寒い毎日が続く。来週はもっと寒くなるらしい。どうも寒いのは苦手だ。
新聞を見ると、連日訃報が載っているが、今年に入って、1月4日に星野仙一氏(72歳、すい臓がんで没、写真左)が、そして、1月14日には俳優の夏木陽介氏(81歳、腎細胞がんで没、写真右)が亡くなった。
1963年、15歳でデビュー。1965年、ユーロビジョン・ソング・コンテストに、ルクセンブルグ代表として「夢見るシャンソン人形」で出場し、優勝した。この曲は日本語盤も発売され、1966年に来日、日本でも人気が高かった。
いわゆるシャンソンとは違う新しいイメージのフレンチ・ポップスとして、1960年代後半から70年代前半にかけて流行した、「イエイエ」 (Yé-yé) と称される音楽で、シルヴィ・ヴァルタン、エルザ、ダニエル・ビダル、ミッシェル・ポルナレフなどの歌うフランス音楽が当時流行ったものだった。
フランス・ギャル/夢見るシャンソン人形(1965年)
●月別死亡率
冬は寒さの影響で血圧が高くなり、心臓に負担がかかる。風邪、肺炎、結核など呼吸器病が猛威を振るう。寒さによって体を動かすのが億劫になり、うつや睡眠障害などの原因になる。
それらが原因で冬場の死亡率が高くなるようだ。
今回は、夭折の有名人【その1】に続いて、【その2】を作成する予定だったが、急きょ変更し、「結核」のことに焦点を当てた記事にしたいと思う。
●結核で亡くなった有名人
■夭折の有名人(音楽家を除く)
前作・夭折の有名人【その1】でもその名はお伝えしたが、
イギリスのヨークシャーのソーントンに、牧師パトリック・ブロンテの四女として生まれる。
姉がマリア、エリザベス、シャーロット、妹がアン。1820年、一家はハワースに移り住み、翌年母マライアを亡くす。
1824年、姉3人がランカシャーのカウアン・ブリッジ校に入ったため、11月の終わりにエミリーもここに入学した。だがこの学校は低地にあり非常に不衛生で、マリアは翌年5月、肺結核で死亡し、さらに1ヶ月後の6月にはエリザベスもやはり肺結核で後を追うように亡くなる。
姉妹3人共同の『詩集』を発表の後、それぞれ小説を書く。シャーロットは『ジェーン・エア』、エミリーは『嵐が丘』、アンは『ワイルドフェル屋敷の人々』を発表し、イギリス文壇に多大な影響を与えた。
この絵を描いたブロンテ家唯一の息子であったブランウェルは、酒と麻薬に溺れ生活が荒れ、1848年、31歳で急死。その葬式の折にエミリーは風邪をひき、医者の診察を受けて結核にかかっていることが判明したが、彼女は自分が病気であることを認めようとせず、薬を飲むことも拒否し、同年30歳で死去した。続いてアンも結核にかかり、翌1849年にスカーブラに移ったが、療養の甲斐もなく29歳で死去した。
ブロンテ家6人の子のうち、結局一番長生きをしたのは、妊娠中毒で乳児と共に亡くなったシャーロットの38歳だったというから凄まじい。
『嵐が丘』(Wuthering Heights)は、「最後のロマン主義作家」とされるブロンテ姉妹のひとり、エミリー・ブロンテが1978年、亡くなる1年前の29歳の時に発表した処女作品。姉妹が暮らしていたイギリス・ヨークシャーのハワースを舞台にした長編小説で、侘しく厳しい荒野(ヒース・ムーア)の自然を背景に、荒々しくかつ背徳的な物語が展開する。
なお、ケイト・ブッシュの「嵐が丘」(1978年)は、デビューシングルおよびデビューアルバム「天使と小悪魔」収録の歌曲。正確には、小説自体ではなく、テレビドラマ化された作品から着想を得ている。
