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米軍基地【その2】占領下時代の日本

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 日本が第二次世界大戦に負けて連合国の占領地となったのは誰もが知っている。

 ところが、占領期のことについては今やすっかり忘れ去られたようだ。

 日本が第二次世界大戦を始めたとき、日本の軍事指導者たちは戦争をどう終わらせようかというプログラムが無かった。負けた場合の想定がないまま「勝つ」までやる戦争になってズルズルと被害を拡大してしまった。

 あの戦争の結果に真摯に目を向けようとしない態度は、「敗戦」「終戦」と言い換えたり、「占領軍」「進駐軍」あるいは「駐留軍」と表現を変えたことからもよく分かる。

 1935年からアメリカを仮想敵国とし、「鬼畜米英と呼んで「敵性語追放」を実施した。

 しかし、そんなにっくきアメリカが占領軍としてやってきて、いつの間にか世界で最も親米の国になったのは何故だろうか。日本人が占領時代のことをすっかり忘れたのか、忘れるように仕向けられたのか、はたまた本当に占領時代が良かったのか、その3つの内どれかだろう。

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 ペリー来航(1853年、写真左)から約1世紀を経た1945年8月30日、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー(1964年、84歳で没)が
降伏文書の調印に先立ち、空から日本本土に降り立った写真右は有名である。

 同年9月2日、日本政府代表は戦艦ミズーリの船上で連合国との間で降伏文書に正式に調印した。この日本の降伏により、連合国の占領下に入った。

イメージ 11 本土が占領地から解放されたのは、1951年(昭和26年)9月8日に署名し、翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効されたサンフランシスコ講和条約の締結(写真)からである。これにより、小笠原諸島と沖縄以外の完全なる主権が正式に日本に返還された。
 

占領時代の米軍基地

 日本に進駐した連合軍の中で最大の陣容はアメリカ軍で、その次にイギリスやオーストラリア、ニュージーランドをはじめとするイギリス連邦の諸国軍であった。占領軍は全国いたるところに駐留したが、戦後米軍基地となった土地の多くは戦前からの日本軍の基地だった。

 首都圏の主要な米軍基地であった横須賀、厚木、座間、立川、横田、ジョンソン、朝霞などは全て旧日本軍基地から転用されたものだった。

 このころ米軍の諸施設は、首都圏だけでも15万人近い米兵がおり、基地の数も60を超えていた。

 占領期の都心で米軍施設が最も集中していたのは日比谷から銀座、霞が関にかけての一帯である。そこでは地名・道路名まで変えられた。

 銀座4丁目の交差点は「タイムズ・スクエア」、銀座通りは「(ニュー)ブロードウェイ」、銀座一帯は「リトル・アメリカ」と呼ばれていた。

 この地帯が1970 年代以降、東京において若者たちにとってもっともファッショナブルな街となったのは、かなりの程度この米軍施設と重なっている。アメリカ軍が占領し、その進出にしたがって周りに米軍関係のレジデントや店ができ、オンリーさん(注:軍人の私娼)みたいな人たちが住むようになった。そこにちりばめられた横文字文化というものに若者達が惹か れ、流行を追う人たちが集まった。

 同じことが湘南にも言える。湘南海岸や横須賀にはアメリカの軍事的な基地群が並んでいた。

 それが、湘南ボーイやトレンディな湘南というイメージへと変容していった。人気を博した石原裕次郎主演の映画『狂った果実』は、湘南を舞台に裕次郎が米軍のオンリーさんである女性を好きになるという設定だった。
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ワシントンハイツ(合衆国空軍ワシントンハイツ団地、写真)は、敗戦前まで大日本帝国陸軍の練兵場であり、代々木の原」と呼ばれていた。これが敗戦後の1945年12月に日本占領軍である連合国軍に接収され、連合国軍占領下の日本において作られた、アメリカ空軍およびその家族のための団地である。ワシントンハイツの建設は、占領アメリカ軍の要求によって、日本政府の責任と負担に基づいて行われた。

 東京・代々木の92.4万平米に及ぶ敷地には、兵舎のほか、駐留軍人とその家族が暮らすための827戸の住宅、さらに学校、教会、劇場、商店、将校クラブなどが設けられていた。アメリカ軍による東京大空襲などによって廃墟と化していた東京都心にあって近代的なアメリカの町を実現したワシントンハイツであったが、周囲は塀で囲われ、日本人の立ち入りは禁じられていた。ここに居住していたのは、駐留アメリカ軍のうち、主に中位の軍人とその家族であったという。

 ところが、日本占領が終了した後もアメリカとの安全保障条約により、在日米軍の駐留は恒常化され、この間を通してワシントンハイツは日米地位協定により治外法権的存在、アメリカ軍用地・住宅地として東京都心に存在し続けた。

 1961年11月、その3年後に開催される東京オリンピックのための選手村・競技場用地としてワシントンハイツを利用することが決定、同地は日本国に全面返還されることとなった。これには条件として、移転費用の全額を日本側が負担することなどが課せられていた。日本は移転費用の全額を負担、また代替施設として調布飛行場「関東村住宅地区」を提供、ワシントンハイツの返還・移転は東京オリンピックが開催された年の1964年8月12日に完了した。

 同地は現在、代々木公園、国立代々木競技場、国立オリンピック記念青少年総合センター、NHK放送センターなどとなっている。(Wikipedia参照)
占領下の日本統治方法

