以前来日したとき訳詞したことのある「雪が降る」(Tombe la neige)だった。

サルバトーレ・アダモ/雪が降る(日本語版)(1963年)


加藤和彦

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  1975年12月21日、原宿のライムライトで彼女にとって6冊目となるエッセイ集「TOKYO人形」の出版記念パーティーで彼女は加藤和彦と出会った。

 その前にも会ったことがあるが、ミカさんという奥さんがいたので手を出さなかった。離婚のことはこのパーティーの席上で知った。

 3度目のデートの後、彼が転がり込み1年半に渡る同棲生活が始まった。

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 1976年の加藤初のソロ・アルバム「それから先のことは」(写真)で彼女はずべての作詞を担当し、ここから彼女は他の歌手の作詞を断るようになり、主婦業と加藤作品での作詞のみを行う新たな人生をスタートさせる。この決断に周囲はとまどい、人間関係、友人関係がここで大きく変化することになった。

 
フォーク時代から加藤との付き合いがあった吉田拓郎
によると、加藤和彦というのは全くダメな男だという。雑誌では、ヨーロピアナイズされた粋な男のように書かれているけど、彼に言わせると、むしろ鈍臭くて、女からみて魅力を感じるような男ではなかったという。自分よりも先を歩いてくれる女についていくしかないような男であり、そういうダメな加藤が安井を選ぶのはわかるが、歴戦の兵(つわもの)のような彼女が、なんで加藤のような頼りのない男を選んだのかさっぱりわからなかったという。安井の友人にも結婚に反対する声が多かったという。

 1977年、二人は渋谷の本多記念教会で結婚式を挙げる。こうして、仕事を夕方には終えると、夕食用に着替えて二人で毎晩、正装して食事を共にする生活が始まった。

 「芸能界一のオシドリ夫婦」と言われたその結婚が本当に幸福なものだったのか?そこに疑問をもつ人もいたようだ。彼女と共に青春時代を歩んできた友人のコシノ・ジュンコや加賀まり子は、結婚により家にこもってしまった彼女の変化に不満を覚えていた。

 しかし、17年続いた「理想の夫婦生活」は、二人が老いるまで続かなかった。1992年ごろ、身体の不調を訴えた彼女が病院で検査を受けると、悪性の肺がんであることが発見され、余命は1年もないと宣告されたのだ。

 最後の一年、彼は仕事をすべてやめ、愛妻のためにすべてを捧げた。当時、彼女は保険に入っていなかったらしく、医療費はかなりの高額になったようですが、夫は彼女のために最高の医療環境を用意した。しかし、この負担が後に、夫の経済状況を追いつめる原因になったともいわれている。

 ところが、1994年彼女の死の翌年の1995年に夫の加藤は一年後にオペラ歌手中丸三千繪と再婚する。この時、彼は安井かずみに関わる遺品などをすべて処分してしまったという。安井の友人の多くは怒り、そのために加藤は安井の友人達とはほとんど付き合わなくなる。ところが、夫婦生活は2年で実質的に破綻。2000年には正式に離婚。2009年10月16日、加藤は軽井沢で自殺する。
 恋に憧れ、その恋に生きた安井かずみ。彼女は自分のことを「ただひたすらに夢中になるという手合いの、むしろ無謀な、ひとりよがりな甚だしいナルシスト」と表現している。

 大量の仕事をこなし、いったん走り出すと寝食も忘れ、日常生活や身体はおろそかになってしまう。

 彼女が好きなクルマのように、暴走しっぱなしで駆け抜けた短い人生だった。


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