<歌詞>強い風の吹きつける 荒れ果てたその場所で 2人はいつも草の上で 仲良くじゃれあってたの 焼きもちやきのあたしみたいに すぐに怒る人だった すごくステキで欲張りだった どうしていなくなっちゃったの? 捨てるなんてひどすぎる あなたに取りついてでも ずっと一緒にいたかったのに キライだったけど それでもあなたが大好きだった 真夜中に見る悪夢のなかで このままじゃ 上手くいかないって言われたから それであの懐かしい 嵐が丘のことは忘れたの
ケイト・ブッシュ/嵐が丘(1978年)
・沖田総司:新選組一番隊組長。1842(1839)-1868年、24歳?27歳で没。
・高杉晋作:幕末の尊攘志士。明治維新の直前に結核により病死。27歳で没。
・中原中也:詩人、歌人、翻訳家。30歳で没。
・樋口一葉:小説家、詩人、歌人。『たけくらべ』などで知られる。24歳で没。
・石川啄木:歌人、詩人。「一握の砂」などで有名。1912年、26歳で没。
など、若くして結核で亡くなった有名人は多い。
■夭折の音楽家
滝は、明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人で、「荒城の月」、「箱根八里」、「花」などの名曲を次々と生み出したことで知られる。
彼の代表作である「荒城の月」(作詞:土井晩翠)、は、「箱根八里」(作詞:鳥居忱)と並んで文部省編纂の「中学唱歌」に掲載された。
また、人気の高い曲のひとつである「花」は1900年(明治33年)8月に作曲された、4曲からなる組曲『四季』<1. 花 (作詞・武島羽衣)、2. 納涼 (詞・東くめ)3. 月 (詞・瀧廉太郎)、4. 雪 (詞・中村秋香>の第1曲である。
「荒城の月」は九州旅客鉄道の豊後竹田駅の列車到着時に利用客に向けて流され、「箱根八里」は、箱根登山鉄道等の発車メロディに使用されている。また、「花」は、東京メトロ銀座線浅草駅にてご当地メロディーとして使用されている。
そして、「お正月」、「鳩ぽっぽ」(「鳩」とは別物である)、「雪やこんこん」(文部省唱歌「雪」とは別物である)などは、日本生まれの最も古い童謡作品として知られるが、これらは1900年に編纂された幼稚園唱歌に収められた。
1901年(明治34年)4月、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ留学生として出国し、5月18日にドイツのベルリンに到着。同地で日本語教師を務めていた文学者の巌谷小波や、ヴァイオリニストの幸田幸、また海軍軍楽隊から派遣されたクラリネット奏者吉本光蔵(後に「君が代行進曲」作曲)などと交友を持ち、共に室内楽を演奏したりした。さらにライプツィヒに向かい、ライプツィヒ音楽院(設立者:メンデルスゾーン)に入学する。
文部省外国留学生として入学、ピアノや対位法などを学ぶが、わずか5か月後の11月に肺結核を発病し、現地の病院で入院治療するが病状は改善せず、帰国を余儀なくされる。
1902年(明治35年)7月10日にドイツを発ち、ロンドンを経由して10月17日に横浜に着く。その後は父の故郷である大分県で療養していたが、1903年(明治36年)6月29日、大分市稲荷町339番地(現:府内町)の自宅で死去した。
結核に冒されていたことから死後多数の作品が焼却されたという。作曲数が多かったと考える者もいるようだが、現在はっきりとその存在が確認されている作曲作品は34曲と決して多くはない(編曲作品も幾多か現存)。
アンドレ・リュウ/荒城の月(1901年)
花(1900年)
箱根八里(1901年)
童話雑誌「赤い鳥」に投稿した作品が北原白秋に認められ童謡作家となる。
俳句同人誌「曲水」にも参加。中山晋平らとともに「子供達の歌」を出版。雑誌「海国少年」の編集長も務めた。結核のため28歳で死去したため作品数は多くないが、「おもちゃのマーチ」(作曲:小田島樹人)、「背くらべ」(作曲:中山晋平) は、誰でも口ずさんだことのある曲だ。第977話:おもちゃの曲 昨日(3月3日)は何の日?
