哈日族(ハーリーズー)と言って、日本大好き台湾人のことを投稿したことがあるが、今回は日本で活躍した台湾スターを紹介したい。
まずはこの映像から。
ここで紹介する9人の出身地を見てみよう。
首都の台北市(人口260万人)出身は、セクシー・グラビアアイドルのインリン・オブ・ジョイトイ(垠凌)(37歳)、日本やアジアで活躍する、日本人の父と台湾人の母の元で生れた俳優、金城武(かねしろたけし)(40歳)、台湾一有名なモデル、リン・チーリン(林志玲)(39歳)、歌手・女優・版画家としても著名な才女、ジュディ・オング(翁倩玉)(63歳)、「雨の御堂筋」で一躍ブレイク、今も人気歌手の欧陽菲菲(オーヤン・フィフィ)(64歳)の5名。
日本でもとても人気があったマルチタレントで、『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』では、ウッチャンナンチャンの南原清隆、キャイ〜ンの天野ひろゆきと「ブラックビスケッツ」を結成。ここでもブレイクした、ビビアン・スー(徐若瑄(シュー・ルオシュエン))(38歳)の出身地は台中県豊原市。
人気歌手の一青窈(ヒトトヨウ)(37歳)は台湾人の父と日本人の母との間に新北市で生まれたが、6歳で父を台湾に残し東京都に移住した。
幽玄道士でおなじみのシャドウ・リュウ(劉致(リュウ・ツーイー)、旧芸名:テンテン)(35歳)は、花蓮県に生まれる。
そして、最後はアジアの歌姫、テレサ・テン(本名:麗筠(デン・リーユン)、中国語の芸名は麗君(デン・リュージュン))(1995年、42歳で没)は雲林県で生れた。
初の国民栄誉賞に輝いた現在はダイエー・ホークス会長の王貞治(73歳)(写真右)も日本育ち。
何と言ってもアジアの歌姫、テレサ・テンが一番有名。
少し経歴を追ってみよう。彼女は42歳で不慮の死を迎えたが、その人生は波乱万丈だった。
テレサ・テンの両親は大陸出身のいわゆる「外省人」である。父親は国民党軍の陸軍中尉だった。
彼女自身生前軍隊への慰問活動を熱心に行っていたこともあり、台湾では「軍人の恋人」というニックネームがついていた。
文化大革命(1966年-1976年)や天安門事件(1989年)にも出会い、民主化運動のシンボルとして奉られる一方、中国共産党からも利用され、「二つの中国」のはざまに翻弄された人生だった。
日本での活動は、1979年、日本入国の際に違法の手続きで取得したインドネシアのパスポートを使用したことが発覚、国外退去処分になったときを挟んで、前半と後半に分かれる。
前半は1974年、既に台湾や香港で成功をおさめていたので交渉は難航したが、当時の日本ポリドールレコード制作部長の舟木稔の熱意が実り、「今夜かしら、明日かしら」という曲でデビューを果たした。
続く第二弾の「空港」が大ヒット、日本レコード大賞新人賞を獲得、このヒットにより彼女の名前は日本全国に知れ渡った。
後半は、国外退去から5年後の1984年再来日から、1987年に住居を香港に移すまでの3年間。レコード会社をトーラスレコードに移籍、日本でリリースした「つぐない」、「愛人」がそれぞれ150万枚、「時の流れに身をまかせ」が200万枚を売る大ヒットとなる。
それでは、日本レコード大賞新人賞を獲得した「空港」と、テレサ・テンの代表曲で、彼女が生涯一番たくさん歌ったとされる曲、「何日君再來」(ホーリージュン ザイライ)を。
テレサ・テン/空港(1974年) 何日君再來
テレサ・テン/愛人(1985年) 時の流れに身をまかせ(1986年)
一青窈/もらい泣き(2002年) ハナミズキ(2004年)
ブラックビスケッツ/タイミング(1998年)
ジュディ・オング/魅せられて(1979年)
欧陽菲菲/雨の御堂筋(1971年) Love is over (1983年)