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破天荒な人生

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 前作、伊集院静「なぎさホテル」で、『彼ほど破天荒ではないが、自分も一時期崩れた生き方をしてきた』ことを告白してしまった。
 
 それで、恥ずかしながらこの機会にそんな自分の過去を振り返ってみた。
 

 以下は自分史を記すためのメモで、ほとんどの方には関心がないことなので、どうか遠慮なくパスして下さい。記事に関するコメントも不要です。


単身赴任生活
 
 「崩れた生き方」のスタートは、42歳で妻と子を実家に残し、首都圏に単身赴任してからだ。
 
 それまで家事は一切行ったことが無かった。一人暮らしの解放感とともに不安が募る。
 
 単身生活は6年に及んだ。当然、家事については何でも出来るようになる。今もその余韻は残り、アイロンがけ部屋の掃除はいつも自分がやっている。
 
 一人暗い部屋に帰るのは淋しい。休日、部屋でボツンといるのは辛い。
 
 自然に飲み屋ギャンブル(パチンコとマージャン)に足が向かう。経済観念はそこで破たんした。
 

 そして、一度ついたその習慣は、妻や子と再び同居しても治らなかった。


 それでも会社人生に関しては、50歳までさしたる荒波は押し寄せて来なかった。
 
A社→B社
 
 それが急変したのは、25年勤めた会社からその子会社に転籍して6年後、53歳のときだった。 
 
 予兆はあった。経営状況が悪化し、既に数名の指名解雇を行っていた。
 
 その後、捲土重来を期して会社の売却を決定し、ある会社の傘下に入る。
 
 それでも業績の低迷から抜け出すことは出来ず、遂に大規模な「希望退職」を募った。
 
 どの会社でも名前に恥じない「希望退職」などはない。管理職はていのいい「指名解雇」、一般社員も「諭旨解雇」のようなものだった。
 
 ほとんどの管理職と、数名の一般社員がこの希望退職に「応募」した。
 
 再就職に向けては一人ひとり再就職あっせん会社の担当が付く。
 
 初めて社会人になるとき以来の就職活動である。
 
 しかし、結果的にこの業界大手といわれる再就職あっせん会社は何の役にも立たなかった。
麻雀浸り
 
  ちょうどこの頃新横浜でマージャン屋を始めた友人から遊びの誘いがあった。会社の同僚で、在職中はよく共にマージャンをした仲間である。
 
イメージ 1 再就職活動は硬直状態に陥り、雀荘(写真)に入り浸る日が3ヶ月も続いた。
 
 レートは高い。1回ハコ点(点数が無くなる)でビリになると2万円が飛んでいく。
 
 3人打ちなので勝負が早い。そして、フリーマージャンなので、相手はほとんど知らない人たちばかりである。雀荘はいわば鉄火場であった。
 
 負けが込むと、支払いが出来ず、次第に2度と現れない客が増えてきた。
 
 資金については、わずかであるが退職金があったが、3ヶ月後にはそれもすっかり底について来た。
 

 この状態を見かねた先輩・友人が元の会社の子会社を紹介してくれ、契約社員で何とかその会社に潜り込むことが出来たのである。

 

これが、6年4ヶ月勤めたA社から、退職を経てB社への転職するまでの顛末である。(下図)


イメージ 2

B社→C社
 
 B社は今までいた会社と同じ親会社の子会社だ。
 
 親会社もリストラ旋風で多くの社員が会社を去った。その度合いが多きすぎて社員が不足するという皮肉な事態となり、自分のようなOBでも入社することが出来たのである。
 
 契約社員なので年俸契約をする。しかし、すぐにそれは反故になった。まだ会社は再建途上中というので給与は10%カットされていた。契約社員にも同様な賃金カットが及んだ。ボーナスも契約条件とは違っていた。
 