背くらべ(1923年)
彼が大学在学時、昨年亡くなった戦後歌謡界を代表する作曲家の一人であり、歌謡曲の作曲家として初めて文化勲章を受章した船村徹(1932 - 2017年、84歳で没、写真右)と出会い、作詞家活動を開始。
茨城県笠間市生まれの高野は東洋音楽学校で船村の2歳先輩。船村は、名前の由来となった栃木県船生村(現塩谷町)生まれで、2人とも音楽家を目指して上京した。売れない時期、バイトをして励まし合った。高野は言った。「東京に出た人間はいつかふるさとを思い出す。おれは茨城弁で作詞する。お前は栃木弁でそれを曲にしろ。そうすれば古賀政男も西条八十もきっと抜ける」。
当初はビクターレコード専属の作詞家としてデビューしたもののこれといったヒット曲もなく、鳴かず飛ばずの状態が続いたがもう後がないと思って売り込みに行ったキングレコードで春日八郎を担当していたスタッフの目にとまり、春日の歌唱による『別れの一本杉』が大ヒットして一躍名の知られる作詞家となった。
春日八郎/別れの一本杉(1955年)
その後コロムビア専属となっても、船村とのコンビで数々のヒット曲を生み出す。高度経済成長時代の当時、田舎のにおいが感じられる公男の詞による曲は集団就職などで都会に出てきた若者たちの心をとらえた。
しかし1955年、「別れの一本杉」のヒットから間もなく肺結核に侵され、翌年9月8日、国立水戸病院で死去、26歳。後に彼の生涯は松竹から『別れの一本杉』という題名で映画化された。
船村は高野の分を生きると決意した。2人で頑張ったハングリー精神を忘れぬように「演歌巡礼」と称して全国を回った。自分の誕生日に行う「歌供養」も、ヒットせず消えて行った多くの歌のためだけでなく、志半ばに倒れた高野さんの遺志と信じた。1995年に紫綬褒章を受章した際も「高野の代理人として」と話した。文化勲章を祝う会でも、高野との日々が紹介され、「男の友情」が歌われた。高野の墓には、船村の石碑がある。
ちあきなおみ/男の友情
彼女は本格的な音楽教育は受けていなかったが、サロンでのピアノ演奏家として活躍し自ら作曲も行っていた。1856年、18歳あるいは22歳ごろの時に作曲した『乙女の祈り』がパリの音楽ニュース雑誌に掲載され、その名が広く知られるところとなった。この曲を作曲したのち、J・バラノフスキと結婚し5人の子供をもうけたとされる。この曲を含め小品を35曲ほど作曲したが、1861年に病弱のためにワルシャワにて23歳あるいは27歳ほどで夭折。
東海道新幹線(JR東海)では、新横浜駅、東京駅などの安全柵開閉メロディに『乙女の祈り』を採用している。青森県では音響装置付信号機のメロディに使われている。
台湾では、ゴミ収集車が『乙女の祈り』をゴミの回収時に流す地域が多いため、台湾でも耳馴染みの人は多い。
ボンダジェフスカ/乙女の祈り(1856年)
■夭折ではないが結核で亡くなった有名人
ショパンは生涯3人の女性を愛したと言われている。
しかし、新しい愛は10年で破たんする。1847年7月、サンドがショパンに別れの手紙を送る。
病弱なショパンはますます健康がむしばまれ、遂に1849年10月17日、39歳の若さで息を引き取った。ショパンの病とその死因は明らかになっておらず、そのため医学的な議論の的となってきた。死亡診断書では死因は肺結核であるとされている。
1913年にフランスの音楽学者、ショパンの伝記作家のエドゥアール・ガンシュはこう記した。この早熟の作曲家の肖像画からは「この若者が結核に罹っていることがわかる。彼の肌は極端に白く、喉頭隆起が見られ、頬は落ち窪んでいる。また耳も結核に典型的な消耗を呈している」
ョパンの妹のエミリアの14歳での死因は結核であり、また父も1844年に同じ病に倒れた。
彼の遺言通り、葬儀はヴァンドーム広場の近く、マドレーヌ寺院で行われ、彼の作曲した「葬送行進曲」と、彼が敬愛する作曲家モーツァルトの「レクイエム」が演奏された。
そして彼の心臓は祖国ポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会の柱の壺に安置された。
ショパンの遺体は、パリ北方のモンマルトルにほど近いペール・ラシェーズ墓地の一画に埋葬され、出国の際、友人達から受け取った祖国ポーランドの「土」がかけられたそうだ。(写真)
