奇しくも前作の山口淑子(李香欄)さんも、葬儀や告別式は近親者で済ませたそうだし、死亡発表が1週間以上遅れたのも似ている。
女性なので老醜を衆目にさらせたくなかったのだろうか。真偽のほどは定かでない。
当たり前のことだが、もう一つ同じことがある。二人とも苗字が「山口」だということだ。
そう、二人とも自分と同姓なので複雑な気持ちなのだ。
彼女は、名古屋で生れ、京都で養母に育てられる。
1956年(19歳)銀座でクラブ「姫」を開業するとともに、1957年(20才)には東映の第4期ニューフェイス(同期に作久間良子、山城新伍ら)に選ばれたが、すぐに女優をあきらめ、事業に専念した。
折しも、1966年~67年のムード歌謡の誕生以降、大人の社交場や繁華街を舞台にした夜の歌謡曲が原型になり一つのジャンルが形成されつつあった。山口洋子はそのようなシーンから登場した女流作詞家である。
最初の作品は1969年の神楽坂浮子の「銀座化粧」だったが、1960年代後半から1970年代前半にかけて目覚ましい活躍をした。
その名曲の数々は後で紹介する。
1980年代からは小説の創作活動も始め、1985年(48歳)には「演歌の虫」、「老梅」で直木賞を受賞。
当時は破竹の勢いだったが、好事魔多し、1996年(62歳)に高血圧性脳症で倒れ、その後、更年期うつ病に見舞われ、死にたい、死にたいと暮らした投薬とリハビリの日々。
関係者によると、山口さんは昨年1月に誤嚥性肺炎で入院し、その後も入退院を繰り返していた。それでも主治医と散歩をするなど安定した日々を送っていたが、今月5日に容体が急変。近親者に見守られながら、静かに息を引き取ったという。
ご冥福をお祈りしたい。
彼女の作詞による作品をいくつか聴いてみよう。
猪俣公章との作品
野村将希/一度だけなら(1970年)
前川清/噂の女(1970年)
平尾昌晃との作品
中条きよし/うそ(1974年)
山川豊/アメリカ橋(1998年)
小谷充と弦哲也との作品
石原裕次郎/ブランデーグラス(1977年)
石原裕次郎/北の旅人(1987年)
昨年(2013年)の1月から12月までの長期連載になった日刊ゲンダイ「ドキュメント五木ひろし・限りなき飛翔」(大下英治著)の新聞を切り取って保存していたのでその経緯を調べてみた。
1970年、当時芸名が三谷謙だった五木ひろしは、歌手生命のすべてを賭けて、よみうりテレビ制作のオーディション番組『全日本歌謡選手権』に挑戦した。
「噂の女」で1週目を通過した三谷は、2週目も「目ン無い千鳥」で勝ち抜いた。
この歌声は、審査員のひとりである山口洋子の胸にくさびを打ち込んだ。実は、彼女が彼の歌を聴いたのは、このたった1回だけだったそうだ。その1回だけで、心の奥底まで掴まれたのである。
何言っているんですか。徳間音工さんにはすごい歌手がいるじゃないですか」
むろん、彼女が言う歌手とは、ミノルフォン専属の五木ひろしのことであった。
「よこはま・たそがれ」は『全日本歌謡選手権』の7週目を勝ち進んでいるころ作られた。山口が用意した8曲のうち、ただ一つだけ強烈に引きつけられる曲があった。それが「よこはま・たそがれ」だった。
最終的には10週連続で勝ち残り、グランドチャンピオンに輝く。これにより、レコード歌手として再デビューできる権利を獲得した。
1971年3月、新しい芸名を「五木ひろし」として、ミノルフォンから再デビューを果たしたのだ。
そして、やっとオリコンの頂点に立ったとき、真っ先に電話をした先が山口洋子だった。
山口は後にこのときの様子を語っている。
「人目もはばからず泣いているのが見えました。悔しかったこと、良かったこと、辛かったこと…。そう言った万感あふれる思いを言葉には洩らさなかったけど、どんな言葉よりも私には胸に響いたのです」
五木ひろし/よこはま・たそがれ(1971年)
その後は、主に平尾昌晃とのコンビで「長崎から船に乗って」、「ふるさと」、「夜空」など、次々とヒットを重ねた。
ところで、山口洋子が「(自身の作品の中で)一番好き」と述懐し、五木ひろしの代表作でもある「千曲川」はいわつきの曲である。