 そして、追い打ちをかけるように、55歳になると役職定年になるという制度が導入された。自分はその対象者であり、管理職を解かれた。
 
 これではもう自分がこの会社にいる意味はない。この給与では生活も出来ない。
 
 以前から派遣会社を一緒にやろうと声をかけてくれていた友人がいた。その話に乗った。
 
 それからたった6ヶ月であるが、過去に経験したこともない生活が始まる。
 

 実質的に一人で行う派遣会社は大変である。自分は起業家に向いていなかったし、そんな心構えも出来ていなかった。


失業経験
 
イメージ 3
 
 上図の通り、自分は50歳以降6社を経験した。これを見るだけでも平穏無事な人生を送れたと思う人はいないだろう。
 
 50歳以降の失業経験は3度ある。5回の転職のうち、失業保険を手にしたのは最初の失業の時だけである。後の2回は幸い退職して間髪をいれず転職出来た。
 
 次の職が早く見つかったのが、転落の階段に転がり落ちるのを防いだのだ。
 
 1度目のA社からB社の転職の際は失業保険を貰った。そして3ヶ月で再就職出来たので「再就職手当」というボーナスまでいただいた。
 
 派遣会社(C社を辞めた後の就職活動は悲惨だった。失業保険にも加入していないので収入は断たれた。1日でも早く仕事につかなければならない。どんな会社でも良かったがことごとく断られた。それでも運よく2ヶ月でD社に就職できた。
 
 D社は訳あって10ヶ月で退社した。そのとき既に56歳になっていた。57歳ももうすぐやってくる。再就職の厳しさは身にしみて感じていた。
 
 長期化を覚悟して、今は廃止されたようだが、横浜STビルにある「早期就職支援センター」「神奈川キャリア交流プラザ」の門をたたいた。
 
 それでも毎日就職活動するほどの案件はない。半ば開き直って同じく失業している女友だちと日帰り旅行を楽しんだ。
 

 それが極めて幸運で、わずか2ヶ月の就職活動でE社を定年の60歳まで働くことが出来たのである。

 

 そして60歳を超えF社で、今、50歳以降の勤務経験としては最長不倒距離を更新中である。


経済的破綻
 
 経済状態は滅茶苦茶になっていた。
 
 元々ストレスには弱い性格である。生活は荒れた。先の見通しが全く立たず、自殺こそ考えなかったが、蒸発テント生活がいつも頭に浮かんだ。
 
 今こうしていられるのは奇跡に近い。
 
 たまに転職経験を人に話すことがある。総じて「運も実力のうち」とおだててくれるが、そんなことはない。ただ単に「運」が良かっただけである。宝くじにすると特等賞ものである。
心の支え
 
 伊集院静はそんな自分の崩れかけた人生を蔑まなくて済む「星」の存在である。
 
 以前、週刊文春で連載していた彼のエッセイで「二日酔い主義」の一節。
 
 生きていれば、必ず、生きていた価値がわかる時間が訪れると、私は信じている。
 
 いかに生きるかという前に、まず生き続けることだ。
 
 出世、名誉、権力、金、といった類いのものなど何の価値もない。
 
 肝心は生きて生き抜くことだ。
 
 それはやがて誇りや品格に繋がるとも思う。  
 
 悔いのない人生はない。誰もが失敗し、あの時、ああしておけばよかったとか、無念の思いを背負って生きている。
 
 私はこの言葉を支えに生きているといっても過言でない。

 
 そして、彼の周りの友人の数にはとても及ばないが、いつも助けてくれた人たちに心から感謝したい。
 
 まだ恩返しの一つもしていないことに悔いが残る。


 人生の歌を。まずは戦前の曲から。
 
渥美清/裏町人生(原曲は1937年、上原敏&結城道子)
ディック・ミネ/人生の並木路(1937年)
 


水戸黄門主題歌/あゝ人生に涙あり(1969)
鶴田浩二/傷だらけの人生(1970)
 
 
 
 
 
 
 

美空ひばり/人生一路(1970年)
村田英雄/人生劇場(1976年)
 


吉田拓郎/人生を語らず (1974)
ザ・ナターシャー・セブン/私に人生と言えるものがあるなら(1979年)
 


テレサ・テン/浪花節だよ人生は(1984年)
石原裕次郎/わが人生に悔いなし(1987年)
 


中島みゆき/糸(インストゥルメンタル)(1998年)
 


 
 
 
 
 

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