日本語が好きだ。機微に満ちた言葉、TPOによって使い方が切り替えられる、漢字とかな(カタカナ、ひらがな)やアルファベット。絵文字までも日本人の発明だという。
外国人が覚えるには難解で、真実を避けるためのプロパガンタとして使われ方が出来るのが欠点だが、世界最高の言語だと思う。
ところが、日本語が特殊であるとする論は、近代以降しばしば提起されている。極端な例ではあるが、戦後、志賀直哉が「日本の国語程、不完全で不便なものはないと思ふ」として、フランス語を国語に採用することを主張したり、エスペラント語を公用語にしたいという主張があったときもあるが、冗談じゃない。
■日本語の由来
漢字が日本に入ってきたのは、紀元後2世紀から3世紀にかけてというのが通説である。その当時、土器や銅鐸に刻まれて「人」「家」「鹿」などを表す日本独自の絵文字が生まれかけていたが、厳密には文字体系とは言えない段階であった。
「漢字」は黄河下流地方に住んでいた「漢族」の話す「漢語」を表記するために発明された文字である。そしてあいにく漢語は日本語とは縁もゆかりもない全く異質な言語である。
こういう場合に、もっとも簡単な、よくあるやり方は、自分の言語を捨てて、漢語にそのまま乗り換えてしまうことだ。歴史上、そういう例は少なくない。
漢字という初めて見る文字体系を前に、古代日本人が直面していた危機は、文字に書けない日本語とともに自分たちの「言霊」を失うかも知れない、という恐れだった。しかし、古代日本人は安易に漢語に乗り換えるような事をせずに漢字に頑強に抵抗し、なんとか日本語の言霊を生かしたまま、漢字で書き表そうと苦闘を続けた。
そのための最初の工夫が、漢字の音のみをとって、意味を無視してしまうという知恵だった。「末」の意味は無視してしまい、「マ」という日本語の一音を表すためにのみ使う。万葉集の歌は、このような万葉がなによって音を中心に表記された。
さらにどうせ表音文字として使うなら、綴りは少ない方が効率的だし、表語文字である漢字の形を崩してしまえばその意味は抹殺できる。そこで「末」の漢字の上の方をとって「マ」というカタカナが作られ、また「末」全体を略して、「ま」というひらがなが作られた。漢人の「末」にこめた言霊は、こうして抹殺されたのである。(下表参照)
外国語は漢字やカタカナで表現されるので、ひらがなで表記された大和言葉から浮き出て見える。したがって、外国語をいくら導入しても、日本語そのものの独自性が失われる心配はない。その心配がなければこそ、積極果敢に多様な外国の優れた文明を吸収できる。これこそが古代では漢文明を積極的に導入し、明治以降は西洋文明にキャッチアップできた日本人の知的活力の源泉である。
多様な民族がそれぞれの独自性を維持しつつ、相互に学びあっていく姿が国際社会の理想だとすれば、日本語のこの独自性と多様性を両立させる特性は、まさにその理想に適した開かれた「国際派言語」と言える。この優れた日本語の特性は、我が祖先たちが漢字との「国際的格闘」を通じて築き上げてきた知的財産なのである。
インターネット上の言語使用者数は、英語、中国語、スペイン語、アラビア語、ポルトガル語に次いで6番目に多い。(2013年1月現在)(Wikipedia参照)
■中国語を支える日本語(サンケイ新聞「明解要解」2008.8.20号)
中国語には約1万語の外来語があり、その大半が「仏陀(ぶっだ)」や「菩薩(ぼさつ)」「葡萄(ぶどう)」「琵琶」などインドやイランなど、西域から入った言葉といわれている。
その残り1割、1000語余が清朝末期以降、日本から取り入れた言葉で、社会科学や自然科学などの学術用語の約7割が、英語やドイツ語などから翻訳した和製漢語といわれている。
日本語導入のきっかけは、欧米列強によって亡国の危機感に襲われていた清朝の志士たちの「日本に学べ」の精神だった。
『現代漢語中的日語“外来語”問題』の著者・王彬彬氏は、「われわれが使っている西洋の概念は基本的に日本人がわれわれに代わって翻訳してくれたものだ。中国と西洋の間には、永遠に日本が横たわっている」と指摘。
日中戦争が始まる1937年までの40年間に、留学生だけでも延べ6万人が来日。明治維新を経て近代化を急ぐ日本で西欧を学び、そして和製漢語を取り入れたのである。
本来、漢字だけで成立する中国語が外来語を取り入れる場合、「電視機」=テレビや「電氷箱」=冷蔵庫などの意訳型と、「可口可楽」=コカ・コーラなど音訳型の2つに大別される。
当時の日本が欧州の言葉を日本語に翻訳する場合はほとんどが意訳だったため、和製漢語でも、漢字本来の意味を踏まえて翻訳した「哲学」や「宗教」などは中国人にも理解しやすかったようだ。
「中華人民共和国 共産党一党独裁政権 高級幹部指導社会主義市場経済」という中国語は中華以外すべて日本製(語)だという。
明治時代の日本人が、欧米の学問を漢字で翻訳してくれたから、当時の中国は世界を理解できた。平仮名や片仮名に翻訳されていたら今ごろ、中国はどうなっていたのだろうか。
■日本語で注意が必要なこと
●言葉の順序を変えると違う見方をされる
ある研修で血液型と性格の関連性のテストをしたことがあった。
実は同じ文章だったのに、順序を変えると、先に云った言葉の方が強調され、違う文章のように感じる。
これはあいさつなど、折角ほめようと思ったのに、言葉の順序のせいで逆効果になることもあるので注意しなければならない。
こんな例もある。「塩焼きそばと同じくらい嫁を愛している」 「嫁と同じくらい塩焼きそばを愛している」どちらもA=Bなのに、愛の量に差異があるように聞こえてしまう。
「最下位と6ゲーム差開いてるけど借金8あるんだよな」と、「借金8あるけど最下位と6ゲーム差開いてるんだよな」は同じ事実を述べているのに言いたい事が正反対の印象を受ける。
●間違った使い方をしていないか
1.役不足
正しくは「力量に比べて、役目が不相応に軽いこと」という意味。逆の意味合いで使ってはいませんか?×「社長の代わりだなんて、私には役不足でございます」←とんだ自信家になってしまう。
2.失笑
「笑いも出ないくらいあきれる」という意味で使われがちだが、正しくは「思わず笑い出してしまう/おかしさのあまり噴き出すこと」という意味になる。「あなたのお話には失笑したよ」と言われたときは、喜んでいいんですね!
