荒木一郎(現在72歳)が歌手デビュー50周年を記念して出版した「まわり舞台の上で」(10月22日発売、文遊社、写真)という本が話題になっている。
定価が3,200円というからちょっと手が出ないが、この本に関するいくつかの評論を聞いてみたい。
●まずは、「大人のMusicCalendar」11月5日 荒木一郎の全貌を摑む――『まわり舞台の上で 荒木一郎』執筆者:久山めぐみさん
歌手、俳優、作曲家、小説家、プロデューサー、マジシャンなど、多彩な顔を持つ荒木一郎。『まわり舞台の上で/荒木一郎』(荒木一郎著)は、その多岐に渡る軌跡を辿る、600ページに迫る大部の書物である。
ご存知のとおり、荒木一郎のトレードマークはサングラス。テレビ局にもサングラス着用で出入りする札付きの不良、そしてその佇まいは現在でも変わらないということを、2016年10月3日に開かれた歌手デビュー50周年コンサートの観客たちはしかと目撃した。(写真)
満場の興奮はすでに語り草となり、『週刊朝日』(10月28日号)では嵐山光三郎がその余韻を伝えている。『まわり舞台の上で/荒木一郎』は、荒木自身の楽曲や出演作はもとより、荒木が様々な形で関わった膨大な作品に即したインタビューから、荒木の創作人生を一冊に取りまとめたものだ。荒木一郎の全貌を、昭和のエンターテインメント史に刻む本になったのではないか、と思う。
1960年頃、NHK初の本格的な連続ドラマ『バス通り裏』に町のクリーニング屋として出演したのをきっかけに、お茶の間に知られる新進俳優となる。その頃、荒木は17歳、青学の高等部に通っていた。一方、渋谷・百軒店のジャズ喫茶に出入りし、モダン・ジャズのクインテットでドラムを演奏していた。1966年、ラジオ番組『星に唄おう』が人気を博し、テーマ曲である「空に星があるように」で歌手デビューする。荒木はこのときも「歌手になるんだ」という感覚はほとんどなかったと言うが、大ヒットし、レコード大賞新人賞を受賞。
その後、スキャンダルの影響でレコードリリースの中断を余儀なくされるが、1970年代には東映でプロデューサー・天尾完次、中島貞夫と鈴木則文の両監督のラインを主軸に、俳優、音楽監督などで東映の魅力的な娯楽映画の立役者となった。日活ロマンポルノ『白い指の戯れ』(村川透監督、1972年)の主演、さらには池玲子や杉本美樹、芹明香ら、自身のプロダクションでのマネージメントに関するエピソードも見逃せない。そして、1977年頃からは桃井かおりのプロデューサーとして、彼女の魅力を最大限に引き出すことに成功した。
荒木のディスコグラフィ、フィルモグラフィには、「まったく同一人物とは思えない」と思ってしまうような正反対のイメージが共存している。例えば、『白い指の戯れ』で演じたクールな色男と、『ポルノの女王/にっぽんSEX旅行』(中島貞夫監督、1973年)の爆弾オタクしかり。そこには「役作り」の範疇を超えた、荒木固有の七変化ぶりとでも言いうる凄さを感じてしまう。
万華鏡のように色鮮やかで、全貌を摑みがたい荒木一郎の全仕事『まわり舞台の上で/荒木一郎』が、それぞれの時代の荒木の仕事に補助線を引き、荒木一郎の縦横無尽な全体像を摑む手助けとなることを願う。
●続いて日刊ゲンダイ、11月16日号「人間が面白い 「まわり舞台の上で荒木一郎」。サブタイトルは「自分が振った女性の気持ちになって書いた名曲」
「こんばんは、荒木一郎です」1966年に始まったラジオ番組「星に唄おう」は、荒木の語りと自作の曲で構成された番組だった。テーマ曲「空に星があるように」はシングルリリースされて大ヒット。荒木は下積み経験なしで突如歌手になった。
「こんばんは、荒木一郎です」1966年に始まったラジオ番組「星に唄おう」は、荒木の語りと自作の曲で構成された番組だった。テーマ曲「空に星があるように」はシングルリリースされて大ヒット。荒木は下積み経験なしで突如歌手になった。
シンガー・ソングライターの草分けであり、俳優であり、小説家でもある。多彩な才能を発揮してきた荒木が、インタビュアーの問いに答えて、率直に自分を語り下ろした。
1944年、文学座の女優・荒木道子と文芸評論家・菊池章一の間に生まれた。小学校4年のとき両親が離婚。兄弟はなく、母は仕事で留守がち。青山学院初等部に通っていたので、家の近くに友達がいない。人との関わりを強く求める気持ちを抱えていた。
美空ひばりやプレスリーを聞いて育ち、中学のときからドラムを叩き、高校でモダンジャズバンドを結成。渋谷や六本木を遊び歩く。
母の仕事柄、子ども時代から演劇の世界とつながりがあり、NHKのテレビ番組「バス通り裏」を皮切りに、役者として生き始めたが、ひとつの枠には収まらなかった。
不良よばわりされ、何度も番組を降ろされては、復帰。「面白いやつだ」と応援する大人も多かった。大手レコード会社が仕切っていた音楽業界にあって先駆的に個人事務所を開設、自分のレーベルも立ち上げた。一見、やりたい放題で傍若無人。だが、「自己実現のベースっていうのは常に他人を利するっていうことなんだよね」。だから人がついてくる。
「空に星があるように」は、自分が振った女性の気持ちになって書いた曲だという。多彩な才能っこにあるのは、他人の気持ちに対する感度の良さなのだ。
荒木一郎の歌は身近な存在だ。
住んでいる家の近くにあり、20年来の行きつけのスナックでもう随分前に亡くなったマスターの持ち歌は「空に星があるように」だった。それで、大好きな曲ではあるが、ママの前ではなかなか歌えなかった。
今一番はまっている八王子のスナックのママは、自分の持ち歌で一番いいと言ってくれるので、調子に乗って何度も歌っている。
先週、久しぶりに立ち寄った池尻大橋のスナックで歌ったら、隣の女性客からこの前歌った曲で大好きな歌だと言われた。ー女性もこの曲を歌うんだ。
自分がいつも歌うのはこの2曲だ。
空に星があるように(1966年)
ジャニスを聴きながら(1975年)
(音量が小さいので聴くときはボリュームを上げてください)
そして、彼の曲は自分が以前働いていた会社のレーベルだった。押し入れを探すと、そのレコードが出てきた。 空に星があるように 荒木一郎ベスト・ヒット12
<曲名>今夜は踊ろう、空に星があるように、紅の渚、いとしのマックス、梅の実、あなたといるだけで、君に捧げるほろ苦いブルース、あなたのいない夜、妖精の詩、ジャニスを聴きながら、潮騒の街、ラスト・テーマ
今は亡きトリオレコード(写真)だが、その後ビクターに移籍している。
そのトリオ(後のケンウッド)とビクターは合併し、今はJVCケンウッドとなっているのだから歴史は不思議だ。
今夜は踊ろう(1966年)
いとしのマックス(1967年)
君に捧げるほろ苦いブルース(1975年)
72歳にしてますます盛ん。不良老人の見本だね。