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 自分も一度見学したことがあるが、マッカーサーは日比谷にある連合国軍が接収した第一生命ビル内の執務室(写真)で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

 マッカーサーが日本統治で採用した方式は「間接統治」。これはドイツで行った「直接統治」(GHQが直接命令する形)と違い、GHQが日本政府を「形だけ」残し、それを裏から操るというものだった。

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 なぜ、マッカーサーは「間接統治」を選んだのか? それは日本人が天皇崇拝のおかげで無政府状態にならず、みんな粛々と敗戦を受け入れていたからだ。ならば、その威光を利用して統治するほうがスムーズにいく。事実、マッカーサーはあまり表に出なかった。

 人間宣言した天皇が全国に巡幸する姿ばかりが目立っていた。(写真)

 そもそも占領統治とは、GHQに主権(=国家の支配権)を握られている状態だから、その間、日本の重要政策は「すべてGHQに決められていた」のだ。だから一見、民主的に見える選挙も首相の選出も、一連の民主的な政策も、「日本だけで決めた」ものなんてない。アメリカの大番頭であるマッカーサーが「いいよ」と言わない限り、何一つできなかったのだ。

 でも間接統治だと、そこが巧妙に隠される。国民にはすべて日本政府がやっているように見える。実際には、そのすべてが「原作・脚本:GHQ/出演:日本政府」であるのにだ。
 占領政策は多くの課題を残す。

その一つが性の問題だ

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天使はブルースを歌う」(横浜アウトサイド・ストーリー)(1999年、山崎洋子著、毎日新聞社刊)(写真)は『横浜には知られていない影の歴史がある』が作品のモチーフで、進駐軍が残した負の遺産のことが語られている。

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1.白い娼婦こと「ヨコハマメリーさん」(写真左) 

2.当時は「あいの子」と差別用語で言われた、(本当は全員がそうではなかったが)、混血が売り物だったグループ・サウンズ「ゴールデン・カップス」(写真中)
 
3.横浜外国人墓地のなかでもほとんど知られていない「根岸外国人墓地」(写真右)。そこには戦後間もない頃に遺棄された、800体以上の嬰児の遺体が埋葬されているが、その嬰児達は当時、駐留軍兵士と日本人娼婦との間にできた子供たちだったという。

特殊慰安施設協会の設立

 天皇の玉音放送が流れた3日後の1945年8月18日、内務省はやがて進駐してくる占領軍に対して「性的慰安施設、飲食施設、娯楽場」を早期に整備、発足せよとの通達を行った。

 すなわち国家承認の「売春施設」を大至急作れという命令だった。「衣食住及び高給支給」は女性たちの目を奪い、毎日20名から30名の応募があったという。そして8月27日に第一号施設が大森に開業した。以降全国で続々オープンしていったという。

 ところが、翌年の1946年1月21日、GHQは突然、日本政府に対して「日本の公娼制度はデモクラシーの理想に違背する」として解散を命じてきた。最大の理由は、米兵の間に性病が蔓延していたことだったという。(「写真で見る太平洋戦争Ⅲ 占領下の日本」参照)
パンパン

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 慰安所から放り出された女性たちの多くは、パンパン(写真)と呼ばれた米兵相手の街娼になった。

 占領期、日本では米軍基地周辺や東京、横浜などの大都市で極めて多くの米兵相手の「夜の女」たちが出没するようになった。

 これは、そんな女性の嘆きを歌った曲である。
 
菊池章子/星の流れに(1947年)


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 この曲を作詞した清水みのる(1979年、76歳で没、写真)は、第二次世界大戦が終戦して間もない頃、東京日日新聞(現在の毎日新聞)に載った女性の手記を読んだ。

 もと従軍看護婦だった彼女は、奉天から東京に帰ってきたが、焼け野原で家族もすべて失われたため、米軍相手のいわゆる「パンパン」、「夜の女」として生きるしかないわが身を嘆いていたという。清水は、戦争への怒りや、やるせない気持ちを歌にした。こみ上げてくる憤りをたたきつけて、戦争への告発歌を徹夜で作詞し、作曲の利根は上野の地下道や公園を見回りながら作曲した。

 完成した際の題名は『こんな女に誰がした』であった。GHQから「日本人の反米感情を煽るおそれがある」とクレームがつき、題名を『星の流れに』と変更して発売となったという。(Wikipedia参照)

高峰秀子/銀座カンカン娘 (1949年)


 戦後の大ヒット映画「銀座カンカン娘」(1949年)の同名の主題歌。

 落語家の新笑は、現在は引退し妻のおだいと子供たちと、ささやかな生活を送っていた。しかし、その一家のもとへ居候として入ってきたのが新笑が昔世話になった恩人の娘のお秋(高峰秀子)と、お秋の親友のお春(笠置シヅ子)だった…。

 冒頭の歌詞に、「あの娘可愛いや カンカン娘  赤いブラウス サンダルはいて誰を待つやら 銀座の街角 時計ながめて そわそわにやにや これが銀座の カンカン娘とあるが、「カンカン」とは映画監督・山本嘉次郎の造語であり、当時の売春婦の別称「パンパンガール」に対して「カンカンに怒っている」という意味が込められている。説によると、高峰秀子が「カンカン娘ってどういう意味なんですか?」と作曲の服部良一、作詞の佐伯孝夫に尋ねたところ、二人とも知らなかったという。(Wikipedia参照)
そして言論統制

 これは次回に。




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