ここのところ拙ブログでは、満州関連の記事が続いたが、これが最終稿である。
この本は、圧倒的な得票数で読売新聞の「あなたが選ぶ20世紀ベストドラマ」のNo.1に選ばれた不滅の大作「大地の子」を書く過程でのエピソード、対談、講演などをまとめたもので、「大地の子」の「あとがき」と言って良い内容になっている。
1987年5月号から1991年4月号まで文藝春秋の月刊誌『文藝春秋』に連載され、1991年に同社から単行本が全3巻で刊行。そして、1994年には文春文庫版が全4巻で刊行された。
これは毎週欠かさず見たが、感動の涙・涙の連続だった。特に、主役の陸一心役の上川隆也さん(現在50歳、当時は30歳、画像中央)の演技は、本当の残留孤児かと思うほど難しい中国語を克服し、苦難に満ちた孤児の半生を見事に演じた。
「大地の子」と私の記事に移ろう。
「大地の子」取材日記で、1984年10月24日に戦争孤児の取材の部分は、胸が締めつけられるようで、涙無くしては読めないところだ。(以下要約)
当時彼は9歳、ソ満国境に近い開拓団の小学校3年生で、秋の収穫を手伝っているとき、突然、非常サイレンが鳴り、馬に乗った開拓団の連絡員が、「ソ連軍が国境を越えて攻めてきた。7日分の食糧と身の廻り品を持って本部前に集まれ」と、各集落に命令した。
両親と、13歳の姉と9歳の私、4歳の妹の3人は食糧、身のまわり品を馬車に積んで出発した。全団員男子老人31人、女子子供230名が、日本の大部隊が駐屯している勃利に向かった。1945年8月9日の夜だった。
雨の泥道の中、二晩歩き続けたとき、勃利にはもう日本軍はいないという報せを聞き、団の人たちは関東軍はわれわれを見捨てたのかと怒り、泣いた。
それから団長の判断で依蘭を迂回して、牡丹江まで辿りつくことになった。
誰も8月15日に、日本が降伏したことを知らず、ソ連軍を怖れて逃げ、夜露に濡れながらの野宿を重ねているうちに、次々と死者が増えました。
私の母も、或る夜、妹を背中から下ろして、いつものように家族が体を寄せ合うようにして眠り、翌朝、目を覚ますと、棒のように硬くなって死んでいたのです。
ようやく、山道が切れ、台地のようなところに出、川が見え、私たちはほっとしましたが、兵隊たち(注:途中で一部合流した)は殺気立ち、「これからは平地に出、あの川を渡らねばならない。それには幼児の泣き声は敵に察知されるから五歳以下の子供は殺せ、全滅から助かるにはそれしかない」と云いました。
私の父は、男の私が背負っているから絶対、泣かない、迷惑をかけないと懇願しましたが、聞き入れられませんでした。
父は、姉と私に、ここで動かず待っているんだぞと云い、雑木林の中の大きな樹で、根っこのところが洞のようになっているとことで、この間まで母がしていた背負い紐をほどいて、妹を洞の中へ坐らせました。夜、寝るとき以外は、一日中、背中にくくりつけられている妹は、下ろされて、手足が自由になるのを喜んで、栄養失調で皺んだ顔で、あーうーうーと声を上げて、小さな手を動かしていました。
父は暫く妹をあやして頭を撫で撫でしたかと思うと、いきなり、背負い紐で妹の首を絞め…、妹は声もたてず、死んで…、我が子を絞め殺す父の姿を見てしまいました…。
父はソ連兵が連れ去り、残された姉と私は、難民収容所へ来た中国人に貰われました。
ところが、1982年、日本からの肉親捜しの中に私の名前があり、中国紅十字会経由で、日本の父が私のことを捜していることを知りました。そのときの驚きは、言葉で云い尽せません。
1983年の春、日本に里帰りすると、頭の白くなった父が成田空港まで出迎えてくれました。
ですが、どんなに気を遣ってくれても、樹の祠に妹を下ろし、くくり紐から自由になって小さな手をあげて喜んだ妹を、母がしていた背負い紐で絞め殺した父の姿は、瞼に焼き付いて離れません。おそらく生涯、あのときの怖ろしさは、私の胸から消えないでしょう。
どうしても日本の父を、父とすることができませんでした。私の心は固く閉ざされ、中国の養父母のもとに帰ってきました。そして私が思ったことは、私は二つの祖国を持っている、私の民族、血統は日本、忠誠を誓うのは中国だということですー。
話し終えたとき彼の眼に涙が滲み、私(注:山崎豊子)の眼からはぼうどと涙が滴り落ちた。通訳の方は涙を見せぬように立ちあがって窓の外を見ていた。
関東軍はソ連軍の侵攻と同時に、救出列車を出して開拓民の避難完了まで徹底抗戦するのが義務でありにも関わらず、開拓民を見殺しにしたといっても過言ではないだろう。
この書では、幾つも見どころがあるのだが、手が腱鞘炎になりそうなので、これで終えたい。
良書は読み継がれなくてはいけない。あとがき・解説の中で「日本人は健忘症になってしまったのだろうか」と書いている。日本人残留孤児の辛酸さを決して忘れてはいけないとの警告にもとれる。
本作は、日中の歴史を再確認するとともに、平和の尊さを考えさせられたが、山崎豊子がここまで年月をかけて完成への情熱を燃やしたのは、戦争に対する憎しみからだった。
「不条理に立ち向かい、虐げられた側の心を書き残すのが作家の使命」と語っていたのは、戦争を憎み、命の尊厳を守りたいという必死の願いからだった。
激しさと熱さが、物語の人物たちにも乗り移っている。「自分の血で描いているという思いがある私には青春を奪った横暴な国家というものを許さん、という思いがしみこんでいます。泣きみそ(泣き虫)ですが気が強いんです」
その後、彼女は1993年、中国残留孤児の帰国子女に奨学助成する、山崎豊子文化財団を設立した。
経済的理由により修学が困難な中国帰国子女に対して学資を助成し、日中友好の架け橋となる人材を育成することを目的とした。
自身が住んでいる大阪で財団を作ることにより、各都道府県でも残留孤児のために育英財団を作るきっかけになれば、という願いも込められている。
2013年、11月23日に行われた、お別れの会では、小説「大地の子」の印税などを基に、中国残留孤児の子供たちに学資援助する「山崎豊子文化財団」の元奨学生で、弔辞を読んだ大阪府の女性(38)は「先生から頂いたのは経済的支援だけでなく、日本で生きていくための勇気と自信、心の支えです」と声を詰まらせた。
安倍首相もこの本を読んで爪の垢を煎じたらいいだろう。