しかし、かねてより五木のNHK紅白歌合戦での初トリと2回目の日本レコード大賞獲りを願っていた山口洋子は、この三拍子のメロディーの美しさに惚れ、猪俣から略奪に近い形でこれを譲り受ける。
信濃川と名前を変え滔滔と日本海に注ぐ“日本一の大河”千曲川を詠った明治の文豪・島崎藤村の「千曲川旅情の歌」に感銘を受けた山口は、これを「千曲川」に改題し、敢えて現地には赴かずに軽井沢で現地の情景を憧憬にも似た想いで詞を練ったという。その際、演歌にありがちな愛や色恋や情の部分を廃した。
五木はこの曲について「音域が意外に広く、迂闊には歌えない難しい曲」と語っている。後年、この歌碑が長野県戸倉上山田温泉・萬葉公園内の千曲川を臨むことのできる位置に建立されている。(地図)(Wipipedia参照)
五木ひろし/千曲川(1975年)
それは逆に、五木ひろし(写真右端)が、その公演を企画した、日本キックボクシングの生みの親で、山口洋子の最晩年のパートナーにもなった、プロモーター・野口修(現在80歳、写真左端)および、山口洋子(写真中)から別れる原因を作ってしまった。
五木ひろしの追悼文。
山口洋子さんの訃報を聞き、驚いております。
信じられない気持ちでいっぱいです。
思えば45年近く前に、私がなかなか売れない時代、10週勝ち抜きの全日本歌謡選手権というのに出場した時に審査員で山口洋子さんがいらっしゃって、そこが最初の出会いでした。
そして、五木ひろしという名前をつけていただき、平尾昌晃さんとのコンビによって「よこはまたそがれ」という歌と出会い、その歌を作っていただき、五木ひろしがスタートしました。
今日があるのは、本当に作詞家であり、そしてまたプロデューサーでした山口洋子さんとの出会いがすべてです。
あの出会いがなければ五木ひろしは存在しませんでした。
いろんなテーマを私に与えてくださいました。
いろんなことにチャレンジする精神と、そしていい歌を継承していくこと、さらには、幅広くいろんなことを歌えるそんな歌手であってほしい、それが私に与えた大きな課題でした。
「よこはまたそがれ」から「ふるさと」という歌があり、さらには「夜空」。そしてその歌でレコード大賞を受賞した時のあの感激、一生忘れません。
その後、ご自分で詞を書くことだけではなくて、プロデューサーとして古賀メロディーを私に歌うチャンスを作ってくださったり、幅広く色んなことにチャレンジをさしてくださいました。
と同時に私の姉と同い年ですから、仕事を離れた一面では家族のようであり姉のようであり、そんな家族ぐるみで、まさに家族のようにお付き合いをさせていただきました。
この数年しばらくお会いすることもなかったんですけれど、毎年5月が誕生日なもんですから、誕生日にはお花を届けておりました。今年も。そうすると必ずその贈ったお花の写真と一筆添えて「いつも気にしてくれてありがとう」という、一筆添えて礼状が届いておりました。それが私にとりましては、お会いしてなかったけれど、元気の便りでした。
まさかこのような訃報を聞くとはほんとに夢にも思っておりませんでした。
もう、今はまだショックでいっぱいですけれど、これを現実として受け止めるならば、これからもそして今までも、私の代表作とは山口洋子さんとは常に一緒に40数年歩んできた思いでいっぱいです。
これからも、私が命ある限りその思いは続いていきます。
今、私はさまざまな多くの作家の方々とお会いして仕事をしてきましたけれど、すべては山口洋子さんとの出会いからスタートしてますし、私自身が今、自分がいろんなことを考えたりプロデュースするのも、すべて山口洋子さんから教わったことです。
感謝の気持ち、もうほんとに「ありがとうございます」と、その言葉しか今見つかりませんけれど、残念で仕方ありません。
と同時に、これからも私が歌手として続けていく限り、その作っていただいた、そしてまた、プロデュースしていただいた作品も含めて、より感謝の気持ちで歌い続けていきたいと思っております。