夢は、寝ているときに見る夢と、将来実現させたいと心の中に思い描いている願いの意味があり、いずれも英語で「Dream」という。
また、夢に似た意識状態が覚醒時に現れるものは日本語で「白日夢」(はくじつむ、白昼夢ともいう)、英語では「Daydream」という。
例えば、「貴方は夢を見ますか」と聞かれたとき、何と答えるだろうか。
寝ているときの夢と、起きているときの夢は意味が違うのに、なぜ日本語も英語も同じ言葉なんだろうか。
将来の夢について考えることは大切なことだと言われている。
「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし」
しかし、果たして自分は今まで夢について真剣に考えて生きてきたのだろうかと思う。
若い頃、人から見た目にはいわゆる「優等生タイプ」だったが、将来の夢どころか不安や劣等感だらけで、このまま大人になったらどうしょうもないことだけは想像がついていた。
それを否応なく知らされ、徹底的に打ちのめされたのは、大学に入学したときの「オリエンテーション」のときだった。
その「オリエンテーション」とは、近くの温泉で泊まりがけで主に先輩や同級生とグループ討議を行うのだが、自分に夢やビジョンがないことをはっきりと知らされたのだ。
大学に入ることが目標で、それ以上のことはなかったのである。
今から思えば、いわゆる「燃え尽き症候群」に陥っていたのだが、タダ転んだだけで済まさなかったのが良かった。
とにかく「本」を読んで人生のこと深く知ろう、そして、「アルバイト」によって世の中に慣れようと決心した。それでようやく、それから立ち直った。
世は「大学紛争」が真っ只中のころ。大学はトコロテン式に卒業したものの、世の中に対する不安は覚めやらず、何をしていいか分からなかった。
それでも、東京の会社に何とか潜り込み、今まで波乱万丈ながら生きてきた。
人に「夢は何ですか」と聞かれたらありていに答えることは出来るが、あまり考えた経験はないというのが本音である。
こんな歌がある。
小林幸子/幸せ(1997年)
夢なら醒める ああいつかは醒める 見なけりゃよかったのにと言われても それでも夢が醒めるまでのあいだ 見てたことを幸せと呼びたい
あなたの町が 窓の向こうで星のように遠ざかる電車で思います
幸せになる 道には二つある 一つめは願いごとうまく叶うこと 幸せになる道には二つあるもう一つは願いなんか捨ててしまうこと
せんないね せんないねどちらもぜいたくね せんないね せんないね これからどうしよう 幸せになりたいね
人はなぜ生きているのだろうか。
「夢」や「希望」があるからだろうか。
「何の希望もない。ただ死ねないから生きているだけです」
一方、極限の状況に置かれても、夢や希望を持って生きる人もいる。
こんな極限の状況に置かれても、夢や希望を持って生きる人たちがいるのだ。
夢や希望は要らない、今が良ければという、70年安保の頃の歌。
佐良直美/いいじゃないの幸せならば(1969年)
あのときあなたとくちづけをして あのときあの子と別れた私 つめたい女だと人は言うけれど いいじゃないの幸せならば
あの晩あの子の顔も忘れて あの晩あなたに抱かれた私 わるい女だと人は言うけれど いいじゃないの今が良けりゃ
あの朝あなたは煙草をくわえ あの朝ひとりで夢みた私 浮気な女だと人は言うけれど いいじゃないの楽しければ
森田童子/みんな夢でありました(1980年)
今の若い世代は可哀そうだ。社会が硬直化してきて、富める者の貧しいものの格差がますます広がっている。貧しい者にとっては正に「夢」も「希望」もない国になっている。
ワーキング・プアは増大・固定化し、将来の夢を持つことが出来ない若者が増えている。
その不満は実はときの政府に利用されやすい。不満の矛先が政治の貧困を糾弾するのではなく、他国に向かうように仕向けることが出来るからである。
それが今の安保法制に繋がっているのだ。
相川七瀬/夢見る少女じゃいられない(1995年)
でもオトナは、こんなことを言わないといけないのだろうね。
岡村孝子/夢をあきらめないで(1987年)