今回は、ちょっと下品な話題から。こんな歌をご存知だろうか。
ヒットラーのキンタマ/Hitler Has Only Got One Ball(1939年)
*音が小さいので音量を上げて聴いて下さい
「ヒットラーのキンタマ」(Hitler has only got one ball、ヒトラーにはひとつしかキンタマがない)とはケネス・アルフォード作曲『ボギー大佐』に下品な歌詞を付けた歌である。
第二次世界大戦中のイギリス軍兵士の間で広まった。歌詞はドイツの指導者を揶揄する四行詞であるが、さまざまなバリエーションがある。
この歌の起源は広告代理店業であったトビー・オブライエンが、1939年8月にイギリスのプロパガンダとして書いたものと言われている。
(Wikipedia参照)
ところで、どうしてその、第二次世界大戦が始まったのだろうか。
1914年、第一次世界大戦に敗戦し、いわゆるヴェルサイユ体制となると、ドイツは多額の賠償金を負うとともに、領土を奪われた。(次図)
領土は基本的に戦争をしないと戻ってこないそうだ。奄美諸島や沖縄の返還は希有な例だという。
ヒットラーは、1938年3月オーストリア国民の熱狂的とも言える支持のもと、オーストリアを併合した。
1938年9月に開催されたミュンヘン会談(写真)で、ネヴィル・チェンバレン英首相(左)と、エドゥアール・ダラディエ仏首相(左から二番目)は、ヒットラーの要求に屈し、チェコスロバキアは解体された。ドイツはズデーテン地方を獲得し、チェコを保護国とした。
この代償は大きかった。英仏が宥和策を取ったことで、ドイツの拡大路線を掣肘する機会を逃した。もし、英仏が対処を間違わなければ、ドイツは拡大を諦め、第二次世界大戦は回避できたかも知れないという。
東欧諸国は英仏を頼りにならないと見て独伊への接近を始め、チェコとの相互援助条約を結んでいたソ連もまた、自国を無視して英仏がミュンヘン協定を結んだ事に大きく反発。
英仏の望みはドイツの目を東に向けさせ、「独ソ戦」を発生させる事ではないかと疑惑を持つようになる。
ヒットラーの要求はこれにとどまらず、1938年10月にはヴェルサイユ条約によりポーランドに割譲されたポーランド回廊の回復に手をつけた。
英仏にとってミュンヘン会談が妥協の限界だったが、彼にとってはミュンヘン会談での成功は更なる要求への一歩でしかなかった。ミュンヘン会談の合意を反故にされた英仏はここに至り、急速にドイツとの対決姿勢をみせることになる。
1939年9月1日、ドイツ軍へポーランドへの進攻を指示した。9月3日英仏両国もドイツへ宣戦を布告、ここに第二次世界大戦が勃発した。
経済に関しては、1929年の世界恐慌に対する対応として、英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。
しかし、広大な植民地市場や豊富な資源を持たないドイツやイタリアはこのような解決策を取ることができなかった。
両国の国民は絶望感と被害者意識をつのらせ、ファシズム、ナチズムの運動が勢力を得る下地が形作られた。(Wikipedia参照)
それでは、今回は第二次世界大戦の戦争映画を紹介して見よう。
映画「史上最大の作戦」(The Longest Day)(1962年)
映画「大脱走」(The Great Escape) (1963年)
○「史上最大の作戦」は、1944年6月6日の、第二次世界大戦における連合軍のフランス・ノルマンディー海岸への上陸作戦、「オーバーロード作戦」を取り扱ったアメリカ映画。
ジョン・ウェインやヘンリー・フォンダらが出演、40億円以上の巨費を投じ、当時としては「史上最大の」映画だった。音楽はモーリス・ジャール、主題歌は出演者でもあるポール・アンカが担当した。
○「大脱走」は、スティーブ・マックイーン主演のアメリカ映画。音楽はエルマー・バーンスタインが担当。第36回アカデミー賞では編集賞にノミネートされた。
第2次世界大戦中の1944年3月、ベルリン南東160km のザーガンにあったドイツ空軍の管理する連合軍の航空兵捕虜収容所から捕虜が集団脱走した史実を映画化したもの。
映画「僕の村は戦場だった」(1962年)
http://youtu.be/gtuB-TT5TUs映画「戦場のピアニスト」(The Pianist) (2002年)
○ソ連映画「僕の村は戦場だった」は、戦争の悲惨さを12歳の少年の悲劇をとおして描いたA・タルコフスキーの長編デビュ-作。
第二次大戦中、ドイツ軍の戦火で故郷の村を失い、母と妹も行方不明になり、ひとりぽっちとなったイワン少年(ニコライ・ブルリャーエフ)。ドイツ軍を憎悪するイワンは少年斥候兵となって活躍し、彼がもたらす多くの情報は味方にとって貴重なものだった。だが、その任務は危険きわまりない…。