3.うがった見方をする
「疑ってかかるような見方をする」という意味で使われることがあるが、正しくは「物事の本質を捉えた見方をする」という意味になる。「疑った」と「うがった(穿った)」の音が近いことから、このような勘違いが生まれたのかもしれない。
4.姑息
「卑怯なこと/正々堂々と取り組まない様子」という意味で使われがちだが、正しくは「一時のがれ/その場しのぎ」という意味になる。姑息な手段でトラブルを切り抜けることは、案外悪くないのかもしれない。
5.なし崩し
「曖昧にする/うやむやにする」という意味で使われがちだが、正しくは「物事を少しずつかたづけていくこと」という意味になる。日々のタスクは、積極的になし崩しにしていきましょう。
6.敷居が高い
「水準が自分には高すぎて手が出しづらい/自分には合わない」という意味で使っている方が多いかもしれないが、正しくは「不義理や面目のないことがあって、その人の家へ行きにくい」という意味になる。「あそこの寿司屋はちょっと敷居が高い」なんて言う人がいたら、一体何をやらかしてしまったのか聞いてみましょう。
7.気が置けない
「気を許せない/油断できない」という意味で使われがちだが、正しくは「遠慮したり気をつかったりする必要がなく、心から打ち解けることができる」という意味になる。
8.情けは人の為ならず
「誰かに情を掛けることは、その人のためにならない」と思っている人も多いようだが、正しくは「人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分に戻ってくる」という意味になる。人に情けはどんどんかけていきましょう。
日本人の心の中には、「言霊」というものがある。もちろんこれは宗教の話ではない。しかし言霊というものは、霊というものがあるかないかではなく、多くの日本人が信じているものだ。
明日は運動会だということでみんなで準備に盛り上がっているときに、誰かが「明日は雨が降るだろう」といったとしましょう。その時は、せっかくみんなが楽しみにしているのに水を差すいやなことを言う奴だ、という程度のものかもしれない。ところが、翌日本当にどしゃ降りの雨が思いがけなく降ったりすると、「おまえがあんな事を言ったからこんな天気になった」と冗談まじりにでも非難する者がたいてい出てくる。
しかし、考えてみると、「明日は雨が降るだろう」と発言することと、実際に雨が降るという自然現象の間には断じて因果関係はないですね。それなのに私たちの心の動きは、「誰かが縁起でもないことを言ったからそれが現実のものとなった」と思ってしまうんです。
このような日常的で些細なことだけならさして「実害」はないが、ことが戦争を決断するかどうかという、多数の国民の運命に関わる重大な国家的決定に際してこのような「言霊」信仰が作動すると、合理的、理性的な判断を抑え込んでしまうことになる。
●真実を隠して婉曲的な言葉にすり替えることが容易なこと
新語が作りやすいのを利用し、真実を婉曲して問題をはぐらせることが出来るのが日本語だ。
「少女買春」は「援助交際」にすり替わってしまうし、「引きこもり」は「二ート」、「敗戦」は「終戦」となり、これで戦後の意味合いが変わってしまった。
政府のキャッチフレーズにもそのような目くらましが多い。
以前「骨太の方針」とか言っていたがあれは一体何だったのか、未だによくわからない。「積極的平和主義」は「軍国主義」といった方が早いような気がするし、「アベノミクス」と言えばあたかもレベルの高い学問のように聞こえる。
「婚外恋愛」も同じである。「不倫」という背徳性のある言葉を、罪悪感を減らすように上手く言い換えている。この同義語は、「姦通」、「不義密通」だが、こんな表現をするとおどろおどろしい。砕けた言い方にすると、「浮気」や「よろめき」である。
段々、ネガティブな方向になってきそうなので、今日はこの辺でお開き。![]()
第56回外国人による日本語弁論大会・外務大臣賞 (2015.6.13)
ジャネル ジョイス サーミエント カヒリグ(フィリピン)
内気だった私を変えたのは、日本の歌でした。新しい自分を見つけたのは、日本語という美しい言語との出会いがあったからです。ですが、どんなに聞いても、歌っても、話しても、どうしても理解できない言葉はたくさんあります。解らないのに、なぜこんなにも自分の感情の表現が豊かになるのか。日本に行ったら分かるかもしれない。そんな気持ちを抱き、日本に来ることを決めました。来日して、思った判ったこと、そして感じたこと、私の心の種をこの大会を通じて皆様に伝えたいと思います。
アン真理子/悲しみは駆け足でやってくる(1969年)
【明日と云う字は明るい日と書くのね】