5年ごとにワルシャワで開催されるショパン国際ピアノコンクールでは、ショパンの命日の10月17日が本選前のオフ日となり、この夜、聖十字架教会では、モーツァルトの「レクイエム」が演奏されるという。
5年ごとにワルシャワで開催されるショパン国際ピアノコンクールでは、ショパンの命日の10月17日が本選前のオフ日となり、この夜、聖十字架教会では、モーツァルトの「レクイエム」が演奏されるという。
ショパン/別れの曲(1832年)
「野ばら」は、日本ではシューベルト(1815年作曲)と並び、ハインリッヒ・ヴェルナーによるメロディーが広く知られている。
彼の父は教師で、プロテスタント教会のオルガニスト兼合唱隊指揮者住んだ。そこでオペラハウスのコーラス団長となり、並行して音楽教師として働き始めた。
シューベルトに感化されて作曲されたヴェルナーの「野ばら」は、彼が指揮を務めたブラウンシュヴァイク男性合唱団により1829年に初演され、すぐに人気を博して有名になった。その後ドイツ各地で公演していた彼だが、32歳頃に肺結核にかかり、33歳の若さで帰らぬ人となった。
彼の父は教師で、プロテスタント教会のオルガニスト兼合唱隊指揮者住んだ。そこでオペラハウスのコーラス団長となり、並行して音楽教師として働き始めた。
シューベルトに感化されて作曲されたヴェルナーの「野ばら」は、彼が指揮を務めたブラウンシュヴァイク男性合唱団により1829年に初演され、すぐに人気を博して有名になった。その後ドイツ各地で公演していた彼だが、32歳頃に肺結核にかかり、33歳の若さで帰らぬ人となった。
また、この村の集会場は、ハインリッヒ・ヴェルナー・ハウス と名付けられている。かつての東ドイツの時代には、キルホームフェルト近傍の中心都市ヴォルビス にあった2校の技術系の高等学校のひとつが、ハインリッヒ・ヴェルナー学校と名付けられていた。野ばら
ヴェルナー/野ばら(1829年)
正岡子規は結核を病み、喀血後、血を吐くまで鳴きつづけるというホトトギスに自らをなぞらえて子規(漢語でホトトギスの意)という号をもっぱら用いた。
俳句雑誌「ホトトギス」(1897年)の中で、季節の違いによる雲のことを「春雲は綿の如く、夏雲は岩の如く、秋雲は砂の如く、冬雲は鉛の如く」と表現している。
そして、病没前に床で書かれた『病牀六尺』が著名である。
結核で35歳を目前に死んだ子規が、その間際の日々をつづったものである。子規は病状のひどさについて率直に記しているが、確実に死に向かっているにもかかわらず、死に関して感傷的な文章を書いていない。
「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。……甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので」と、死の直前まで新聞を読んでは、社会について考えたりした。死とは 雲を愛でる【その3】
・高村光太郎:詩人・歌人・彫刻家・画家。1883-1956年、73歳で没、写真。
著名な芸術家・詩人であるとともに、美や技巧を求める以上に、人間の「道」を最期まで探求した人格者として、高村を支持する人は今も多い。
梶井基次郎の『冬の日』(1927年)、『冬の蠅』(1928年)は結核の主人公の焦燥感と絶望を描いた心象的小説である。
同じく梶井の『のんきな患者』(1932年)も結核の苦しみや、近隣患者が迷信的な民間療法(ヒトに由来する生薬)に縋る様子が描かれている。
堀辰雄の『風立ちぬ』(1937年)はサナトリウム(長期的な療養を必要とする人のための療養所)における末期患者を主人公にしたものである。美しい自然に囲まれた高原の風景の中で、結核に冒されている婚約者に付き添う「私」が、やがてくる愛する者の死を覚悟し見つめながら、2人の限られた日々を「生」を強く意識して共に生きる物語。堀自身も結核で長い病床生活を送り、病死している。
1939年の映画『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラ役と、1951年の映画『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワ役でアカデミー主演女優賞を受賞した。
1940年代半ばごろからは慢性の結核の発作に見まわれるようになり、最終的にはこの慢性結核がリーの死因となった。
映画「風と共に去りぬ」主題曲・タラのテーマ(1939年)