○「戦場のピアニスト」は、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作映画。ナチス・ドイツのポーランド侵攻以後、ワルシャワの廃墟の中を生き抜いたユダヤ系ポーランド人のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの体験記を元にしている。
第55回カンヌ国際映画祭パルムドール受賞、自身もゲットーで過ごした過酷な体験を持つロマン・ポランスキー監督渾身の名作。
映画の中でシュピルマンが弾き、象徴的に使われたノクターン 第20番嬰ハ短調 遺作 (1830年作曲、1875年出版)がよく知られるようになった。
○「撃墜王アフリカの星」は、西ドイツ映画。第二次大戦中のドイツで、対米空軍との空中戦で撃墜記録を誇ったハンス・ヨアヒム・マルセイユの戦歴、恋、そして墜落死までの生涯を描く。
現存するメッサーシュミットが戦闘シーンで使用されている。
ヨーロツパ戦線で米軍機撃墜記録を樹立したドイツ軍の若きヒーロー、マルセーユ大尉(ヨアハム・ハンセン)の青春とは何であったか。空軍士官学校で暴れ者だった彼が英雄に祭りあげられたとき、仲間はバタバタと死んでゆき、自分の撃墜記録も殺した青春の数であり、恋愛をしてもすべてが空しい…。
現存するメッサーシュミットが戦闘シーンで使用されている。
ヨーロツパ戦線で米軍機撃墜記録を樹立したドイツ軍の若きヒーロー、マルセーユ大尉(ヨアハム・ハンセン)の青春とは何であったか。空軍士官学校で暴れ者だった彼が英雄に祭りあげられたとき、仲間はバタバタと死んでゆき、自分の撃墜記録も殺した青春の数であり、恋愛をしてもすべてが空しい…。
○「ナバロンの要塞」は、アリステア・マクリーンの同名小説の映画化したアメリカ映画。
1962年の第34回アカデミー賞の特殊効果賞、第19回ゴールデングローブ賞の作品賞(ドラマ部門)、音楽担当のディミトリー・ティオムキンは、ゴールデングローブ賞の音楽賞を受賞した。監督はJ・リー・トンプソン。グレゴリー・ペック、デヴィッド・ニーヴン、アンソニー・クインらが出演した。
映画「シンドラーのリスト」(Schindler's List)(1993年)
映画「ライフ・イズ・ビューティフル」(La vita è bella)(1998年)
○「シンドラーのリスト」は、スティーヴン・スピルバーグ監督によるアメリカ映画。
第二次世界大戦時にナチスドイツによるユダヤ人の組織的大量虐殺(ホロコースト)が東欧のドイツ占領地で進む中、ドイツ人実業家オスカー・シンドラー(リーアム・ニーソン)が1100人以上ものポーランド系ユダヤ人を自身が経営する軍需工場に必要な生産力だという名目で絶滅収容所送りを阻止し、その命を救った実話を描く。
音楽はジョン・ウィリアムズ、イツァーク・パールマン(バイオリン)が主題曲を演奏する。ホロコーストに関する映画の代表的作品として知られる。
○「ライフ・イズ・ビューティフル」はイタリア映画。1939年、ユダヤ系イタリア人のグイド(ロベルト・ベニーニ)は、トスカーナのある街にやって来た。そこで彼は小学校教師のドーラとめでたく結ばれ、息子を交えた親子3人の幸福な家庭を築くのだった。
だが、戦争の色が濃くなり、幸せだった家族には強制収容所行きの過酷な運命が待ち受けていた。
絶望と死の恐怖に支配された世界を目の前にして、グイドは家族を守るため、ある「嘘」を思いつき息子に言う。
「これはゲームなんだ。泣いたり、ママに会いたがったりしたら減点。いい子にしていれば点数がもらえて、1000点たまったら勝ち。勝ったら、本物の戦車に乗っておうちに帰れるんだ」映像は、グイドが強制収容所で衛兵に銃殺される衝撃的なシーン。
映画「大列車作戦」(IL TRENO)(1964年)
映画「パリは燃えているか」(Is Paris Burning?) (1966年)
○「大列車作戦」はナチスドイツの敗戦濃くなった1944年8月、ドイツ軍敗戦間近。連合軍はパリへ進撃していた。パリでは独軍のフォン・ワルドハイム大佐(ポール・スコフィールド)は美術品の掠奪を開始していた。「この絵を安全な場所に移す」。彼はルーブルの絵が財産、つまり軍の資金になると考えていた。
仏国有鉄道の操車係長ラビッシュ(バート・ランカスター)はパリ解放の日の近いことを知り、輸送列車の出発引き延ばしを決意した。
○「パリは燃えているか」は、アメリカ・フランス合作映画。
ラリー・コリンズ、ドミニク・ラピェールによるフランス・レジスタンス(共産主義者とドゴール派)と自由フランス軍によるパリの解放を描いたノンフィクションの原作をルネ・クレマンが監督した。
脚本はゴア・ヴィダルとフランシス・フォード・コッポラが担当している。1944年8月7日から、8月19日のレジスタンスの蜂起開始、アメリカ軍の援護を受けて、8月25日のフランスの首都パリの解放に至るまでを、描く。
映画の終盤、降伏する前にパリを破壊しろというアドルフ・ヒットラーの命令が下ったが、最終的にコルティッツ将軍は命令に従わずに連合国に無条件降伏し、パリを破壊から守った。
(Wikipedia参照)